向こう側
視界が、赤く染まっていた。
警告音。
ノイズ。
赤黒いウィンドウが、視界いっぱいに増殖していく。
――【BET受付中】
――【対象:深層存在】
――【賭け金:認識領域】
――【制限時間】
数字が減っていく。
「……っ」
頭が痛い。
というより。
“頭の中を触られている”。
そんな感覚だった。
「零!」
曲湾師の声。
でも、遠い。
「おい、何見えてる!」
ギギギ。
目の前で、古びたレバーが小さく軋む。
まるで。
“待っている”みたいに。
『だめ』
夢喰いが、強く私の手首を掴んだ。
冷たい。
でも。
その感触だけは妙に現実だった。
『それ、深いものと繋がる』
「もう繋がってる気しかしないんだけど……」
息が浅い。
暗闇の奥。
“目”が、まだこちらを見ていた。
視線が合っていないはずなのに、
見られている感覚だけが消えない。
赤黒いウィンドウが、再び点滅する。
――【対象が観測を開始】
――【BET成立まで残り:7】
「は……?」
数字が減っていく。
「おい夢喰い!」
曲湾師が低く叫ぶ。
「こいつ今どこまで引っ張られてる!」
『浅層と深層の間』
「最悪じゃねえか……!」
曲湾師が空間へ手を伸ばす。
瞬間。
空気が、ぐにゃり、と歪んだ。
視界の一部が捻じ曲がる。
でも。
赤黒いウィンドウだけは、消えない。
「切れねえ……!」
初めて。曲湾師の声に焦りが混じった。
夢喰いが、小さく首を振る。
『深層側が掴んでる』
「クソ」
数字が減る。
――5。
頭の奥で、誰かが囁いた。
――引け。
知らない声だった。
低い。
遠い。
なのに。
妙にはっきり聞こえる。
「……っ」
心臓が嫌な音を立てる。
引いてはいけない。
それだけが、本能で分かった。
でも。
声が消えない。
頭の奥へ、
じわじわ入り込んでくる。
『零』
夢喰いの声。
『見ちゃだめ』
黒紫の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
『思い出しちゃだめ』
「……何を」
夢喰いは答えない。
その代わり。
廊下の奥の暗闇が、ゆっくり蠢いた。
ぞわり、と空気が震える。
赤い光の届かない場所。
そこから、“何か”が近づいてくる。
足音はない。
でも。
来ている。
分かってしまう。
曲湾師が舌打ちする。
「おいおい……浅層まで出てくんなって」
その時。
暗闇の奥で、何かが笑った。
――ギ、
音とも声ともつかない、嫌な響き。
同時に。
視界のウィンドウが激しく明滅する。
――【BET成立まで残り:3】
「零!」
曲湾師が叫ぶ。
「今から視界ごと捻じ切る! 一瞬意識飛ぶぞ!」
「は……?」
「黙って飛べ!」
空間が、軋む。
曲湾師の周囲で、
夢界そのものが悲鳴みたいに歪み始めた。
夢喰いの髪が、ふわりと浮く。
『壊れる』
「知るか!」
曲湾師が右手を振り抜いた。
瞬間。
視界が、ぐにゃり、と折れ曲がる。
廊下。
赤い光。
暗闇。
全部が、紙みたいに捲れた。
その奥。
一瞬だけ。
“もっと下”が見えた。
「――っ」
理解できない景色だった。
空。海。都市。
全部が上下逆さまに折り重なっている。
巨大な影。無数の赤い目。
そして。その中心で。
“誰か”がこちらを見ていた。
人間だった。
でも。
人間じゃなかった。
赤黒いウィンドウが、悲鳴みたいなノイズを吐き出す。
――【観測エラー】
――【認識汚染発生】
――【権限衝突】
――【■■■■】
次の瞬間。
夢喰いが、私の目を塞いだ。
冷たい手。
世界が真っ暗になる。
『見ないで』
その声だけが、近かった。
同時に。
何かが、こちらへ手を伸ばした気がした。
ぞわっ、と背筋が凍る。
赤黒いウィンドウが、
視界の奥で激しく点滅する。
――【BET成立まで残り:1】
レバーが、目の前にある。
引けばどうなるのか分からない。
分からないのに。
視線が離せなかった。
頭の奥で、何かがずっと囁いている。
――引け。
「……っ」
違う。
こんなの、触っちゃ駄目だ。
そう思う。
でも、引かなければ“あれ”が来る。
そんな確信だけが胸の奥にあった。
呼吸が浅い。空気がじわじわ近づいてくる。
「零!!」
曲湾師の叫び。夢喰いの冷たい手。
赤黒いウィンドウ。
全部が重なる。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
私は、震える指をゆっくり伸ばす。
止まれ。
そう思った。
でも。
指先は止まらない。
そして、そっとレバーへ触れた。
その瞬間。
ぞわり、と。
冷たい何かが、腕を這い上がった。
「――っ!?」
反射的に手を引こうとする。
でも。
動かない。
指先が、何かへ吸いついているみたいだった。
赤黒いウィンドウが、視界中央で静かに開く。
――【接触確認】
――【深層干渉開始】
――【適合判定】
「零!」
曲湾師の声。
空間が激しく軋む。
周囲の廊下が、ぐにゃぐにゃと歪み始めていた。
夢喰いが、私の腕を掴む。
『だめ』
その声は、今までで一番焦っていた。
『まだ、向こう側に掴まれただけ』
「……っ」
息が詰まる。
知らない景色が、頭の奥に流れ込んでくる。
赤い海。
崩れた都市。
逆さまの空。
そして。
無数の“目”。
「ぁ――」
頭痛。
視界が揺れる。
赤黒いウィンドウが、激しく点滅した。
――【深層存在が注視しています】
――【侵食率上昇】
――【認識固定開始】
「チッ!」
曲湾師が空間を蹴る。
次の瞬間。
私の周囲だけ、
空間が切り離されたみたいに歪んだ。
景色が、ズレる。
暗闇の“目”が、一瞬だけ遠ざかった。
「零! 聞け!」
曲湾師の声が近づく。
「そっち見るな! 意識持ってかれるぞ!」
「無理……!」
声が震える。
頭の中に、
“何か”が入り込んできている。
理解したくないのに。
勝手に、知らない情報が流れ込んでくる。
『零』
夢喰いが、静かに私の額へ触れた。
冷たい。
でも。
その瞬間だけ、ノイズが少し遠のく。
『名前を忘れないで』
「……名前?」
『自分の』
ぞくり、とした。
赤黒いウィンドウが、また静かに開く。
――【BET成立まで残り:0】
空気が、止まった。
その瞬間。
指先の先で、重い感触が沈む。
「――ぁ」
違う。
引いてない。
まだ、
自分では動かしてない。
なのに。
何かが、
勝手に進んでいく。
ギギギギ――……
嫌な音。
夢界全体が、震え始めた。
暗闇の奥で。
“何か”が、嬉しそうに笑った。




