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MADE IN ANOTHER WORLD ―この手で、異世界に残るものを。―  作者: 月河 紀零鴨


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第2章 Act.22  ブラックマリアと紫煙



どうにか夜警の目を避け、アザリーは自宅へ戻った。


玄関の扉を閉める。いつもならすぐに点ける魔導照明には触れなかった。外から帰宅を悟られたくない。


薄暗い屋敷の中を、窓から差し込むわずかな月明かりだけを頼りに奥へ進む。


「……想定していた中で、一番悪い状況になってしまったわね」


偽ティリア・ハニー。ヘブとボイ。そして、倉庫で話を聞いていた3人の学生。


あそこまで聞かれた以上、もう商会長として知らぬ存ぜぬを通すのは難しい。


それでも、まだ終わったわけではない。


金はある。町を出さえすれば、やり直す方法はいくらでもある。


後ろから入ってきたジュドーへ振り返る。


「ジュドー」


「なんです?」


「追加報酬を払うわ。この町から逃がしてくれるかしら?」


ジュドーは少しだけ考えた。


「……いいでしょう。追加で30万コル」


「分かったわ」


「ただし、すぐに出ないとまずいでしょうね。さっきの連中が話せば、町兵だけじゃなく領主側も動く」


「大丈夫よ。荷物はまとめてあるわ」


こういう時のために準備していた。


アザリーは足早に階段を上がり、自室へ向かった。


机の脇に置いてあった大きな革鞄を持ち上げる。


着替え。


身分を隠すための外套。


最低限の日用品。


そして、しばらく働かなくても暮らせるだけの現金と宝石。


何かあれば、すぐ町を捨てられるようにしていた。これさえあれば十分だ。


アザリーは革鞄を手に、部屋を出ようとする。


その時。


ふと、棚の上へ目が止まった。


古びたシガーケース。


2年前に死んだ夫が使っていた物だった。商会を継いでからも、なぜか捨てられずにそのまま置いていた。


アザリーはしばらく見つめる。


「……私にも、まだ未練があったのね」


手に取り、革鞄へ入れた。


それで終わり。


もう振り返らなかった。


階段を下り、急いで玄関へ戻ったアザリーは、足を止めた。


「……?」


ジュドーがいない。


玄関にも。


廊下にも。


気配すらなかった。


「はぁ……逃げられたかしら」


30万コルでは足りなかったか。あるいは、自分まで捕まる前に見切りをつけたか。


元傭兵なら、それもあり得る。


「いえいえ」


突然、後ろから男の声がした。


「彼はきちんと、あなたを待っていましたよ」


アザリーの身体が止まった。


ゆっくり振り返る。


暗い廊下の奥に、1人の男が立っていた。


いつからそこにいたのか。まったく分からなかった。


細身の顔。髪は整髪油できれいに後ろへ撫でつけられ、濃い色のリネンの上着には皺1つない。首元の飾り布まできっちり整えられている。


商人ではない。冒険者にも見えない。


いかにも役人――いや、役人の中でも、表立って仕事をする人間ではなさそうだった。


男は穏やかに笑っている。


アザリーは革鞄を持ったまま、ため息をついた。


「領主様の飼い犬かしら?」


「ええ」


男はあっさり認めた。


「今夜に限っては、それで結構です」


「ずいぶん仕事が早いのね」


「あなた方だけが、人を使っているわけではありませんので」


男は穏やかな笑みを崩さない。


「商会も、このお屋敷も、以前から注意深く見ておりましたよ」


なるほど。アザリーは小さく笑った。


偽造工場が潰れた後も、自分まで捜査が届かなかった。だから、まだ大丈夫だと思っていた。


違ったらしい。


届いていなかったのではない。


とっくに調べられていたのだ。


「それで?」


「マルセル・ナ・ティリア様の命です」


男が片手を玄関へ向ける。


「ご同行願えますかな、アザリー殿」


逃げる。


一瞬だけ考えた。だが、やめた。


この男が1人でここへ入ってきたとは思えない。何より、ジュドーが何の音も立てずに消えている。


もう計算は終わっていた。


「……やっぱり、優秀な方だったわね」


誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。


男に促され、玄関の扉を開ける。


外には数人の男たちが待っていた。その中にジュドーもいる。


両手を拘束され、2人の男に挟まれていた。


目が合う。


ジュドーは肩をすくめて言った。


「すみませんね。30万、貰い損ねました」


「......そうね」


アザリーは少しだけ口元を緩めた。


「残念だったわね」


屋敷の前には、黒塗りの馬車が1台止まっていた。


いつの間に来たのだろう。


馬の蹄の音も、車輪の音も、まるで聞こえなかった。


アザリーはしばらく馬車を眺めた。


そして、


「……今さら、どうでもいいわね」


男に促され、馬車へ向かう。


その途中、男が革鞄へ目を向けた。


「申し訳ありませんが、そちらはお預かりいたします」


「……でしょうね」


アザリーは素直に革鞄を差し出しかけた。だが、ふと思い出し、手を止める。


「ああ、そうだわ。一つお願いしてもいいかしら?」


「なんでしょう?」


「鞄の中にシガーケースがあるの。馬車の中で、最後に一本だけ吸わせていただけない?」


男がわずかに眉を上げた。


「葉巻ですか?」


「ええ。ケースは夫の形見なの。せめて、これくらいは持っていきたいわ」


「……なるほど」


男は少し考えてから、頷いた。


「中身を確認させていただけるのであれば、構いませんよ」


「ありがとう」


アザリーは革鞄を開き、古びたシガーケースを取り出した。男へ手渡す。


男はケースを開き、中身を一つずつ確認した。


「よろしいでしょう。ただし、火はこちらで用意させていただきます」


「ええ。それで結構よ」


男からシガーケースを受け取ると、アザリーは革鞄を差し出した。


男は革鞄を部下へ預け、再びアザリーへ向き直った。


部下の一人がアザリーの身につけている物も確認した。


「それでは、一本どうぞ」


アザリーはシガーケースを開いた。中から一本取り出し、口にくわえる。


男は指先を軽く持ち上げた。その先に小さな火が灯る。


差し出された火へ、アザリーが葉巻の先端を近づけた。ゆっくりと吸い込むと、葉巻の先が赤く燃え始める。


「……ありがとう」


アザリーは口から細く煙を吐き出した。


男は指先の火を消し、馬車の扉を開ける。


「では、どうぞ」


アザリーは古びたシガーケースを片手に、もう一度だけ屋敷を見上げた。


それから、火のついた葉巻をくわえたまま、大人しく馬車へ乗り込んだ。


扉が閉まる。


ガチャリ。


外から鍵の掛かる音がした。

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