第3章 Act.1 ティリア地方の民話 「霧鹿」
八月。丘に雨が降り、湖を白い霧が覆う頃、この地方では昔から一頭の鹿の話が語られる。
丘陵地帯の奥深くに、一つの湖がある。
そこへ向かうには、岩の多い丘をいくつも越えなければならない。
けれど最後の丘を越えると、それまでの険しい景色が嘘のように途切れ、目の前には穏やかな草原が広がる。
柔らかな草の間にはティリアやオークの木がまばらに立ち、その向こうに静かな湖が横たわっている。
遠くには、なだらかな丘が幾重にも重なっていた。
風が吹けば草原がゆっくりと波打ち、湖面には青い空と白い雲がそのまま映り込む。
湖のほとりには、周囲の木々よりひときわ大きなティリアの古木が一本、長い枝を水面へ差し伸べるようにして立っている。
風のない日には、湖は鏡のように静まり返る。
ただそこに立っているだけで、時間の流れまで遠くなってしまいそうな場所だった。
けれど雨の多い八月は、湖面から白い霧が立ちのぼる。
水辺を離れた霧は草の上を這い、木々の根元を包み、ゆっくりと丘へ広がっていく。
やがて湖も、草原も、遠くの丘さえも、その境を失って白い世界へ沈んでいくという。
ずっと昔。
まだこの地方に学校などなかった頃、十五歳を迎えた若者たちには一つの習わしがあった。
同じ年頃の仲間だけで湖まで行き、そこで一晩を過ごす。
そして翌朝、自分たちの力だけで村へ帰る。
無事に戻れば、その日から一人前の大人として扱われた。
ある年。
十五歳を迎えた若者たちが、その年も習わしに従って湖へ向かった。
だが、その日は朝から空が暗かった。
湖へ着いた頃には雲が低く垂れ込め、冷たい風が草原を渡っていたという。
やがて雨が降り始めた。
初めは小さな雨だった。
けれど日が暮れる頃には風も強まり、雨粒が激しく湖面を叩くようになった。
そして、湖から霧が立ち始めた。
白い霧は水面からあふれるように草原へ流れ込み、若者たちの足元を覆っていった。
やがて数歩先の仲間さえ見えなくなった。
沢は雨水で膨れ、通ってきた道も分からない。
湖のほとりに残るべきか。
霧の中を進むべきか。
誰にも分からなかった。
その時だった。
湖の方角に、淡い光が見えたという。
初めは、霧の向こうに月でも浮かんでいるのかと思った。
けれど光は、ゆっくりと動いていた。
白い霧が左右へ分かれる。
その向こうから、一頭の鹿が姿を現した。
真っ白な鹿だった。
雨に濡れているはずの毛並みは、夜の中で淡い銀色の光をまとっていた。
大きく枝分かれした角には細かな雫が連なり、霧の中で星のように瞬いている。
鹿が一歩、草原へ足を踏み出す。
濡れた草がわずかに揺れ、白い脚のまわりに小さな雫が散った。
若者たちは声も出せず、ただ鹿を見つめていた。
白鹿は逃げず、静かな黒い瞳でしばらく彼らを見返していたという。
やがて鹿は顔を上げ、丘の方角を見た。
そして歩き始めた。
数歩進んでは、立ち止まる。
振り返る。
また歩き出す。
まるで、誰かが後ろからついてくるのを待っているように。
誰が最初に歩き出したのか。
それはもう伝わっていない。
ただ気づいた時には、若者たちは霧の中で、その白い背を追っていたという。
鹿は湖を離れ、白く沈んだ草原を横切り、雨の中を丘へ登っていった。
霧はいっそう深くなっていた。
それでも、不思議なことに白鹿の姿だけは見失わなかった。
暗闇の中に浮かぶ淡い月を追うように、若者たちは歩き続けた。
そして、ようやく丘の高い場所へたどり着いた。
その直後だった。
低く、重い音が響いた。
地面の底から聞こえてくるような音だったという。
若者たちが振り返る。
その瞬間、稲妻が空を白く染めた。
一瞬だけ照らし出された草原。
そこに、湖の岸はなかった。
草も。
通ってきた道も。
つい先ほどまで自分たちがいた場所も。
濁った水の下へ沈みかけていた。
遅れて、腹の底まで震わせる雷鳴が轟いた。
再び闇が戻る。
あとは激しい雨音と、どこかで濁流が押し寄せる音だけが残った。
若者たちは、もう一度前を見た。
白鹿はいなかった。
霧の中にも。
丘の上にも。
どこにも見当たらない。
いつからいなくなっていたのか。
ただ白い霧だけが、雨に打たれながら丘を流れていた。
翌朝、雨は止んだ。
若者たちは全員、無事に村へ帰った。
そして一人前の大人として迎えられた。
それから数日後。
湖のほとり。
大きなティリアの古木の近くで、一頭の白い鹿が死んでいるのが見つかった。
あの夜、若者たちを丘へ導いた鹿だったと言う者がいた。
別の鹿だったと言う者もいた。
角の形が違っていたと話す者もいたという。
誰が正しかったのかは、分からない。
ただ、その翌年。
再び八月がやってきた。
雨上がりの早朝。
湖には深い霧が立ち込めていた。
草原も木々も、対岸の丘さえも、すべてが白い霧の中へ沈んでいた。
湖畔を通りかかった一人の猟師が、大きなティリアの木の前で足を止めた。
霧の中に、白いものが立っていた。
一頭の鹿だった。
白鹿は、霧の中に溶け込むように静かに佇んでいた。
身体は淡く透け、その輪郭から白い霧が細い糸のように流れている。
朝日はまだ丘の向こうにあるというのに、その身体だけが月明かりを残したように淡く輝いていた。
大きな角の先には霧の雫がまとわりつき、青白い光を宿している。
鹿が一歩進んだ。
音はしない。
もう一歩。
足元の草は沈まなかった。
その後にも、足跡は残らない。
白い霧だけが、鹿の後を追うようにゆっくりと揺れていた。
白鹿は湖のほとりを歩き、大きなティリアの木の前で立ち止まった。
しばらく、静かな湖を見つめていたという。
やがて再び歩き始める。
霧の奥へ進むほど、その身体は少しずつ薄くなっていった。
脚が見えなくなった。
背中が霧へ溶けた。
最後まで残ったのは、大きな角だった。
白い世界の中に、角だけが浮かんでいたという。
それもやがて、静かに消えた。
翌年も。
その翌年も。
八月になると、白い鹿は湖の近くへ現れた。
人を襲うことはなかった。
旅人へ近づくこともなかった。
ただ霧の中を静かに歩き、いつの間にか姿を消した。
何十年。
何百年。
昔の成人の習わしがなくなっても。
村の姿が変わっても。
湖へ向かう人々が変わっても。
八月の霧が降りると、白い鹿だけは現れた。
いつからそう呼ばれるようになったのかは分からない。
人々は、その鹿をこう呼んだ。
――霧鹿。
昔には、哀れに思った神官が聖水を使ったこともあったという。
祈祷師が、その魂を安らかに眠らせようとしたこともある。
霧鹿は、そのたび霧の中へ消えた。
だが次の八月になれば、また湖のほとりを歩いていた。
その次の年も。
さらに、その次の年も。
やがて、誰も霧鹿の魂を鎮めようとはしなくなった。
八月になれば、霧鹿は現れる。
いつしか、それだけのことになっていた。
今では、この丘陵地帯で長く活動する猟師や冒険者なら、知っている者は知っている。
八月。
雨のあと。
丘陵地帯の奥にある湖へ、白い霧が降りる。
その中を、ときおり一頭の白鹿が音もなく歩いている。
それを見ても、古い猟師たちは騒がない。
追いかけることもしない。
ただ少しだけ足を止める。
そして、霧の中を歩く白い姿を眺めるのだという。
「今年も出たか」
そう一言だけ呟いて。
白鹿が霧の向こうへ消えていくまで、静かに見送るのだという。




