三日
午後一時まで、時間があった。
黒城が出ていった後。
曲湾師も「俺は寝る」と言って消えた。
一人になった部屋で、私はベッドの端に座っていた。
することがない。
端末も本もない。
窓もない。
封印術式が低く唸っているだけの部屋。
「……暇だな」
呟いてから、少しだけ驚いた。
暇、という感覚があった。
昨日まで、こういう感情の名前が出てこなかった。
赤黒いウィンドウが、視界の端でいつもより静かに点滅している。
――【接続強度:低下中】
夢喰いのおかげかもしれない。
コンコン。
また扉がノックされた。
黒城か曲湾師か、と思って顔を上げる。
違った。
隔壁の隙間から、黒い長髪が覗いた。
「……夢喰い」
夢喰いが、静かに滑り込んでくる。
白い病衣。裸足。いつもと変わらない姿。
『起きてた』
「起きてた」
夢喰いはベッドの横まで来て、昨夜と同じ場所へ座った。
床に膝を抱えて。
こちらを見上げる。
「ありがとう」
素直に言った。
夢喰いが、少し首を傾ける。
「昨夜。夢、見なかった」
『よかった』
「黒城さんに聞いたけど」
夢喰いの黒紫の目が、静かにこちらを見る。
「他の人の夢には入らないって」
少し間があった。
『うん』
「なんで私には来たの」
夢喰いは膝の上で指を絡める。
考えているみたいだった。
しばらくして。
『零が、泣きそうだったから』
「……泣いてた?」
『泣いてなかった』
「じゃあ」
『でも、泣けなくて困ってた』
喉が詰まる。
そうか。
そういうことか。
感情を失いかけている。
怖いのか悲しいのかも分からない。
でも、何かがおかしいのは分かる。
泣けなくて困っていた。
そうだったのかもしれない。
「……よく分かったね」
『ずっと見てたから』
夢喰いは静かに答えた。
自慢でもなく。
言い訳でもなく。
ただ、そうだったから、という声だった。
「局長に会いに行く」
話題を変える。
夢喰いの目が少し変わった。
「知ってる?」
『知ってる』
「どんな人」
夢喰いは少しだけ考えた。
『うるさい』
「性格?」
『声が』
「……大丈夫かな」
『大丈夫じゃないかも』
「正直だね」
夢喰いは少しだけ笑った。
午後一時。
黒城が迎えに来た。
廊下を歩く。
第七拘束棟から出るのは、来た日以来だった。
管理局員たちとすれ違うたび、視線を感じる。
警戒。
好奇心。
恐怖。
色々混ざった目だった。
でも。
昨日より少し、気にならなかった。
「局長室は地上二階です」
黒城が歩きながら言う。
「地下じゃないんですか」
「局長は地下が嫌いなので」
「管理局の最高責任者なのに?」
「閉塞感があると言っていました」
なんか意外だった。
昇降機で地上へ上がる。
外の空気が、久しぶりだった。
窓から見える空が、白く曇っていた。
「……曇りだ」
「昨日から雨が続いています」
「そうですか」
学校が、遠い。
五島先生が、遠い。
でも。
今は、ここにいる。
黒城が足を止めた。
廊下の奥。
他より少しだけ大きい扉。
表札には何もない。
「着きました」
「ノックは?」
「必要ありません」
「なんで」
「どうせ開けてと言われるので」
黒城が扉を開ける。
その瞬間。
「来た来た来た来た!!」
甲高い声が飛んできた。
「遅い! 何分待ったと思ってるの!!」
「定刻です」
「体感では遅い!!」
思わず目を丸くする。
部屋の中は、異様だった。
壁一面に、数式が書き連ねられている。
床にも。
天井にも。
そこかしこに紙が散乱して、端末が積み上がっている。
そして。
その中心で。
小柄な女が立っていた。
年齢は三十代くらい。
目元まで垂れた前髪。
白衣がよれている。
手には何本もマーカーを握っていた。
「あなたが水瀬零ね!!」
「……はい」
「計算できない!!」
「すみません」
「なんで謝るの!! 謝る意味が分からない!! 謝るより説明して!!」
「説明できないです」
「なんで!!」
「私にも分からないので」
女は盛大に頭を抱えた。
「最悪!! データが何もない!! 変数が多すぎる!! そもそもあなたって何!!」
「高校一年です」
「それは知ってる!!」
黒城が静かに口を挟む。
「局長、落ち着いてください」
「落ち着いてる!!」
「落ち着いていません」
「これが私の平常運転です!!」
曲湾師が「変なやつ」と言った意味が分かった。
女――局長は、ぜえぜえと息を整えながら、改めてこちらを見た。
「……えっと」
急に声のトーンが落ちた。
「怖がらせたかしら」
「少しだけ」
「ごめんなさいね」
さっきと別人みたいな声だった。
局長は散乱した紙を踏みながら、椅子へ腰を下ろす。
「座って」
向かいの椅子を指す。
紙が三枚乗っていた。
「……」
「あ、ごめんなさい」
局長が紙を払いのける。
私は椅子に座った。
黒城は扉の横に立ったまま動かない。
「改めて」
局長が、前髪の隙間からこちらを見る。
目が、鋭かった。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに。
「私は《演算士》。管理局長です」
「水瀬零です」
「知ってます」
局長は端末へ視線を落とす。
「あなたのことを計算しようとして、三十七回エラーを出しました」
「三十七回……」
「同じ人間でそれだけ出たのは初めてです」
嬉しくない記録だった。
「なぜ計算できないか、仮説はあります」
「……何ですか」
局長が端末を置く。
真っ直ぐ、こちらを見た。
「あなたの能力は、確率を書き換えます」
「確率?」
「《BET》の本質は、賭けじゃない」
局長は続ける。
「あなたが賭けた瞬間、世界の”確率”が塗り替えられます」
「……意味が」
「私の能力は、未来の確率を演算します」
局長の声が、静かになった。
「でも、あなたがいると、計算途中で確率が変わる」
「……ズルって言われました」
「ズルじゃない」
局長は首を振る。
「もっと根本的な問題です」
一拍。
「世界には、変えられない確率があります」
「変えられない?」
「例えば太陽が明日も昇る確率。例えば人間がいつか死ぬ確率」
局長の目が細くなる。
「あなたは、その”変えられないはずの確率”に干渉できる可能性があります」
頭の奥で、赤黒いウィンドウが静かに揺れた。
――【確率干渉能力保有確認】
「……だから計算できない」
「そうです」
局長は少しだけ息を吐いた。
「演算が追いつかない。あなたが次に何をするか、私には読めない」
「それって、怖くないですか」
正直に聞いた。
局長は少しだけ黙った。
「怖いです」
真顔だった。
「でも」
局長が端末を手に取る。
「怖いものを閉じ込めておくより、近くで見ていた方が怖くない」
「……そういう理由で解放したんですか」
「半分はそうです」
「残り半分は」
局長の目が、真っ直ぐこちらへ向く。
「扉が開こうとしています」
その言葉だけで、空気が変わった。
「私の計算では、深層への扉は七十二時間以内に限界を迎えます」
「限界って」
「初代《勝負師》が鍵として機能しなくなる、ということです」
黒城の気配が、一瞬だけ変わった。
「……初代が、消えるってこと?」
「あちら側で、消耗しています」
局長の声に、初めて迷いが混じった。
「正確には、既にほとんど残っていない」
喉が詰まる。
「だから探していたのかもしれません」
局長が呟く。
「次の鍵を」
赤黒いウィンドウが、静かに点滅する。
――【鍵照合:進行中】
「……七十二時間って」
「今から三日以内です」
三日。
あの言葉が、また頭の奥に響く。
初代《勝負師》は、《寿命》追加確認から三日後に消失事件を起こした。
今回も、三日。
「水瀬零」
局長が静かに呼んだ。
「一つだけ、聞いていいですか」
「……何ですか」
「あなたは、扉を閉じたいですか」
部屋が静かになった。
黒城も。
局長も。
誰も喋らない。
私は、自分の手を見た。
指先が、少し冷たい。
怖いのか。
怖くないのか。
まだ、分からない。
でも。
「……閉じなかったら、どうなるんですか」
「深層の扉が開きます」
「それって」
「東京第一ダンジョン消失事件の規模では、済みません」
空気が凍った。
「前回は三百人でした」
局長の声は、静かだった。
「今回は、もっと大きい」
沈黙。
私は視線を上げる。
局長が、まっすぐこちらを見ていた。
怖がっている。
でも。
目を逸らさない。
「……決めるのは私なんですか」
「そうです」
「なんで」
「鍵だからです」
シンプルな答えだった。
赤黒いウィンドウが、視界の端で静かに揺れる。
――【次のBETをお待ちしております】
いつもの文字。
でも。
今日だけは。
その意味が、少し違って見えた。
「……考えます」
それだけ言った。
局長は頷いた。
「時間はあまりありません」
「分かってます」
「でも」
局長が、少しだけ笑った。
さっきまでの騒がしさとも、真剣な顔とも違う。
ただ、静かな笑いだった。
「計算できない人間が、どんな答えを出すか」
一拍。
「それだけは、楽しみにしています」
その言葉が。
妙に。
胸に残った。




