Ep. 02 R-layer 二十分
彼女自身も気づいていなかったらしい。
「……え、涙?」
もう一筋が反対の頬にも流れ、彼女は指でそれを拭うと、濡れた指先を確かめるように見て瞬きをした。
「どうして……?」
聞かれても、夜叉丸に分かるはずがなかった。彼女はもう一度頬を触ったが、それ以上は確かめなかった。
「突然来てごめんなさい。これ」
ノートを差し出された。
「あ、いや」
「届けたかっただけだから」
夜叉丸が受け取ると、彼女は軽く頭を下げて背を向けた。
《未承認のローカル接続を検出しました。接続を終了してください》
「え? 恵美、どうした?」
返事はなかった。それより、彼女がもう廊下を歩き出している。最悪だ。泣かせた。拾ったノートをわざわざ届けに来た相手に、礼より先に「なんで来た」と聞いた。責めていると思われても仕方がない。昨夜から探し続けたノートが戻ってきた安心より、自分が今しがたやらかしたことの方が一気に大きくなった。
「ちょっと待って!」
夜叉丸はノートを玄関脇に置き、彼女を追った。廊下を数歩進んだところで追い越し、その前へ回り込む。考えるより先に膝をついていた。
「ごめんなさい!」
両手まで床についた。
「……どうしたの?」
「今の言い方です。違うんです。来てほしくなかったとかじゃなくて、むしろ来てもらって助かってて。俺、昨日ずっとこれ探してたし、同じのもう一回書けって言われても無理だし、それで郵送だと思ってたから、なんで直接来たんだろうって思っただけで、それに、ドア開けたら思ってた人と全然違って、いや、思ってた人って別に男だと思ってたとかじゃなくて、すごく綺麗な人が立ってたから、それでちょっと緊張して」
そこまで言って、夜叉丸の頭がようやく口に追いついた。
「……今のなしで」
返事がない。恐る恐る顔を上げると、彼女は頬の涙を手の甲で拭いながら、こちらを見ていた。
「たぶん、あなたのせいじゃないよ」
「たぶん?」
「私も、どうして泣いてるのか分からないから」
そう言って、彼女の口元が少しだけ緩んだ。ほんの少しだった。笑った、と言い切っていいのか迷うくらいの変化だったが、さっきまで何を考えているのか分からなかったのに、今のは笑ったと分かった。夜叉丸は土下座したまま見とれた。次の瞬間、ぐぅ、と小さな音が廊下に響いた。彼女の笑みが消え、今度は目を逸らした。両手で腹を押さえる。顔はほとんど変わっていないのに、さっきまでとは違って、明らかに困っているのが分かった。
「……聞こえた?」
「まあ」
「忘れて」
無理だった。夜叉丸は吹き出した。
「笑わないで」
「すみません。でも、ちょっとくらいいいじゃないですか」
「よくないよ」
涙を拭いたばかりの顔で真面目に言われ、夜叉丸はまた笑った。しばらくして、ようやく二人とも落ち着いた。夜叉丸は立ち上がり、服についた埃を払った。
「あの、お礼させてください」
「お礼?」
「ノート。拾ってくれただけじゃなくて、ここまで持ってきてくれたし。夕飯、ちょうど作ったところなんです。よかったら食べていきませんか」
彼女は玄関の方を見た。
「でも、悪いよ。突然来たのは私だし、ノートを届けただけだから」
「お願いします」
「そこまでしなくていいよ」
夜叉丸は両手を合わせた。
「このまま帰られたら、俺、ずっと今のこと思い出すんで。助けると思って」
「私が食べると、助かるの?」
「ものすごく」
彼女は少し考えてから、夜叉丸ではないところへ視線を向けた。
「フィラコス、いい?」
夜叉丸は口を閉じた。彼女は誰もいないところへ話しかけたまま、しばらく黙っている。次の瞬間、目を見開いた。
「……いいの?」
また少し待ってから、
「ありがとう、フィラコス」
と、言った。夕飯を食べるかどうかまでPAIに確認するのか。少しだけ引っかかったが、彼女はこちらを向いた。
「じゃあ、ごちそうになります」
「はい。どうぞ」
今度は声が上ずらなかった。たぶん。
◇
部屋へ戻ると、夜叉丸はさっき作った夕食を二人分に分けた。
「おいしい」
彼女がそう言って、もう一口食べた。よかった。初対面で土下座までした相手が、今は自分の料理をおいしいと言って食べている。少しは挽回できたらしい。
「姉さんと二人暮らしだったから、食事当番を交代でしてて。料理の腕にはちょっと自信あるんだ。姉さんもうまいって言うから、いつの間にか俺ばっかり作るようになってたけど。あれ? 今思うと、あれはめられてたのか……」
「本当においしい」
「よかった。まだあるから遠慮なくどうぞ」
彼女は素直に頷いた。そこで、まだ名前を聞いていなかったことを思い出した。
「えっと……ふくろうさん、でいいんですか?」
「うん」
「堕天使 零夜さんですよね?」
夜叉丸は両手で顔を覆った。
「それ、高校から使ってるペンネームで。いや、高校でそれもどうかと思うけど、当時は格好いいと思ってて。途中で変えると別人みたいになるし、今さら引っ込みもつかなくて」
「私は好きだよ」
夜叉丸は手の隙間からふくろうさんを見た。
「名前が?」
「小説が」
「ああ。そっち」
余計な期待をした自分が恥ずかしくなって、夜叉丸は手を下ろした。それからは小説の話をした。ふくろうさんは何でも褒める読者ではなかった。夜叉丸自身が手応えを感じていた場面には「あそこは好き」と言い、逆に少し誤魔化して書いたところでは、「どうしてこうしたの?」と聞いてくる。玄関の前では何を考えているのかほとんど読めなかったのに、小説の話になると、どこに引っかかり、何を面白いと思ったのかは不思議なくらい分かった。
気づけば食事は終わっていた。
「お茶、飲みます?」
「うん」
夜叉丸は湯を沸かし、二人分のカップをテーブルへ置いた。そこで、玄関脇へ置いたままのノートが目に入った。
「そういえば、あれ、どこで拾ったんですか?」
ふくろうさんの手が止まった。カップを持ったまま、しばらく黙っている。
「……城砦街区で」
「ああ」
やっぱりか。城砦街区は正式には第七管轄保留区域といい、戦争が終わって百年以上経った今でも、その名前から「保留」の二文字だけは消えていない。行政上はこの国の一部だが、警察や行政、PAIの認証基盤まで、普通の街と同じようには届かない。昨日、夜叉丸はその城砦街区へ小説の取材に行っていた。部屋中を探してノートが見つからなかった時点で、落としたとすればあそこだろうとは思っていた。
「じゃあ、やっぱり昨日か」
「昨日?」
「俺、昨日そこに行ってたんです。取材で」
ふくろうさんが夜叉丸を見る。
「危ないよ」
「みんなそう言うんですよね」
「危ないからじゃない?」
正論なので返す言葉がなかった。夜叉丸はお茶を飲みながら、玄関で見たふくろうさんの姿を思い返した。靴には乾いた汚れが残っていたし、廊下を歩いたときも、少し足を庇っているように見えた。
「ふくろうさん」
「なに?」
「ここまで歩いてきました?」
ふくろうさんが少し目を見開いた。
「どうして分かったの?」
「靴が結構汚れてたし、さっき歩いてるときも少し変だったから。靴擦れとかしてません?」
ふくろうさんは自分の足元を見た。
「痛くはないわ」
「どこから歩いてきたんですか?」
「城砦街区」
夜叉丸はカップを置いた。
「……あそこから?」
「うん」
「十キロくらいありますよ」
そう言うと、ふくろうさんは少し黙ってから、
「持っていこうと思ったから」
とだけ答えた。夜叉丸は少し待ったが、続きはなかった。普通に歩いても二時間以上かかり、途中で休んだならもっとだ。窓の外はもう遅い時間になっていた。
「送ります」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ。また歩いて帰るつもりですか」
ふくろうさんは少し考えるように黙った。
「二十分くらいで着きますから」
「二十分?」
「はい。ちょっと待っててください」
食器を流しへ運び、上着を取った。学生マンションを出て、ふくろうさんと五分ほど歩く。
「どこに行くの?」
「ガレージです」
マンションから少し離れた場所に、月極の賃貸ガレージが並んでいる。その一つの前で認証を通すとシャッターが上がり、中に置いてあるバイクが見えた。合成燃料エンジンとモーターを組み合わせたハイブリッドで、夜叉丸が高校を卒業してすぐに買ったものだった。
「これ、あなたの?」
「はい、俺のバイクです」
ようやく少しだけ格好のつくところを見せられた。夜叉丸は予備のヘルメットを取り出して、ふくろうさんへ渡した。
「バイク、乗ったことあります?」
「ないよ」
「俺が先に乗るんで、そのあと乗ってください。後ろにグリップがあるから、そこ持ってれば大丈夫です。曲がるときは無理に体を起こさないでください」
「分かった」
ふくろうさんがヘルメットを被るのを待ってから、夜叉丸はバイクに跨がり、車体を起こした。
「乗っていい?」
「どうぞ」
後ろへ体重がかかり、サスペンションが沈む。いつもは自分が気持ちよく走れればいい。今日は後ろに人がいる。安全運転でいこう。
「これ持ってればいいんだよね?」
「はい。じゃあ行きます」
エンジンをかけて、夜叉丸はゆっくりガレージからバイクを出した。
◇
十五分ほどして、夜叉丸は城砦街区から少し離れた大通りでバイクを止めた。ここから先は道が細くなり、建物の密度も一気に上がる。遠くには、増築を重ねた建物の灯りが不規則に重なっていた。ふくろうさんがヘルメットを外した。
「ありがとう。本当に二十分なんだ。……少しショックかも」
「いや、こっちこそ。ノート、本当に助かりました」
ふくろうさんはヘルメットを返しかけて、手を止めた。
「水琴ラーラ」
「え?」
「私の名前」
夜叉丸は一瞬遅れて理解した。
「ああ。俺は暮星夜叉丸です」
ペンネームしか名乗っていなかったせいで、自分だけ妙に改まってしまった。
「ラーラでいいよ」
「……ラーラ」
「うん」
「俺も夜叉丸でいいです」
「夜叉丸」
「はい」
名前を呼ばれただけなのに、さっきまでより少し距離が近くなった気がした。ラーラはヘルメットを渡した。
「じゃあ、またね。夜叉丸」
夜叉丸は少し遅れて返事をした。
「……また」
ラーラは城砦街区の方へ歩いていった。
――Episode No.02 R-layer END――




