夢のない朝
目が覚めた時。
夢を見ていなかった。
それだけで。
少しだけ、息ができた気がした。
天井。
白い照明。
壁一面の封印術式。
ここが第零封鎖区画だというのを、一瞬だけ忘れていた。
隣を見る。
夢喰いはいなかった。
ベッドの端。
床に座っていた場所だけが、少し冷たかった。
来ていた証拠だけが、残っている。
「……」
何も言えなかった。
でも。
悪くない感じだった。
身体を起こす。
指先が、まだ少し冷たい。
視界の端で、赤黒いウィンドウが静かに点滅していた。
――【観測継続】
変わらない。
昨日と同じ文字。
でも。
「……あれ」
何かが違った。
よく見ると。
ウィンドウの端に、小さな数字が浮かんでいる。
――【接続強度:低下中】
「低下……?」
昨日まではなかった表示だった。
どういう意味か分からない。
いいことなのか、悪いことなのか。
そんな時に限って、ウィンドウは何も教えてくれない。
コンコン。
扉がノックされた。
「失礼します」
隔壁が開く。
黒いコート。銀色の目。
黒城だった。
「おはようございます」
「……朝ですか、これ」
「午前六時です」
「管理局って朝早いんですね」
「あなたが気を失っていた時間が長かっただけです」
そういうものか。
黒城は部屋へ入り、端末を操作する。
「確認したいことがあります」
「また?」
「また、です」
淡々としていた。
私はベッドの上で膝を抱える。
「……BETのウィンドウに、昨日と違う表示が出てます」
黒城の動きが、一瞬だけ止まった。
「内容は」
「接続強度が低下中、って」
沈黙。
黒城は端末へ何かを入力した。
「夢喰いが来ましたね」
「……なんで分かるんですか」
「監視カメラです」
「映ってたんだ」
「映っていました」
なんか恥ずかしい。
「夢喰いの干渉で、深層との接続が弱まった可能性があります」
「それって、いいこと?」
「悪いことではありません」
珍しく、否定しなかった。
「ただし」
やっぱり続きがある。
「一時的な可能性が高い」
「そうですよね」
「深層存在はあなたを既に覚えています。接続強度が下がっても、繋がりそのものは消えません」
分かってた。
分かってたけど。
「……夢喰いに、礼を言わないといけないな」
黒城は少しだけ黙った。
「彼女が自発的にあなたへ干渉したのは、初めてです」
「え」
「これまで、夢喰いは収容対象の夢へ入ることを拒否してきました」
それは。
知らなかった。
「……なんで私には来たんでしょう」
「本人に聞いた方がいいかもしれません」
そうだった。
夢喰いは多分、聞けば答えてくれる。
コンコン。
また扉がノックされた。
「黒城ー、俺も入っていい」
聞き覚えのある声。
「どうぞ」
黒城が答えると、隔壁が開いた。
曲湾師が入ってくる。
右腕に、白い処置跡が見えた。
ノイズ化は、昨夜より随分落ち着いている。
「腕、大丈夫ですか」
「医療班に怒られた」
「そうでしょうね」
「黒城にも怒られた」
「怒っていません。確認しただけです」
「怒ってたろ絶対」
曲湾師は壁へ背中を預ける。
いつもの姿勢だった。
「で、状態どう」
「接続強度が下がってます」
「夢喰いか」
「みたいです」
曲湾師は少し考えた。
「あいつ、人の夢に入るの嫌がるんだけどな」
「黒城さんも言ってました」
「ふーん」
気のない返事だったけど。
目が、少し違った。
「まあ、良かったんじゃないの」
それだけ言った。
黒城が端末を閉じる。
「本題に入ります」
空気が変わった。
私は膝を抱えたまま、黒城を見る。
「水瀬零。管理局としての正式決定が出ました」
「……何ですか」
「あなたの危険度指定を、暫定災害から」
一拍。
「管理局直属特例収容へ変更します」
「どう違うんですか」
「災害指定は、処分を前提とした管理です」
黒城は続ける。
「特例収容は、協力関係を前提とした管理です」
「……協力」
「あなたが《勝負師》である以上、深層との関わりは避けられません」
それは分かってた。
「管理局は、あなたを敵として扱う理由がなくなりました」
「でも監視はする」
「します」
「正直だな」
「嘘をついても意味がないので」
曲湾師が壁から背を離す。
「要するに、もう隔離じゃないってこと」
「完全な自由ではありません」
「でも、ここに閉じ込めたままじゃない」
「……はい」
思ったより、大きい変化だった。
「なんで急に」
私が聞くと。
黒城は少しだけ黙った。
「昨夜、局長と話しました」
「局長?」
「管理局の最高責任者です」
「なんて言ったんですか」
黒城の銀色の目が、真っ直ぐこちらへ向く。
「深層への扉が開こうとしている以上、鍵を閉じ込めていても意味がないと」
鍵。
その言葉が、また胸の奥に刺さる。
「……局長って、どんな人ですか」
「会えば分かります」
「会うんですか」
「今日、面会の予定が入っています」
聞いてなかった。
曲湾師が、気怠そうに言う。
「局長はまあ……変なやつだから」
「変って」
「俺が言える立場じゃないけど」
嫌な予感がした。
「ちなみに局長の職業、何ですか」
黒城は端末へ視線を落としたまま答えた。
「《演算士》です」
演算士。
未来を予測する。
数百万通りの未来を計算して、最適解を出す。
「……私のこと、計算できないって言ってた人」
「ええ」
「怒ってませんか」
黒城は少しだけ間を置いた。
「今朝も廊下で叫んでいました」
「計算できないことに?」
「計算できないはずのものが目の前にいることに」
「面倒くさい人だな……」
曲湾師が小さく笑う。
「でもまあ」
壁に背中を預けながら、気怠そうに天井を見る。
「計算できないってことは」
一拍。
「お前の未来、誰にも決まってないってことだから」
その言葉が。
妙に。
静かに、胸に落ちた。
赤黒いウィンドウが、視界の端で点滅している。
――【次のBETをお待ちしております】
いつもと変わらない文字。
でも。
今は少しだけ。
遠くに見えた。
「……面会、何時ですか」
「午後一時です」
「分かりました」
私は息を吐いた。
窓のない部屋。
冷たい空気。
封印術式の低い唸り。
変わらない場所。
でも。
少しだけ、今日は違う気がした。




