観測継続
赤黒いウィンドウが、静かに開く。
――【BET成立】
瞬間。
世界が、反転した。
「――――」
音が消える。
上下感覚が消える。
視界が、一瞬で真っ黒に塗り潰された。
落ちている。
そう思った。
でも。
どこへ落ちているのか分からない。
身体があるのかすら、曖昧だった。
暗闇。
ただ、それだけ。
そのはずなのに。
“目”だけが見えていた。
赤い。
無数の目。
遠くにあるはずなのに、すぐ近くで瞬いている。
「……っ」
息が、出来ない。
視線が合った瞬間。
頭の奥へ、何かが流れ込んできた。
知らない記憶。
赤い海。
崩れた塔。
空に吊るされた都市。
そして。
巨大すぎる“何か”。
理解した瞬間、壊れる。
本能でそう分かった。
『見つけた』
声が響く。
耳じゃない。
頭の奥へ、直接触れてくるみたいな声だった。
「――っ!」
逃げたい。
でも。
身体が動かない。
“目”が近づいてくる。
いや。
違う。
最初から、すぐ近くにいたんだ。
認識した瞬間、距離が消えた。
ぞわっ、と鳥肌が立つ。
『零』
不意に。
冷たい声が、近くで響いた。
夢喰いだった。
『そっち見ないで』
その瞬間。
ノイズが弾けた。
警告音。
軋む空間。
曲湾師の怒鳴り声。
一気に現実感覚が戻ってくる。
「戻れ零!!」
視界が激しく揺れた。
夢界が崩れかけていた。
床が裂ける。
壁が溶ける。
赤い照明が、血みたいに滲んでいる。
曲湾師が、片手で崩れかけた空間を無理矢理固定していた。
その腕が、小さく震えている。
「っ……マジで洒落になってねえぞこれ……!」
赤黒いウィンドウが、激しく点滅する。
――【接続継続中】
――【深層存在が注視しています】
――【認識固定開始】
「は……?」
理解した瞬間、背筋が凍った。
見られているんじゃない。
“覚えられる”。
そういう感覚だった。
『だめ』
夢喰いが、私の肩を強く掴む。
『見返したら終わる』
「な、にが……」
『向こう側に、認識される』
その瞬間。
暗闇の奥の“目”が、一斉に開いた。
「――っ!!」
頭の奥へ、大量のノイズが流れ込む。
知らない言葉。
知らない感情。
知らない景色。
脳が焼けるみたいに熱い。
「零!!」
曲湾師が空間を蹴った。
次の瞬間。
視界へ、大量の“線”が走る。
空間が、無理やり裂かれた。
バキバキバキ――!!
夢界が悲鳴を上げる。
『壊しすぎ』
夢喰いが呟く。
「知るか!! 今はこいつ引っぺがす方が先だ!!」
曲湾師の右腕が軋む。
空間の裂け目から、黒いノイズが漏れ出していた。
それでも。
止まらない。
「零!!」
曲湾師が怒鳴る。
「自分の名前言え!!」
「……ぇ」
「いいから言え!!」
頭が痛い。
意識が霞む。
でも。
夢喰いの声だけは、妙にはっきり聞こえた。
『忘れないで』
私は、震える唇を動かす。
「……み、なせ」
ノイズ。
赤い目。
知らない景色。
全部が混ざる。
「水瀬……零……」
瞬間。
視界中央のウィンドウが、
激しくノイズを走らせた。
――【認識競合】
――【同期失敗】
――【接続不安定化】
「今だァ!!」
曲湾師が右手を振り抜く。
世界が、裂けた。
視界が真っ白に染まる。
浮遊感。
落下感。
そして。
次の瞬間。
私は硬い床へ叩きつけられていた。
「がっ……!」
息が詰まる。
冷たい床。
白い天井。
規則的な照明。
「……は」
現実。
戻ってきた。
でも。
視界の端で。
赤黒いウィンドウだけが、
まだ静かに点滅していた。
――【観測継続】
赤黒い文字が、視界の端で静かに点滅していた。
「……っ、は……」
呼吸が乱れる。
冷たい床へ手をつく。
硬い。
現実の感触だった。
白い天井。
無機質な照明。
低く唸る機械音。
空気には、焼けた金属みたいな臭いが混じっている。
ここは――第零封鎖区画の隔離観測室だった。
でも。
頭の奥では、まだ微かなノイズが鳴り続けている。
キィィン――……
耳鳴り。
違う。
もっと近い。
脳の内側を、
何かが引っ掻いているみたいな音だった。
「零」
低い声。
顔を上げる。
曲湾師が、壁へ背中を預けながらこちらを見ていた。
右腕が、肘の辺りまで黒くノイズ化している。
輪郭が時々ぶれる。
まるで。
空間へ溶けかけているみたいだった。
「……その腕」
「見るな。酔うぞ」
軽く言う。
でも。
息は荒い。
かなり無理をしたのが分かった。
夢喰いは、少し離れた場所で静かに立っていた。
黒紫の瞳が、じっとこちらを見ている。
『戻ってきた』
「……ギリギリな」
曲湾師が吐き捨てる。
「普通ならそのまま深層側に落ちて終わりだ」
ぞくり、と背筋が冷えた。
思い出す。
赤い目。
あの声。
『見つけた』
「――っ」
瞬間。
赤黒いウィンドウが、激しくノイズを走らせた。
――【反応検知】
「うわっ……!?」
頭を押さえる。
視界がブレる。
「思い出すな!!」
曲湾師が即座に怒鳴った。
「そいつ、認識に反応してやがる!」
「……なんで分かるの」
一瞬。
空気が止まった。
曲湾師が、ゆっくり視線を逸らす。
「……前にもいたんだよ」
「え」
「深層側に“見られた奴”が」
低い声だった。
でも。
その言い方だけで、嫌な想像が頭に浮かぶ。
「……その人、どうなったの」
沈黙。
曲湾師は答えない。
代わりに、小さく舌打ちした。
頭痛。
吐き気。
赤黒いウィンドウが、じわじわ増えていく。
――【観測深度上昇】
『零』
夢喰いが近づく。
冷たい指先が、そっと私の額へ触れた。
その瞬間。
頭の奥のノイズが、少しだけ遠のく。
『まだ繋がってる』
「……は?」
『完全には切れてない』
呼吸が止まる。
曲湾師が、小さく舌打ちした。
「お前、“向こう側”に覚えられたな」
白い照明が、一瞬だけ赤く滲んだ。
「……覚えられたら、どうなるの」
沈黙。
数秒。
曲湾師が低く答えた。
「深層存在は、“見た奴”を辿る」
「……」
「だから本来、目を合わせた時点で終わりなんだよ」
喉が乾く。
視界の端で、赤黒いウィンドウが小さく震えた。
――【再接続要求】
「っ……」
鳥肌が立つ。
その時。
ピシッ、と。
どこかで、ガラスへヒビが入るみたいな音がした。
三人の動きが止まる。
隔離観測室。
白い照明。
低い機械音。
その中で。
壁際の空間だけが、ゆっくり歪んでいた。
「……おい」
曲湾師の声が低くなる。
「冗談だろ」
空間が、ぐにゃり、と沈む。
そこだけ。
現実じゃなくなる。
赤黒いノイズが、水みたいに滲み出していた。
夢喰いが、静かに目を細める。
『もう来てる』
「は……?」
次の瞬間。
歪んだ空間の奥で。
“目”が開いた。
「――っ!!」
赤い。
巨大な目。
深層で見たものと同じだった。
視線が合う。
瞬間。
頭の奥へ、大量のノイズが流れ込んだ。
――【観測接続】
「チッ!!」
曲湾師が床を蹴る。
空間が歪む。
次の瞬間。
壁ごと、“目”の周囲が捻じ切れた。
バギンッ!!
破裂音。
白い壁が砕け散る。
警報が鳴る。
でも。
消えない。
裂けた空間の奥で。
赤い“目”だけが、静かにこちらを見ていた。
「……黒城は」
零の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
曲湾師が、一瞬だけ黙る。
「……来れねえよ」
「え……」
「あいつ今、“向こう側”見に行ってる」
空気が止まった。
夢喰いの瞳が、静かに揺れる。
その瞬間。裂けた空間の奥で。
“何か”が、小さく笑った。
赤黒いウィンドウが、ゆっくり開く。
――【観測対象:固定完了】
曲湾師の顔から、笑いが消えた。
「……最悪だ」
曲湾師の声が、やけに静かだった。
警報音が鳴り続けている。
赤色灯が、
隔離観測室を断続的に照らしていた。
でも。
裂けた空間の奥にいる“目”だけは、
そんなものに一切反応しない。
ただ。
じっとこちらを見ている。
「っ……」
頭痛。
視線が合うたび、
脳の奥へノイズが流れ込んでくる。
知らない景色。
知らない言葉。
知らない感情。
それが、無理やり頭へ押し込まれてくる。
『見ないで』
夢喰いの声。
冷たい手が、そっと私の視界を遮る。
その瞬間だけ、ノイズが少し弱まった。
「夢喰い、そのまま押さえとけ」
曲湾師が前へ出る。
右腕のノイズ化は、肩口近くまで広がっていた。
空間へ滲むみたいに、輪郭が崩れている。
「曲湾師……その腕……」
「気にすんな」
短く言う。
でも。
その声には、余裕がなかった。
曲湾師が、裂けた空間へ右手を向ける。
空気が軋む。
ギギギ……と、
金属が捻じれるみたいな音。
空間そのものを、無理やり閉じようとしているのが分かった。
でも。
閉じない。
赤い“目”が、ゆっくり細くなる。
笑った。
そう見えた瞬間。
視界の端で、
赤黒いウィンドウが激しく明滅した。
――【再接続進行中】
「な……」
次の瞬間。
隔離観測室の床へ、
黒い染みみたいなものが広がった。
じわり。
じわり、と。
「おい」
曲湾師の声が低くなる。
「それ見んな」
でも。
もう見えてしまった。
黒い染みの中で。
“何か”が動いた。
人影。
いや。
違う。
人の形を真似しているだけだ。
輪郭が曖昧で、
ところどころノイズみたいに崩れている。
なのに。
“目”だけが、異様にはっきりしていた。
赤い。
無数の目。
「――っ!?」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
人影が、ゆっくりこちらを向く。
関節がおかしい。
首が、あり得ない角度で傾いていた。
『来る』
夢喰いが呟く。
次の瞬間。
黒い人影が消えた。
「え――」
視界から消えた、そう思った瞬間。
真横にいた。
「っ!!」
反応より先に、曲湾師が空間を蹴る。
バギンッ!!
空気が砕ける。
黒い人影の身体が、空間ごと捻じ曲がった。
でも。
止まらない。
ノイズを撒き散らしながら、人影の腕がこちらへ伸びる。
長い。
異常なくらい長い腕。
指先が、私の頬へ触れかけた瞬間。
――バチンッ!!
青白い光が弾けた。
人影が吹き飛ぶ。
「……は?」
床へ転がった銀色の杭。
そこから、青白い電流が走っていた。
入口側。
警報灯の赤に照らされながら、
一人の女が立っている。
長い黒髪。
鋭い目。
黒いコートの裾が、静かに揺れていた。
黒城だった。
「お前ら、騒がしすぎだ」
低い女の声。
その瞬間。
裂けた空間の奥にいた“目”が、
初めて大きく揺れた。




