第26話 夜宴/暗い昼
ぱちり、ぱちり、と火のはぜる音が単調に響く。即席の暖炉の中で、火の粉が舞い飛んだ。暖炉の前ではフウが丸くなって寝転んでいた。尻尾が時折、炎のように揺れる。彼女は酒を呷りながら、暖炉の火をじっと見ていた。
視界を埋め尽くすほどだった吹雪は、すっかり勢いを減じて、僅かに細雪がちらほら舞う程度になっている。雲間から顔を出した太陽の熱が、じわりと山の空気を暖めていた。フウとローザによる結界は、凍結を広げ雪を降らせるという魔女の呪いを抑え込んでいた。
『これが、この山本来の状態のようにゃ』
『大分暖かくなったな』
火炎術に秀でたローザとフウの二人がいれば、凍結の呪いに関してはひとまずなんとかなりそうだ。いずれ、きちんと呪いを解く方法を考えるべきだろうけれど。
僕たちが今いるのは、魔女、フィアルカの館のすぐそばだ。樹を斬り倒して木材を得て、バラックを作った。いかんせん、素人の手になるので、子供の作ったできの悪い工作のような有り様だ。吹けば飛びそうな小屋が館と並んでいると、館まで妙に安っぽく見えてくる。
ローザを膝に乗せて、これまた安っぽい椅子を揺らしながら、遠くの景色を見る。昼だと言うのに、影が下りて薄暗い。遠く眼下に霞む森は静まりかえってどこまでも伸びている。所々、青い結晶のようなものが森を割るようにして伸びている。廃棄されたマナ結晶の山だ、と暫く考えてから察した。
この森も、自然そのままのようでいて、人の手によって変わってしまっている。魔女は、この光景を見て何を思うだろうか。二万年の歳月を噛み締めて絶望するのか、それとも擦りきれた心で哀しみすら感じず受け入れるのか──。
血の気の失せて蝋を思わせる青白い肌、空色の暗い輝きを放つ瞳、細かな氷の粒が凝り気だるげに垂れる長い睫──フィアルカの冴え冴えとした美貌が脳裏に浮かぶ。
『魔女の気持ちは分からないでもない』
ぽつり、とローザが言った。真紅の瞳が、窓越しに黒い館を見据えていた。
『まともな話し手もなく、たった一人で長い時を苦しんで生きてきたのだろう。呪いを解かなければ凍結が世界を覆う。だから呪いを解くための研究をしてきた。しかし呪いを解くことは、結局魔女の死につながる』
「死?」
『うむ。あれは、不老ではない。不死だ。刺されようが焼かれようが、病もうが狂おうが、決して死ねない。現象ではなく概念に属する呪いだ』
「いま一つ、その辺のリクツはよく分からないです」
眉根を寄せる僕を、ローザは首を巡らせて見やると、教え子に語りかけるように言った。
『大雑把に言うと、魔女は、意識を除いて、二万年前のある時点で存在を固定されている。今例えば魔女が首を刎ねられたとしよう。我らから見れば確かに首を刎ねられている。しかし魔女は、本当は二万年前の存在だ。だから首を刎ねられたという事実はなかったことになり、首を刎ねられていない魔女が変わらず今ここにいるという結果だけが残る』
「……難しいですね」
なんだか哲学みたいで頭が痛くなってきた。
「要するに呪いがある限り絶対に死なないんですよね? 何か問題があるんですか?」
『うむ。恐らく、呪いを解いた瞬間、魔女は死ぬ』
淡々と告げられた言葉の意味を理解するのに、秒針が半周するほどの時間を要した。
「……二万年前で、存在を固定されているから」
『呪いを解けば二万年の歳月が襲い掛かる。初めからいなかったことになり、体は崩れて塵と消えるだろう』
思ったよりヘビーな状況だ。昔、怪談か何かで読んだ気がする。異世界に囚われた子供たちを助けたと思ったら、時間の流れが襲い掛かり、子供たちは白骨になってしまう……。そんな話だ。
「……フィアルカが言っていた死ぬための研究って、そういうことですか」
『だろうな。解かなければ世界が滅びる。解けば死ぬ。苦しみを分かち合おうとしても、凍結の呪いが阻む。苦しみを紛らそうとしても、眠ることも疲れに囚われることすらもできない。悪質だ』
唇を噛む。火の爆ぜる音が、人間の苦悩を知らぬげにパチパチと静寂を割って響いていた。
死。死か。自分の腹を軽く撫でる。自分が死んだ瞬間は、まざまざと思い出せる。エレベーターに体を挟まれたとき、最初体が真っ二つになったかと思った。次いで激痛に襲われ、状況を確認して妙な笑いがこみ上げてきた。死は、馬鹿馬鹿しかった。何かを成し遂げたかった僕が、必要な遺伝子を幾つか欠いた惨めな実験マウスのように、無様に手足をばたつかせながら、何も成すことのなく死ぬのは滑稽だった。そしてどうしようもなく恐ろしかった。今でも、あの瞬間を思い出すと体が震える。魔女も、この苦しみに耐えてきたのだろうか。生に疲れながらも拭い去ることのできない死への恐れが、雪に閉ざされ、他者と触れ合うことも満足に出来ない彼女を今でも苛んでいるのだろうか。それを考えると、ひどく心が痛んだ。
考え込んでいると、心配げにローザが顔を覗き込んできた。小さな手が、そっと僕の頬に置かれた。
『あまり、思いつめるな。全てのものを救えるわけがない。ましてや、外に出ることすら拒むような相手を引き摺り出すことなど』
「……拒んでないですよ」
ローザの頭を撫でながら、呟く。
「本当に拒む気なら、僕を嫌っているなら、あの時、僕たちの馬鹿騒ぎに付き合う必要はなかった。僕に呪いや魔族のことを話す必要もなかった。本当は、疲れて、心を閉ざして、それでも諦めきれずに待っていたんじゃないでしょうか。手を差し伸べられるのを」
『……救いたいのか?』
「救いたいなんて、そんな傲慢なこと言いませんよ。僕はただ、彼女に幸せになって欲しいんです」
『汝の、性分ゆえか』
「ええ」
軽く、目を伏せた。
「そりゃ、彼女のことを忘れるのは簡単ですよ。目を逸らして耳を塞いで、こうやってローザや桜お姉ちゃんやリリアさんを抱きしめて、デートをして体を重ねて、愛されてるんだと満足して……でもそんなの僕じゃないんです。そこで諦めるくらいなら、この世界に来る必要もなかった。ロリババアを求める必要すらなかった。前世で、大学を出て就職して、結婚して子供を作って、実家で掘り出した児童書を見て子供時代の淡い思い出を回想して、枯れた桜の木に思いを馳せて老いていって……そんな人生でもよかった。そうしなかったのは、諦めるのがいやだったから」
僕と向き合うよう姿勢を変えて、両の掌を僕の胸に押し当てて耳を傾ける彼女に、優しく微笑んだ。
「愛しているから。僕の全てをかけてでも、思い切り抱きしめたいんです」
ローザの腰に回した手に力を込める。人形のように細く美しい肢体が、燃えるような熱を持って押し付けられた。目を閉じて、ローザはそっと頭を僕に預けた。
『……そうだな。そうでなければ、我らの歩む道は全く異なっていただろう。桜は現れ出でず。リリアは余生を隠遁して過ごし。我は消えうせ。イズラ・フロウは神として留まり。シャオは病に命を散らしていた。我ら五人、本来関わらず、あるいは敵対すらしたものたちがこうして一同に会するのは、汝の存在なくしては有り得なかった』
『……それが自分好みの女でハーレムを作るためなんだから、本当に迷惑極まりない男にゃ。暴風、とでも言うか……』
フウが寝返りを一つ打った。金色の瞳が呆れたような、楽しむような、微妙な感情を湛え、暖炉の炎の輝きを照り返し揺れていた。
魔女。彼女を説き伏せるのは容易ではない。そのための方策は、ある。うまくいくかどうかなんて分からないが。
「深く考えるよりは、勢いで無理矢理押し切ったほうがいいんですよね、こういうのは」
目を閉じて、物思いにふける。昨日、魔女に追い出された後。僕たちは作戦会議を開いた──。
**********
「要するに、常冬の魔女──フィアルカは、呪われたまま長い時間を過ごしすぎて精神的に疲れてしまって、もう人と会いたくないと」
「まあ、昨日の話を総合すると、そうかの」
魔女の館のすぐ側にバラックを組み、フウとローザによる強固な反凍結の結界を敷いて、僕たちは話し合いを行った。
「そこで宴会ですよ」
『全然分からんにゃ。何でそうなるにゃ』
何言ってんだコイツ、とばかり呆れた表情でフウが言った。対し、不敵に笑い返して、ば、と文字の書かれた紙を広げて壁に張り付ける。書かれた文字を読み上げた。
「つまりですね、
↓魔女、生きるのに疲れた。引きこもり中
↓皆で宴会。楽しそうにする
↓魔女、外が楽しそうだな。覗いてみよう
↓魔女引っ張り出す。宴会に参加
↓魔女、楽しい気分になる
↓説得。いきるってすばらしい
↓やったねイロハ、ロリババアが増えるよ!
ざっとこんな感じです」
「……おい最後。やめんか」
桜お姉ちゃんが半眼で突っ込む。リリアさんが首をかしげた。
「まあ、分からなくはないですけれど……。うまくいきますかね?」
「確証はありません。けれどいけると思っています。凍結を抑える方法があると僕たちが言ったのに、彼女は拒みました。つまり重要なのは彼女の呪いにどう対処するかではなく、彼女に生きる気力を取り戻させること。暗いところに一人で閉じこもっていれば、気分が落ち込むのは当たり前です」
「まあ、そうかもしれんが……」
あまり気乗りしない様子だったが、説得を重ねて、この路線で行くことに決定した。
「とにかく人を集めます。宴会を盛り上げるには何といっても数です。今のところ一番確実なのは、信徒たちですね。桜お姉ちゃん、シャオさん。彼らを連れてきてもらえますか?」
「うむ。よかろう」「ショウチ、した」
二人が頷くのを確認する。術に優れた桜お姉ちゃんと、教会側の事情に詳しいシャオさん。二人いれば、こちらは大丈夫だろう。
「フウは凍結の呪いを中和してください。僕たちが呪いに対抗できるだけの力があるという、魔女に対するデモンストレーションです」
『分かったにゃ』
腕組みをして、フウが不敵に笑う。
「ローザ。さえずりのラーツェを介して神様たちを呼び集めてください」
『神を?』
「はい。魔炎のイズラ・フロウを降したことで僕に感謝している神も多いと聞きました。せっかくですから、手を貸してもらいましょう。どれくらい応じてくれるかは分かりませんが」
『ふむ……。よかろう、やってみる』
ローザがこくり、と頷きを返した。
「リリアさんは……そうですね……」
「山を下りて森に言ってみましょうか?」
悩む僕に、助け舟を出してくれた。
「森を追われた獣人や妖精たちでも、この国に留まったものは多少います。その集落を探して、人を集めてみましょう。ただ酒を飲めると言うだけで、集まってくるものはいますから」
「ハイエルフの方たちはいないでしょうか? 寿命の長い彼らからなら、魔女の話を聞けるかも」
「恐らく、いないでしょうね。私が言うのもなんですが、ハイエルフは大概森深くに篭って、そうそう人前に姿を見せませんから」
「そうですか。じゃあ、獣人と妖精の集落。お願いします」
「分かりました。ついでに、酒と食べ物も調達してきましょう」
そんな感じで、やることが決まったのが昨日の夜だった。
**********
「さえずりのラーツェと連絡はとれましたか?」
『うむ。我ら神は本来遍在する存在であるゆえ、距離の遠近は意味をなさぬ。今朝、会話した。できるだけ知り合いを伴って行く、と言っていた』
「それは重畳」
軋む椅子に体を預ける。ローザの体温と重みを感じながら、顎に手を当てた。
「問題は、僕の方なんですよねぇ」
僕自身の予定としては、手の開いたフウとローザを伴って、この地域の凍土竜や霜の巨人でも誘えればいいなあ、といったものだった。そこまで深く考えていたわけではない。ただこの辺の土地に詳しい彼らなら魔女のことを多少知っているかもしれないという期待があったのと、あとはただ単純に近くにいるから声をかけやすそうだという、それだけだ。
むう、と唸って、外を改めて眺める。昼だと言うのに、太陽が出ているはずなのに、影が落ちて薄暗い外の景色を眺める。たらり、と冷や汗が流れた。
「……いや、まさか向こうから来るとは」
『うーむ……』『しかもアホみたいな数にゃ……』
三人揃ってぼやく。館を取り巻くのは、無数の恐竜に似た姿と、体を木々の皮でできた服で覆い、真っ白な髭をたくわえた巨大な偉丈夫──凍土竜と霜の巨人だった。それも尋常な数ではない。合わせて百に届くかという数の巨体がひしめき合い、屋敷とバラックを囲んでいた。今日の昼ごろ、フウの魔術によって館の周囲の凍結が緩和されたころから徐々に集まり、今のような状態になったのだった。
『凍結の呪いが強すぎて、霜の巨人や凍土竜ですら、呪いの中心である屋敷に今まで近づけなかったのは分かるけどにゃ』
『どうしてわざわざここに集結したのか、それが不明だな。あの魔女、何か恨まれることでもしたのか?』
託宣で何度か呼びかけてみたが、彼らから答えは返らなかった。取り巻く集団の中で一際体躯の大きい、火傷跡の残る凍土竜が、静かにこちらに眼差しを注いでいる。二度目に魔女の館を訪れたときに見た凍土竜だ。
『あれが、群れの長か?』
『いかにも曰くありげだにゃ。きっと魔女に群れをいたぶり殺されて怒りに燃えているのにゃ。復讐に来たのにゃ』
『いやいや。あれはきっと魔女の元恋人であろう。種族を超えた道ならぬ恋に身をやつし、新たに現れた男に嫉妬しながらも魔女の幸福を願わずにはいられないのだ』
……聞こえないのをいいことに、二人して好き勝手言っている。爬虫類を思わせる彼らの双眸は感情を悟らせない。真意はどこにあるのだろうか? 取り敢えず、すぐに襲ってくることはなさそうなので、手を出さないでおこう。
『外のことはよかろう、それより──』
ローザが意味ありげに微笑んだ。繊細な指先が口紅でも引くように、ツウ、と唇をなぞる。小動物じみた顔に似合わない妖艶な仕草にどきりとした。
『折角二人きりなのだ。もっと構え』
ん、と頭を突き出してくるローザに苦笑を返して、頭を撫でてやる。燃えるような金色の髪の手触りが心地よい。
『……いや二人きりじゃないにゃ。何普通に無視してるのにゃ?』
『生娘が何か言っているな。子供は寝る時間だぞ?』
『……ああ゛? 何ほざいてんだ薄汚い虫ケラ』
ドスの効いた声で牙を剥き、フウが立ち上がってローザに詰め寄る。暫く睨み合った後、ク、喉の奥で笑って、と冷ややかな侮蔑の表情を見せた。
『君なんて四百万年単位で処女じゃないかね? ついこの間貫通したばかりのクセに、この情欲の神に大層な口を利くものじゃないか!』
『汝もその体では経験がなかろうに』
ふふん、と余裕の表情で、ローザが挑発するように流し目を送った。
『情欲の神。なるほど肉の交わりには長けているようだ。だが所詮、獣の交合だな。愛を伴わない交わりなど、燃えたたん』
ローザは僕から身を離してフウの耳元に口を近づけ、耳打ちでもするように囁いた。
『言っておくがな。いろはは──凄いぞ?』
『……ふん?』
片眉を跳ね上げ、フウが僕を見やる。……。微妙な沈黙が漂う。やがて、フウは僅かに頬を染めて視線を逸らした。
『……そんなに凄いのかにゃ?』
『うむ。こう、顔を真っ赤にして我の名前を呼びつつ、必死に腰を動かすのがな。いい。実に、いい』
『……ふうん』
『キスされつつ中で果てる感触が、な。腹の奥から満たされていくような心地だぞ。何度も何度も、愛の証を刻み付けられて……脱力した体を抱きとめられて、耳元で愛を囁かれながら余韻に浸るのも最高だな』
『……ふうん。ふうん』
素っ気無いようで、耳と尻尾はピクピク動いている。金色の瞳が潤んだように見えた。……あ、凄い嫌な予感。腰を浮かせて逃げようとしたが、疾風のごとき速さで腕を取られ組み伏せられた。僕の上に覆いかぶさり、フウが匂いつけでも
するように首根を寄せてきた。
「ちょ、待ってください周りを見てくださいよ! 凍土竜と霜の巨人たちが見てるでしょう!?」
『むしろ興奮するにゃ』
『然り』
「変態だー!」
『フウ、汝は前から攻めろ! 我は後ろを落とす!』
『承知!』
「何ちょっと格好良く言ってるんですか腹立つな! って言うかあなたたち本当は仲いいんじゃないですか!?」
『心外だ。こんな女と仲がよいなど。だろう?』
『全くにゃ』
事前に打ち合わせでもしていたんじゃないかというくらい息の合った動作で頷きあいながら、着物に手をかける。この展開はもう抵抗するだけ無駄か──。僕が諦めかけたとき、
『ちゃおー。さえずりのラーツェのお出ましですよ、と。ローザ、久しぶ──』
バン、と戸を開けて、翼を負った壮年女性が一人、入ってきた。ラカシュの温泉街で出会った情報の神、さえずりのラーツェ。僕に常冬の魔女について教えてくれた神である。厚手の外套にマフラー、手袋に帽子、翼には厚い毛皮をかけている。彼女は人好きする微笑を浮かべようとして、部屋の中の様子を見やって硬直した。
『……。何してんの?』
半裸で床に寝そべる僕と、その服を引っぺがそうとするロリババア二人を見やり、さえずりのラーツェの顔から表情が抜け落ちた。
『……古い友人に会えるとウキウキしていたら、友人がかつての宿敵と3Pを決め込もうとしていた件について。これも寝とられって言うのかしら。……取り敢えずあなたたち、そこに正座しなさい』
「え、いや……」
『いいから。正座』
仮面のような顔で淡々と呟く彼女に、三人して冷や汗を流した。着物の乱れを直しつつ、妙な迫力に押されるようにしてラーツェの前に揃って正座した。腕組みをして、見下ろしてくる。
『いやそりゃね、ヤることきっちりヤっとくのも大事よ? 言葉で好き好き言ってるだけじゃ伝わらないしね。けれど年甲斐というものがあるでしょ。あなたたちも仮にも神と元神なんだからさ。こんな衆人環視の中でする、普通?』
『いや……その』
『……にゃー』
『イロハもイロハよ。ちゃんとビシッと言ってやりなさいな』
「う。済みません……」
ぐうも音も出ない。フウはバツが悪そうに頬を掻きながらそっぽを向き、ローザは身を縮こまらせている。
ため息を一つついた後、ラーツェは外套を脱いで椅子に腰掛けた。
『まあ今更だけどね。あなたたち──特にイロハをそんな簡単に矯正できるなら苦労ないわ』
「……え。僕ですか?」
『あなたが元凶でしょうが。さながら誘蛾灯ね』
『……我らは蛾なのか?』
『せめて蝶ぐらい言って欲しかったにゃ』
ぼやきつつも、ラーツェに熱い茶を淹れて出した。ラーツェに向き合うようにして、僕たち三人も椅子に腰掛けた。
リリアさんの持ち物である金属製の携帯カップは、装飾性に乏しく、熱いものを飲みづらい。息を吹きかけながら、さえずりのラーツェは茶を口に含んだ。ほう、と軽く息を吐く。彼女の背後で、火がめらめらと燃えていた。
『ま、それはともかく、よ』
表情を切り替えて、笑みを浮かべた。
『やー、難儀したわ。肉体に入るのなんて久しぶりでね。ついはしゃいじゃって、麓から歩いてきたのよ』
「それは大変でしたでしょう」
『年ねー。いや若い体に入ることはできるんだけどさ。この体の方がなじむのよ。あれね、根っからオバサン属性なのね』
小太りの体を震わせてひとしきり笑った後、深く椅子に体を沈みこませる。懐かしむような表情が、カップの水面にさざめきながら映るカップを指先でいじりながら、独白するようにラーツェは言った。
『……この地域はね、私の故郷なの。当時は汚染されたマナ結晶なんてなくてね。獣人もたくさん住んでいた』
さえずりのラーツェは足を組みながら背もたれに体を預けた。
『常冬の魔女に会ったのは、私が神になって、故郷のこの地を訪れてから。凄く綺麗で……そして何よりも好奇心旺盛な子だった』
「好奇心旺盛?」
おうむ返しに尋ねる。あの冷ややかで無感動を形にしたような顔が、好奇心という言葉にどうしても結び付かなかった。
『そう。私が情報の神だと告げたら、目を輝かせてね。私の旅の話をせがんできた。魔術も多少、教えて……まあ、すぐに超されちゃったけど。学者肌っていうのかしら。自分で色々魔術を作るのが大好きだった。学者という言葉すらなかった昔の話よ……』
懐古の念を忍ばせて、さえずりのラーツェは語る。ふと、翼を揺らしながら首を廻らして、外に目を向けた。
『彼ら──凍土竜と霜の巨人たちは、この地域の最も古い住人よ。フィアルカは、彼らとも付き合いがあった。食べ物を分けあったり、ささやかな祭りを催して騒いだり……私もちょくちょく、獣人の友達を呼んだりしてね。楽しかったなあ。そんなのが一万年余り続いた……』
「一万年ですか」
気の遠くなるような話だ。魔女の年齢が二万歳前後だから、その生涯の半分近くは魔女も楽しく過ごしていたようだ。
「でも、今の彼女は、他人と関わろうという感じではないですよね」
僕の問いに、さえずりのラーツェは足を組み換えて、目を伏せた。
『……凍土竜の寿命が、およそ一万年。霜の巨人だと数千年くらい』
語る口調が沈みこむような暗い響きを帯びた。
『知り合いの獣人や魔人が死ぬたび、彼女は泣いた。一万年余りをずっと、ね。想像できる? 貧弱な私たちの精神で、それでも耐えられたのは、一緒に泣いてくれるものたちがいたから』
僕は遠くに見える凍土竜を眺めた。純白の鱗は気の遠くなるような歳月を跳ね返して日光と雪の中で燦と輝いている。人間とは全く異なる姿だが、その瞳には高い知性のきらめきが見られた。
『それでも、そんな彼らでも、永遠には生きられない。彼女がまだ外見どおりの幼かった少女のときから知り合いだった凍土竜たちが、一頭、二頭と倒れて──彼女は少しずつ、笑わなくなっていった。古参の最後の一頭が倒れたとき、彼女は親交を絶って館にこもった』
『惰弱だにゃ』
鼻を鳴らすフウをキッと睨んで、さえずりのラーツェは厳しい口調で言った。
『私たちは望んで神となった。彼女は私たちとは違う、永遠の停滞に耐える覚悟なんてないの。そして一人でそれに耐えられるほど強くもなかった』
『ふうん? それを知っていながら、あの女を引きこもりのまま放っておいたのかい、君は?』
いたぶるようなせせら笑いを浮かべるフウに、ラーツェは唇を噛んで言葉を詰まらせた。
『……そう。そうよ。私は躊躇した。時間の流れが苦悩を取り払ってくれる、下手に引き摺り出せばあの子を傷つける、今は待つのが懸命だ……自分にそう言い訳して、私は逃げ続けた。そんな訳ないのにね。時間の流れこそが、あの子を苦しめるものなんだから。私が長く躊躇っている間に、凍結の呪いが強まって、凍土竜や霜の巨人たちですら館に近づけなくなっていった……』
力なく笑って、ラーツェは僕に哀しげな視線を送った。
『軽蔑する? 神様なんて呼ばれていい気になって、でも私たちはあなたが思うほど強くも誇り高くもないの。私には勇気がなかった。ローザが魔炎のイズラ・フロウに敗れて炎の神でなくなったと聞いたときもそう。私は何もできなかった。イズラ・フロウに立ち向かうことも、ローザを救い出すことも、何も……』
『ラーツェ……』
ローザは呟いて、しかしそこからは何も言えなかった。どんな慰めの言葉も、ラーツェの苦しみを増すだけのように思えた。ただじっと、その真紅の瞳で古い友人を見つめ、膝に置かれた手に自身の掌を乗せた。ラーツェもまた、ローザを見つめ、その手を握り返した。
『あなたが新たに神となったと知ったとき、嬉しくて……哀しくて、悔しかった。本当は私、とっくの昔にあなたのことなんて諦めていたんだって気付いて、……私はこんなに惨めなのに、異世界から来た子供に、あっさりローザを救い出されて、嫉妬して……一晩中泣いた。私自身の弱さ、愚かさ、どうしようもなさを、あの日ほど明確に理解したときはなかった……』
ラーツェは強く唇を噛んだ。目は微かに潤んでいたが、彼女の最後の矜持が涙を流すことを許さないでいるように思えた。
『……今もまだ、私は足踏みして答えを出せないでいる。イロハに彼女、フィアルカのことを教えのは、自分だけであの子を救い出す勇気が持てなかったから。無様ね』
「そんなことないです。あなたはずっとフィアルカを気にかけてきたんじゃないですか。そうじゃなければ、こんなに苦悩するはずがない」
ラーツェとローザの手に、更に僕の左手を重ねた。
「一人だけで苦しんでも、袋小路に陥るだけですよ。どんどん頼ってください。僕にはほとんど何の力もないけれど、桜お姉ちゃんやリリアさん、ローザにシャオさんだってきっと助けてくれます。フウだって口は悪いけれど、今もこうして呪いを中和してくれているんです。さあ、フウもこっちに」
言って、空いた手でフウの手を握る。
『……気持ち悪い仲良しこよしごっこは嫌いにゃ。いろはの頼みでなければ、誰があんな女のために動くかにゃ』
悪態をついて不貞腐れながらも、繋いだ手は放さない。くすり、と僕は笑った。次いで、三人の顔を順に眺める。
「さあ、引きこもりを引っ張りだしましょう。そろそろ準備を始めますよ」
**********
翌日から、人が集まり出した。まずやって来たのが、さえずりのラーツェの要請を受けた神々である。
『思ったより来ましたね。数柱くらい集まってくれれば御の字と思いましたが』
多くは人の形をしているが、翼の生えたもの、猫耳やエルフ耳のものたちもいる。中には天を突くような巨人までいた。館を取り囲む霜の巨人たちと比べても一回りほど大きい。分厚い革靴が雪を踏みしめるたび、地震かと思うような衝撃が伝わってくる。その巨人が、バラックの外に立っていた僕を認めて屈みこんできた。
『お前さんがイロハか?』
「はい。ようこそお越しくださいました。お名前は?」
『建築のへパイストスだ』
に、と髭の生えた濃い顔に笑みを浮かべて、彼は言った。少し考えて、ラカシュの温泉街にあった像を思い出した。
「あなたがそうですか。ラカシュの断崖に、像がありました」
『おう! あれはいい。実にいい』
ヘパイストスは豪快に笑った。雪山が震えるかと思うほどの大音声だ。ひとしきり笑った後、ふと真面目な顔つきになって、ヘパイストスは言った。
『お前さんには感謝しとるんだ』
「感謝ですか?」
彼に直接会った覚えはないはずだけれど、何かしたっけ。
『魔炎のイズラ・フロウさ。あの、戦争狂』
「ああ……」
『俺は、戦争が嫌いだ。なぜだか分かるか?』
「うーん? 建物が壊れるから、ですか?」
建築神だからと安直な理由でそう答えた。ヘパイストスは何も言わず、立ち上がって傍らの魔女の屋敷の屋根に分厚い手を乗せた。
『もちろんそれもある。だがなあ、大事なのは入れ物じゃあなく中身なのさ』
巨大な防寒具が揺れて風が吹いた。
『俺はなあ、人間が好きだ。魔人も獣人も好きだが、人間が一番好きだ。小さい体で、こう、動き回ってな。昔はちょろちょろして嫌いだったもんだが……。何十人も何百人も集まって、俺の身長よりもデカいもんを作り上げちまう。あれは凄い。本当に凄い。だから、そんな人間がアホみたいに殺しあうのは許せん。お前たちの手はそんなことのためにあるのかと。見ろ、この館を』
言って、ごつごつと節くれだった指先が館を撫でる。
『意匠としちゃあ大したもんじゃないが、雪山で暮らすための工夫が様々凝らされとる。こういう、な、建物を見て、それでも戦争を賛美するヤツがいたら、俺がぶん殴ってやる。戦争するからこそ技術が発展する? 馬鹿じゃねぇのか、優秀なオツムを持った奴もスゲェ技術者も片っ端から死んじまうんだぞ。どう考えても損だろ』
苛立たしげに口元を歪め、建築のヘパイストスは吐き捨てるような口調で言った。
「……そうですね。僕の……故郷でも、優秀な人が、戦争が原因で亡くなることはよくありましたよ」
目を閉じて、地球に思いを馳せる。有名どころだと若くして戦死した物理学者ヘンリー・モーズリー、日本なら原爆症に倒れた生物学者、岡崎令治あたりだろうか。無名のまま、才能を芽吹かせることもなく摘み取られたものたちは星の数ほどもいるだろう。
『だろ? ……まあそんな訳で、魔炎のイズラ・フロウのケツを引っ叩いてくれたお前さんには借りがあるんで、こうしてやってきたのさ』
「それは、ありがとうございます」
『引っ叩いたっていうか、揉んでたわよね』
『うむ。揉みしだいて撫でくり回しておったな』
……外野が何か言っているが、無視することにした。フウはというと、くだらないものでも見るように冷ややかな目つきをしていた。
『ま、借りを返すっつっても飲んで騒ぐだけだがな』
「十分です。期待してますよ」
『おう、騒ぐのだけは得意なんだ。任せとけ。酒も持参したしな』
に、と男臭い笑みを残して、手に持つ酒瓶──体積にして小さなプール一杯分はあろうかというそれを掲げて見せた後、ズシンズシン足音を響かせながら歩いていった。
その後も、集まってくるものたちを待ち受ける。ドレスをまとった貴婦人風のもの、巨大な竜、歩き回る樹木、陰気な学者風の魔人、ドロドロした油状の物体。さらに杖をついた厳しい顔の老人と、雪山だというのに半裸で、なぜか巨大な魚を担いだ青年の二人組み──。
「……今なんか大物が通ったような」
『法理のアルススと海神ドラウ・カイだにゃ。二人とも飲兵衛だからにゃ』
「主神クラスがそんなホイホイ出歩いていいんですか……?」
まあ魔炎のイズラ・フロウを降した僕の言うセリフではないかもしれないが。そのフウはというと、海神の担いだ魚を見て物欲しそうに尻尾を揺らしている。猫か。猫だけど。
そんな会話を交わしていると、ゆらり、と人影が歩み寄ってきた。ゆったりとした奇妙な服をまとい、腰には剣を一振り、帯びている。瓢箪に入れた酒を口に注ぎ込むようにして飲んでいる。姿は人間とかけ離れていた。緑色の体は節くれだって太く、体は体節によって区切られ、二本の脚が気だるげに雪を蹴り、残りの四本の脚を服の袖から出している。虫人を思わせるが、田中さんと比べるとデフォルメされた虫、といった印象を受けた。
『剣神イー・サン・アン・ナー』
男は短く名乗った。
「豊野いろはです。リリアさんから、噂はかねがね」
『ふん。碌な噂ではなかろう』
キシシ、と歯をこすり合わせるような笑い声を立てた。チ、とフウが嫌そうに顔をしかめた。
『虫ケラはさっさと去るにゃ』
『畜生が何かほざいているな』
『あ? やるか?』
『随分可愛らしい恫喝じゃないか。男に嵌まって腑抜けになったか?』
二人の間で火花が散った。ほんとにあちこち敵を作ってるなあ、フウは……。
『ご自慢の剣も魔術の前では塵同然にゃ。じわじわいたぶり殺してやるにゃ』
『お前が口を開くより、その首が飛ぶ方が早いぞ』
『素人はこれだから困るにゃ。上級魔術使いが首を飛ばされたくらいで死ぬわけないにゃ。相応の用意をしているものにゃ』
『ほう。ほぼ全能力1の子供に負けた玄人様の仰ることは違いますな。是非ともご教授願いたいもので』
青筋を立てて煽り合う二人を引っぺがすのは苦労した。先が思いやられるな……。宴会の席で喧嘩しないといいけど。
神々の次に現れたのは、リリアさんに先導される獣人たちだった。
『ただ酒が飲めると聞いて』『ほいほい来ちゃいましたー』
随分軽いな。猫耳兎耳犬耳、翼や蹄の生えたものまで様々だ。彼らはもの珍しそうに館を囲む竜や巨人、異形の神々を見つめている。
リリアさんが僕のもとに歩み寄ってきた。
「思ったより集まってくれました。獣人が主ですね。そちらも……随分とまあ、沢山来ましたね」
呆れたような顔つきでリリアさんが神々を眺める。建築のヘパイストスたちの話をすると、眉根を寄せた。
「感謝……ですか。それだけの理由で大物が動くはずがありません。常冬の魔女の呪いに魔族がからんでいることを知って、我々を当て馬的に使う算段で親交を結ぼうとしている可能性があります」
……世知辛いなあ。なんだかゲンナリした気分になりそうだ。
最後に、桜お姉ちゃんの掌に乗せられて、信徒の集団がやってきた。一気に館の周りの人口密度が高くなる。雲からひらりと下りた桜お姉ちゃんに微笑みを向けると、
「いろはー! 好きじゃー!」
「ちょ、なんですかいきなり!?」
「好きじゃ好きじゃ好きじゃー!」
いきなり抱きつかれた。ごろごろと雪の上を転がる。はたから見れば犬同士がじゃれあっているようで微笑ましいように見えるかもしれないが、転がっている身としては雪が着物に侵入してきて寒いわ気持ち悪いわで大変である。
「うう……長い間いろはと離れておったことで呪いがこの身を蝕んでおるのじゃ……早急にいろはといちゃつかなければ儂の体は人の身を保てなくなってしまうのじゃ!」
「何ですかそのとってつけたような設定……」
呆れながらも、仰向けになって彼女の小さな体を抱きしめる。
「お帰りなさい、桜お姉ちゃん」
「うむ。ただいま」
ごろごろ喉を鳴らしながら、彼女は僕の胸に顔を埋めた。幸せそうな彼女の笑みに、僕まで頬が弛んできた。
こほん、と咳払いの音が響いたので見上げると、鱗の生えた大男が呆れた表情で僕を見下ろしていた。
「……同志イーロウ・ハー。奥様と仲がよロしいのは結構ですが、できレば後にして、頂けますかな?」
滑らかな日本語で彼──同志ジェドは言った。ラ行をひどい巻き舌で発音するクセが抜けないのと、いろはをイーロウ・ハーと発音してしまう点、それと区切りがややおかしい点を除けば、ほぼ完璧な日本語だ。
「ジェド。マジメ、すぎる、から。いまだ、ドウテイ」
「……。御方様、ややこしくなル、ので少し黙っていてください」
「ひどい、おにいちゃん、だな。ハラのコも、ナゲいて、ル」
「!?」
シャオさんが慈しむように自身の腹を撫でる。ジェドが引き攣った表情でシャオさんの腹と僕の顔を交互に見やった。いや、まだ何もないですからね? 母子プレイはしたけど。
「……。ま、まあ、ともかく。北方教会の占領は、存外早く終わリ、日本語教育に力を入レておリました」
「そうでしたか。ありがとうございます」
「いえ。時に、いきなリ連レて来ラレたのですが、宴会、とは……?」
困惑した表情で問う彼、そしてその背後できょろきょろ周りを見回すものたちを眺めやる。ジェドの配下で、村で会ったものたちのほかに、知らない顔も相当いた。北方教会を降して、新しくローザを信仰し始めたものたちだろう。そこの辺の話は後で聞くか。そう決めて、魔女のことをざっと彼に話した。
「ふむ……。引きこもリを外に出す、ために、宴会で楽しげな雰囲気を作リ、説得すル、と」
「まあ大雑把に言えば」
「成功の可否は、……今更問いますまい。我ラ、助力を惜しみませぬ」
「そう言っていただけるとありがたいです。全力で楽しげな感じを出してください」
「楽しげな感じ、ですな」
真面目くさった顔で言う彼の楽しげな感じというものにちょっと不安を覚えたが、まあ飲んで騒ぐ程度で十分だ。
かくして、神々総勢五十柱、獣人百人、信徒たち百五十人、そして少し離れた場所からじっとこちらを窺い続ける凍土竜と霜の巨人が合わせて百。概算して四百名あまりが館の周囲にひしめきあうことになったのだった。
結局、凍土竜たちと会話することには成功しなかった。魔女が目的らしいことは分かるので、何とか協力してもらえるといいのだけれど……。
考えているうちに、桜お姉ちゃん、リリアさん、ローザ、フウ、シャオさんの五人が僕の周りに集まってきた。
「よしよし。想定よりかなり集まりましたね。リリアさんの調達してくれた酒と肴も十分。卓と椅子、それとコップや皿も、即席ですが作りました。日も暮れる頃合。そろそろ始めましょう」
こうして、魔女の夜宴は始まったのだった。




