Ep. 01 R-layer なんで郵送じゃなかったんですか?
午前十時を少し回っていた。二限はもう始まっていて、中央棟へ続く渡り廊下に学生の姿はほとんどない。夜叉丸は足早に歩いていた。遅刻しているのは分かっているが、だからといって走るのは嫌だった。走った瞬間、自分から遅刻を認めたみたいになる。早歩きなら、まだ急用で移動している学生に見えなくもない。
「おい、夜叉丸。生きてたか」
後ろから声がした。振り向くと、少し離れたところでレステスが手を振っていた。教本を小脇に抱えている。一限目の講義から出席していたんだろう。
「久しぶりに会って第一声が生存確認かよ」
「だって最近ぜんぜん見ねえじゃん。大学辞めて、いよいよ作家一本で食ってく決心でもしたのかと思った」
「食っていけないから来てんだよ」
夜叉丸はそのまま歩き出した。レステスは気にした様子もなく追いつき、そのまま隣を歩き始めた。
「ん? それ、PAI?」
レステスが夜叉丸の耳元に気づいた。
「なんだ、やっと買ったのか。しかも結構いいやつじゃん」
「フリマの中古」
「賞取った作家が中古?」
「別に最新じゃなくていいんだよ。ミーハーに見られたくないし」
「つーか、今まで自分用のPAI持ってなかったのが信じられん」
「部屋ではいらないし」
「それ、半分くらい引きこもり宣言だからな」
「大学には来てるだろ」
「二限始まってからな」
「今日は俺のせいじゃない」
「出た。責任転嫁」
「出た出たって人を珍獣みたいに言うな。七時に起こすよう設定したのに、こいつ何も言わなかったんだよ」
耳元のPAIを指すと、レステスはますます嬉しそうになった。
「買ったばっかりのPAIのせいで寝坊したの? それ設定ミスじゃねえの」
「ちゃんと言った」
「じゃあ起こされたあと二度寝した」
夜叉丸は黙って前を向いた。
「そこだけ黙ると疑惑が深まるぞ」
「覚えてないだけだ」
「寝てたんだから、そりゃそうだろ」
自分でも苦しいとは思ったが、レステスには言わなかった。中央棟へ入ると、正面で通路が左右に分かれていた。二限が第二講義棟だったことまでは覚えている。問題は、その第二講義棟がどちらなのかだった。夜叉丸はレステスから少し顔を背け、聞こえないように声を落とした。
「恵美、二限どこ?」
《第二講義棟四階、四〇七教室です。ここから右へ進んでください》
右へ向かおうとしたところで、横から声が飛んできた。
「いや、ちょっと待て。今なんて言った?」
「二限どこ」
「そこじゃねえよ。その前。恵美って言ったよな?」
夜叉丸は舌打ちした。わざわざ声を落としたのに、そこだけ拾われたらしい。
「先に言っとくけど、俺がつけた名前じゃないからな」
レステスが吹き出した。
「お前、PAIに姉ちゃんの名前つけてんの?」
「今の話聞いてたか? 最初から恵美だったんだよ」
「変更できるだろ。十九歳にもなって、毎日耳元で恵美姉ちゃんはなかなかだぞ」
「その言い方やめろ」
「じゃあ名前、変えればいいじゃん」
「変えたよ。名前も人格設定も変更した。直後はちゃんと変わる。でも再起動すると戻る」
「恵美に?」
「そうだよ」
「強いな、恵美。所有者が変わって、名前まで変えられて、それでも私は恵美です、と」
「お前なぁ。中古PAIの不具合を自己同一性の問題に昇格させるな」
「でも面白いじゃん。名前を変えても戻るんだろ。何をもって恵美を恵美とするのか」
「再起動」
「台無しだよ」
レステスはまだ笑っていた。これ以上何を言っても面白がられるだけだろう。
「名前も人格も戻るって、普通に故障じゃね? 修理出したら?」
「中古だから保証がない」
「安物買いのなんとやらか」
夜叉丸は耳元の端末に触れた。買った翌日に寝坊させられ、設定は勝手に戻り、名前まで姉と同じとなると、初日の印象としてはだいぶ分が悪い。
「彼女ができたら、見ものだな。前の彼女の名前と思われるぞ」
「そんな心配は今のところない」
答えてから、別に答える必要はなかったことに気づいた。レステスがにやにやしている。右の連絡通路を抜けて第二講義棟へ入ると、夜叉丸は階段を上がり始めた。レステスも当然のようについてくる。
「そういえば、お前は次何限?」
「四限」
夜叉丸は足を止めた。
「じゃあ、なんでついてくるんだよ」
「お前の二限についてく。四限まで暇なんだよ。それに、お前がこの時間から教室入って、教授にどういう顔されるか見たい」
「お前、余計なことするなよ」
「なんのことだよ」
「その顔で言っても説得力ないからな。絶対なんかするだろ」
「しないって」
時間の使い方としては理解できないし、理由もろくでもない。ただ、帰れとは思わなかった。
「今、笑ったな」
レステスがこちらを見ていた。
「笑ってない」
「いや、笑った。やっと笑ったな。幼馴染歴を甘く見るなよ」
「そういうところが鬱陶しいんだよ」
夜叉丸は四〇七教室へ向かった。レステスはまだ笑いながら、その隣を歩いていた。
二限が終わると、教室のあちこちで椅子を引く音がした。
「じゃ、俺は飯行ってくる。PAIあるんだから俺のメッセには即レスしろよ」
レステスは知り合いを見つけたらしく、そのまま足早に教室を出ていった。朝飯食ってないなら、俺に付き合ってないでさっさと食堂行けばいいのに。酔狂な奴だ。夜叉丸も鞄を閉じようとしたところで、耳元から恵美の声がした。
《夜叉丸さん。『最終電車のシンデレラ』に読者メッセージが一件届いています》
「珍しいな」
感想は来るが、作者宛ての個別メッセージはそれほど多くない。夜叉丸はそれだけ言って立ち上がろうとした。
《確認した方がよさそうです》
「なんで?」
《通常の感想ではありません。公開されていないと思われる作品名が含まれています》
夜叉丸の手が止まった。
「作品名?」
《『君の指先が編むパスワード』です》
「見せて」
夜叉丸はポケットから表示端末を取り出した。見た目は昔のスマートフォンとそれほど変わらない。画面に読者メッセージが開いた。
『君の指先が編むパスワードという作品のプロットノートを落とされていませんか。人違いでしたら無視してください』
『君の指先が編むパスワード』は、まだ誰にも話していない次回作の仮題だった。
そのプロットを書いたノートがないことに気づいたのは、昨日の夜だった。一か月ほど、思いついたことを片端から書き込み、人物設定も、最後まで使うか分からない伏線も、途中で思いついた台詞も全部そこに入っている。資料だけでは足りなくて、少し危ない場所まで取材に行き、そのときのメモまで書き込んでいた。同じものをもう一度作れと言われても無理だった。
昨日は部屋中を探した。机の裏も、ベッドの下も、鞄の中も三回は見た。結局見つからず、原稿を開く気までなくなった。今日大学へ来たのも、半分は書けなくなった原稿から逃げるためだった。
「誰から?」
《送信者名は『ふくろう』です》
「ああ、ふくろうさんか」
知っている名前だった。『最終電車のシンデレラ』を更新すると、かなりの頻度でコメントを残してくれる読者だ。
「返信する。『ご連絡ありがとうございます。私のノートだと思います。大事なものなので、着払いの郵送でお願いすることはできますか?』」
《入力しました。返送先はどうしますか?》
「取りに行ってもいいけど、相手の住所を聞く方が嫌がられそうだし。こっちの住所も入れて」
《送信者の本人確認はできていません。自宅住所の送信は推奨しません》
「でも、ずっと読んでくれてる人だし」
《過去の交流履歴は確認しています。それを送信者本人である根拠にはできません》
そこまで言われると少し引っかかった。ネット上でしか知らない相手なのは確かだが、『ふくろう』という名前は以前から見ている。何度も作品を読んで、今はなくしたノートまで拾って連絡してくれている。
「……まあ、大丈夫だろ。送って」
《送信します》
送信済みの表示に変わった。
大学を出る頃になっても、返事はなかった。拾って連絡してくれただけでも十分ありがたい。急かすような話でもない。そう考えて表示端末を閉じたものの、帰る前にも確認している時点で、それなりには気にしていた。
◇
その夜、学生マンションの自室に戻った夜叉丸は、少し遅めの夕食を作っていた。
「返信来た?」
《まだありません》
今日何回目の確認かは数えないことにした。ノートがあるのは分かったのだから、最悪でも明日もう一度連絡すればいい。ちょうど夕食を作り終えたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「誰?」
《来訪者の認証情報を取得できません》
もう一度、チャイムが鳴った。夜叉丸は玄関まで行き、ドア越しに声をかけた。
「どちらさまですか」
「ノートを届けに来ました」
郵送だと思っていたので意外だったが、夜叉丸がドアを開けようとしてもロックは外れなかった。
「恵美?」
《本人確認ができていません》
「分かってる。開けていいよ」
《開錠します》
電子錠が外れた。少し大げさじゃないかと思いながら、夜叉丸はドアを開けた。外に、女の子が立っていた。手には、昨日から探していたノートがある。綺麗な人だった。白いブラウスの襟元には、大きなリボンが結ばれている。小説なら、美人なんて一行で作れる。目が大きいとか、鼻筋が通っているとか、それらしい部品を並べれば、あとは読者が勝手に補ってくれる。実物はそうはいかなかった。
目が合ったので一度視線を外したが、それでは妙に意識しているみたいで嫌になり、もう一度だけ見た。すると今度はきっちり目が合ってしまい、結局また逸らした。何をやっているんだ、と自分でも思う。
「あの」
「はい」
反射的に返事をすると、少し声が上ずった気がしたので、気のせいということにした。彼女は笑いも怒りもせず、知らない男の部屋まで来たというのに、警戒しているのかどうかさえ読めなかった。
「その、ノート。たぶん、俺のです。いや、たぶんじゃない。俺のです」
彼女はノートを持ったまま、こちらを見ている。書くなら困る人物だ。現実では、作者の都合で台詞を足すこともできない。名前を聞くつもりだった。なのに、口から出たのは別の言葉だった。
「……なんで郵送じゃなかったんですか?」
開けたままの玄関ドアの向こうで、彼女の表情は変わらなかった。ただ、目尻からこぼれた涙が、頬を伝った。夜叉丸は固まった。
――Episode No.01 R-layer END――
第1〜3話は軽めの日常、第4話から物語が動きます。




