忘れた
夜が来たのか、朝が来たのか分からなかった。
窓がない。
時計もない。
天井の照明だけが、変わらない白さで部屋を照らし続けている。
私はベッドに横になったまま、天井を見ていた。
眠れない。
眠ろうとも思えない。
目を閉じると、赤い廊下が見える気がして。
視界の端で、赤黒いウィンドウが静かに点滅していた。
――【観測継続】
「……うるさい」
呟いても、消えない。
分かってた。
壁一面の封印術式が、低く唸っている。
機械音。
遠くで管理局員が歩く足音。
静かなはずなのに。
頭の奥だけが、ずっと騒がしかった。
その時。
カツン。
扉の外から、小さな音がした。
身体が、反射的に固まる。
でも。
「……夢喰い?」
返事はなかった。
代わりに。
重い隔壁が、静かに開いた。
黒い長髪。白い病衣。裸足。
夢喰いが、静かに立っていた。
「……入れるんだ」
『扉、薄いとこ分かる』
「それ管理局に言わないの」
『言っても意味ない』
まあ、そうかもしれない。
夢喰いは部屋へ入ってくる。
足音が、ほとんどしない。
ベッドの横まで来て、床へ静かに座った。
膝を抱えて。
こちらを見上げる。
黒紫の瞳が、暗い部屋でほんのり光って見えた。
「……何しに来たの」
『いる』
「それだけ?」
『それだけ』
そういうものか。
私は天井へ視線を戻す。
沈黙。
でも。
さっきより、少しだけ静かな沈黙だった。
「……夢喰いってさ」
『ん』
声じゃない。
直接頭に響く返事。
もう慣れてきた。
「ここ、長いの?」
少しだけ間があった。
『長い』
「どのくらい」
『数えてない』
夢喰いは膝へ顎を乗せる。
『最初は怖かった』
「ここが?」
『色々』
その言葉だけが、妙に重かった。
「今は?」
夢喰いは少しだけ考えた。
『慣れた』
「……それ、いいことなの」
返事がなかった。
でも。
夢喰いは小さく首を傾けた。
分からない、という意味だと思った。
「私さ」
気づいたら、口が動いていた。
「感情、なくなってるらしいんだけど」
『知ってる』
「怖いとか悲しいとか、よく分からなくなってる」
『うん』
「なのに」
少しだけ、言葉が詰まる。
「夢喰いが来たら、少し楽になる気がする」
言ってから、少し恥ずかしかった。
でも。
夢喰いは笑わなかった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
『私も』
「え」
『零が来てから、少し楽』
「……ここ、他に話せる人いないの」
『みんな怖がる』
そうか。
夢喰いは、私を怖がらなかった。
私も、夢喰いを怖いとは思わなかった。
お互い、普通じゃないから。
そういうことなのかもしれない。
「一個聞いていい」
『うん』
「私のこと、ずっと夢で見てたって言ったじゃないですか」
夢喰いが静かに頷く。
「なんで私だったの」
少し長い沈黙。
夢喰いは膝へ顎を乗せたまま、どこか遠くを見ていた。
『線が見えてた』
「線?」
『零から、深層まで続く線』
ぞわり、と背筋が冷える。
「最初から?」
『生まれた時から、たぶん』
生まれた時から。
白い髪も。
あの線も。
全部、最初から決まっていたみたいに。
「……嫌だな」
そう呟いた。
夢喰いは否定しなかった。
『嫌だよね』
その一言が、なんか好きだった。
慰めでも励ましでもなく。
ただ、そうだよね、と言ってくれる。
視界の端で、赤黒いウィンドウが静かに点滅している。
――【観測継続】
消えない。
たぶん、しばらく消えない。
「ねえ」
『ん』
「眠れないんだけど」
夢喰いが、こちらを見る。
「夢見たくないし」
『じゃあ』
夢喰いが立ち上がった。
床に座ったまま、ベッドの端へ寄りかかる。
そして。
冷たい手が、そっと私の頭に触れた。
「……何」
『悪い夢、来させない』
「できるの」
『得意』
確かに。
夢喰いだった。
「……頼む」
目を閉じる。
冷たい手の感触。
頭の奥のノイズが、じわじわ遠のいていく。
赤い廊下が、見えない。
深層の目も、見えない。
ただ。
冷たくて、静かな感覚だけが残った。
「……夢喰い」
『ん』
「名前、あるの?」
少し間があった。
『忘れた』
忘れた。
その二文字が、じわり、と胸に刺さった。
「そっか」
それ以上は、聞けなかった。
目を閉じたまま。
ゆっくり、息を吐く。
意識が、遠くなっていく。
その境界で。
夢喰いの声だけが、かすかに聞こえた。
『おやすみ、零』
返事が、できたかどうか分からない。
でも。
その夜だけは。
夢を見なかった。




