BET受付開始
落ちる。感覚だけがあった。
身体が沈んでいるのか、
世界が遠ざかっているのか分からない。
音がない。重力もない。
ただ、冷たい暗闇だけが続いていた。
「――零」
誰かの声。
黒城じゃない。
もっと近い。
耳元で囁くみたいな、柔らかい声だった。
視界がゆっくり開く。
「……っ」
暗い。
けれど完全な闇じゃない。
赤い非常灯みたいな光が、
長い廊下をぼんやり照らしていた。
壁。扉。天井。
全部どこか歪んでいる。
いや。
“現実感が薄い”。
そんな感じだった。
「ここ……」
息を呑む。
見覚えがある。
夢で見た場所だ。
どこまでも続く廊下。
赤い光。
無数の扉。
そして。
下へ続いていく感覚。
頭の奥で、赤黒いウィンドウが静かに浮かぶ。
――【夢界層へ接続】
――【同期率:上昇】
「は?」
意味が分からない。
でも。
今までより、ウィンドウが“近い”。
そんな気がした。
カツン。
後ろで足音が鳴る。
反射的に振り返る。
そこにいた。
黒い長髪。白い病衣。黒紫の瞳。
小窓の向こうにいた少女が、
静かにこちらを見ている。
「……夢喰い」
無意識に、その名前が口から零れた。
少女が小さく瞬きをする。
『うん』
直接、頭へ声が響く。
『みんな、そう呼ぶ』
怖い。
なのに。
不思議と、嫌悪感はなかった。
少女はゆっくり近づいてくる。
裸足だった。
硬い床を歩いているのに、ほとんど音がしない。
「ここ、どこ」
『夢界』
「……そのまんまだな」
少女が少しだけ笑う。
でも。
その笑い方は、年相応に幼かった。
『ここは、落ちた人が来る場所』
「落ちた?」
『深いところ』
曖昧な言い方だった。
でも、何となく理解してしまう。
ここはたぶん。
現実と、
“下”の境界だ。
「私はどうなったの」
『半分こっち』
「半分?」
『まだ戻れる』
その言葉に、少しだけ安心しかけた。
――その瞬間。
廊下の奥で、何かが動いた。
「……っ」
黒い。人影みたいな何か。
でも。
輪郭が定まっていない。
煙みたいに揺れている。
それが、ゆっくりこちらを向いた。
ぞわっ、と全身が粟立つ。
見た瞬間、本能が叫んだ。
アレは駄目だ。
夢喰いが、私の前へ一歩出る。
『見ないで』
声と同時。
空気が、ぴたりと止まった。
黒い影が動きを止める。
そして。
じわり、と後退した。
まるで、夢喰いを警戒しているみたいに。
「……今の何」
『下にいるもの』
「....雑」
夢喰いは少し考える。
『名前がないの』
「怖」
本当に怖い。
夢喰いは再びこちらを見る。
『零』
「……何」
『やっと来てくれた』
その言葉に、胸がざわつく。
「私たち、会ったことある?」
夢喰いは首を傾げる。
『いっぱい見てた』
「それ会ったとは言わない」
『でも零、ずっとここ見えてた』
言葉が詰まる。
夢。赤い廊下。扉。
“下へ行け”という声。
全部、ここへ繋がっていた?
『みんな途中で壊れた』
夢喰いがぽつりと言う。
『でも零は、壊れなかった』
ぞくり、とした。
「……何の話」
『だから来れた』
理解できない。
理解したくない。
でも。
赤黒いウィンドウが、静かに点滅する。
――【適合性確認】
――【深層権限候補】
「何なのこれ……」
頭が痛い。
その時。
空間が、ぴしっ、と軋んだ。
夢喰いの表情が変わる。
『あ』
「え?」
『来た』
次の瞬間。
廊下の空間が、ぐにゃり、と捻れた。
そこから。
眠そうな顔が、にゅっ、と現れる。
「うお、マジで夢界じゃん」
「――曲湾師?」
空間の裂け目から、曲湾師が半分だけ顔を出していた。
「何その登場?」
夢喰いが、じっと曲湾師を見る。
『……また来た』
「人を不法侵入者みたいに言うなよ」
『不法侵入』
「否定できねえな……」
曲湾師は空間の裂け目を無理やり広げながら、
こちらへ身体を滑り込ませた。
その瞬間。
夢界の廊下全体が、ぐにゃり、と歪む。
「うわ」
思わず壁へ手をつく。
「ここで空間いじらないでよ……」
「いや無理。俺、空間干渉しかできねえし」
それもそうだった。
夢喰いが少し不機嫌そうに曲湾師を見る。
『ここ壊れる』
「壊れねえよ。たぶん」
『たぶんって言った』
「細けえな」
なんか普通に会話してる。
いや待って。
「え、知り合い?」
二人が同時にこっちを見た。
『知らない』
「知らん」
「仲良いな……」
曲湾師は頭を掻く。
「何回か見たことあるだけ」
『勝手に入ってくる』
「だって気になるし」
『迷惑』
「辛辣」
でも。
夢喰いは本気で嫌がってる感じではなかった。
むしろ。
少しだけ、慣れている。
「……曲湾師って、夢界入れるんですか」
「浅いとこだけな」
曲湾師は周囲を見回す。
「深層までは無理。行ったらたぶん帰れん」
軽い口調なのに、少しだけ真面目だった。
「でも零は、普通に引き込まれてる」
その目が細くなる。
「やっぱお前、相当ヤベえな」
「嬉しくないです」
「だろうな」
夢喰いが、静かに私の袖を掴いた。
『まだ近い』
「近い?」
『下のもの』
ぞわり、と空気が冷える。
廊下の奥。
赤い光の届かない暗闇が、ゆっくり蠢いた。
何かいる。
しかも。
さっきより近い。
「……っ」
本能的に後ずさる。
その瞬間。
暗闇の奥で、“目”が開いた。巨大だった。人間じゃない。生物ですらない。
見た瞬間、脳が理解を拒絶する。
赤黒いウィンドウが、激しく警告を鳴らした。
――【深層存在を確認】
――【観測禁止】
――【観測禁止】
――【直視危険】
「零、見るな!」
曲湾師が叫ぶ。
同時に。空間が捻じ曲がった。
視界そのものが、強制的に逸らされる。
「――っ!?」
頭痛。
吐き気。
でも。
さっきみたいに、完全には見えなかった。
夢喰いが、私の前へ立つ。
黒い長髪が、初めてゆらりと揺れた。
『だめ』
その声だけで。
暗闇の“何か”が、一瞬だけ止まる。
廊下全体が軋んだ。
曲湾師が舌打ちする。
「チッ……こんな浅層まで覗いてくんなよ」
「何なんですかアレ」
「説明すると長い!」
「雑」
「簡単に言うと、“下にいる終わってる奴ら”」
「全然わかんない」
夢喰いが、小さく呟く。
『見つかると、持っていかれる』
「どこに」
『もっと下』
意味はわからない。でも、行きたくはない。
その時。
赤黒いウィンドウが、不意に静止した。
ノイズが消える。
そして。
見たことのない表示が浮かぶ。
――【深層権限反応】
――【対象個体:夢喰い】
――【深層同期反応】
「……え」
夢喰いが、ゆっくりこちらを見た。
黒紫の瞳。
その奥で。
微かに、赤い光が揺れた。
『やっぱり』
「何が」
『零、“鍵”なんだ』
空気が止まる。
曲湾師の顔から、完全に笑みが消えた。
「……は?」
その瞬間。
赤黒いウィンドウが、
視界中央へ強制表示された。
――【深層干渉増大】
――【侵食率上昇】
――【緊急権限解放】
そして。
見慣れたレバーが、ゆっくり現れる。
「……は?」
ギギギ、と。
古びたスロット音みたいなノイズ。
零の右手が、何かを掴むみたいに宙で止まる。
曲湾師の表情が変わった。
「おい、何見えてる」
でも。
ウィンドウは止まらない。
――【BET受付開始】
――【対象:深層存在】
――【賭け金:認識領域】
「……認識領域?」
夢喰いの顔色が変わる。
『だめ。それ、“自分”を削る』
「......何それ」




