第1章 Act.5 森の歩き方、道があるだけでこんなにありがたいとは
朝の光の中、西の森が静かに広がっている。
町から歩いて1時間ほど。浅い場所なら、町の子供が親と一緒に野草採りへ来ることもある身近な森だ。
春から初夏にかけては野生のハーブや野いちごが採れるし、もう少し季節が進めばジロール茸も出る。さらに、この辺りの菩提樹に花が咲く頃には、ティリアガルデン名物のティリア・ハニーの採蜜も始まる。
ティリア・ハニーは町でも少し上等な品だが、小瓶なら俺たちにも手が届く。
甘い物は、普段から気軽に食べられるほど安くない。
俺もココラも、毎年ギルドで稼いだ小遣いで小瓶を買うのを楽しみにしている。
とはいえ、今日の目的は蜂蜜でも野いちごでもない。
「いいか。今日は森を歩きながら、休める場所も探していくぞ」
俺たちの前で、バンさんが短槍を肩に担ぎながら言った。
「見るのは、雨風を避けられるか、足元が乾いているか、周囲を見渡せるか。それと、逃げ道が2つ以上あるかだ」
「逃げ道が2つ、ですか?」
ココラが聞き返す。
「ああ。1つしかなけりゃ、塞がれた時点で動けなくなる。森じゃ戦ってる時間より、歩いたり休んだりしてる時間の方が長いからな」
「学校でも、その辺りは習いました。今度、実際に森へ入って実習をやるそうです」
「なら、ちょうどいい予習だ。今日は条件を覚えるだけじゃなく、自分で場所を見つけてみろ」
バンさんは、森の入口近くにある木陰を顎で示した。
「町なら、体調を崩しても布団と飯と薬湯がある。森じゃ、冷えや疲れで頭が鈍ったまま、水や火のことまで自分で決めなきゃならねえ。休める場所を早めに見つけておくのは、そのためだ」
ココラの表情が引き締まり、俺も木陰の地面や周囲の見通しを確かめた。
「実はな、偉そうに話してるオレも昔やらかしてる」
バンさんは苦笑した。
「緑ランクに上がった時だ。嬉しくてなぁ、調子に乗っていつもより深い森に入った。下調べもした。準備もした。退路も確認した。予備の食料や道具も揃えた。……だが、森の奥で濃霧に巻かれたうえに、情報にない格上のモンスターに囲まれてな」
「よく帰ってこられましたね」
俺が言うと、バンさんは肩をすくめた。
「半分は運だ。もう半分は、来た道を覚えていたからだな」
バンさんは、森の奥へと視線を向けた。
「霧の中じゃ、遠くの目印なんぞ見えなくなる。だからオレは、入る時に沢や斜面の向きまで覚えてた。あとは来た道の記憶を頼りに、どうにか戻ったんだ」
入口付近は木がまばらで、朝日も差し込んでいる。地面も比較的乾いていて、歩くのに苦労はなさそうだ。
少し先には低い丘があり、その向こうは木々が密集して奥まで見通せない。
「まず教えるのは、森の中で自分の位置と帰り道をどう確認するかだ」
バンさんは短槍の石突で地面を軽く叩いた。
「深い森で一番怖いのは、敵より先に迷うことだ。迷うと焦る。焦ると歩き回る。歩き回ると体力を削る。そうして、気づいた時には戻る力もなくなってる」
「目印を探しながら進むんですか?」
ココラが言う。
「そうだ。特徴のある木や岩、倒木なんかを覚えておく。ただし、1つだけを当てにするな」
バンさんは近くの木々を見回した。
「行きで見る景色と帰りで見る景色は違う。だから時々振り返って、帰る時にどう見えるかも覚えておけ」
なるほど。
言われて周囲を見てみると、ただ眺めていた時とは違って、特徴のある木や岩が少しずつ目につくようになる。
「それと最初のうちは、10歩くらい進んだら周りを見て、20歩くらいで一度振り返ってみろ。今は練習だから、大袈裟にやるんだ。そのうち自然に目が向くようになりゃいい」
「分かりました」
ココラが頷いた。
バンさんはさらに奥へ進みながら、今度は足元を示した。
「それから、歩く場所だ」
地面には落ち葉が積もり、ところどころに細い枝が転がっている。
「乾いた枝を踏むな。音が鳴る。ぬかるみに足を入れるな。跡が残るし、足を取られる。倒木は不用意に踏むな。腐っていれば崩れるし、下に虫や蛇がいることもある」
言いながら、バンさんは足先で地面を軽く探るようにして歩いていく。
歩幅は小さく、無駄な音が少ない。
「急ぐ時ほど足元を見ろよ。戦う前に足をくじいて動けなくなったら、さすがに笑えねえからな」
「嫌な言い方しますね」
「怖がらせたいわけじゃねえよ。森じゃ、そういう地味な失敗の方が案外厄介なんだ」
ココラが小さく頷く。
彼女は耳がいいからか、バンさんの足音と自分の足音を比べるように、慎重に歩き始めた。
俺も真似してみる。
普段、町の道を歩くのとは全然違う。足を置く場所をいちいち考えるだけで、思ったより疲れる。
「それと、森の中じゃ歩きっぱなしもよくねえ。よし、ちょっと止まるぞ」
バンさんが片手を上げ、俺たちを止めた。
「時々こうして息を整えて、周りの音を聞くんだ。鳥の声、虫の音、葉の揺れる音。急に静かになったら、近くに何かいるかもしれねえ」
俺たちは黙って耳を澄ませた。
風が葉を揺らす音。遠くの鳥の声。どこかで水が流れるような小さな音。
立ち止まってみると、歩いている時には聞こえなかった音がいくつもあった。
「嬢ちゃん。何が聞こえる?」
ココラの長い耳が、わずかに向きを変える。
「……水の音。それと、右奥で鳥が鳴いてます」
「よし。じゃあレオンは?」
俺も改めて耳を澄ます。
「風と葉っぱ」
「お前はもうちょっと頑張れ」
「いや、耳の性能が違いすぎるだろ」
ココラが小さく笑う。
「でも、レオンの言った葉っぱの音も大事なんじゃないですか?」
「もちろんだ」
バンさんが頷く。
「見通しの悪い場所に入る前も、一度止まる癖をつけとけ。茂みの先や倒木の向こうなんかだな。警戒して見れば、不意を突かれにくくなる」
「全部疑ってたら進めなくないですか?」
俺が言うと、バンさんは楽しそうに笑った。
「ははっ、そう思うだろ? だから斥候は疲れるんだよ。まあ、最初から全部できなくてもいい。まずは気にするところからだ」
なるほど、嫌な納得だ。
「この辺りはまだ木がまばらで、見通しもいい。親や先生が『あの丘の先へ行くな』って言うのも、ちゃんと理由があるんだ」
バンさんは丘の向こうを指した。
「危険なモンスターが出ることは滅多にない。けど、あの先は足場が悪く、道も分かりにくい。弱いモンスターでも、逃げる方向を間違えりゃ面倒なことになる。だから今日は、そうならないための練習だ」
短槍を担ぎ直し、バンさんは俺たちを見た。
「オレが先頭を歩く。レオンは真ん中、嬢ちゃんは後ろだ」
「ココラが後ろなんですか?」
俺が少し意外に思って聞くと、バンさんは頷いた。
「ああ。本当に危ない場所なら、後ろにも慣れた奴を置く。今日は訓練だから、オレが目を配れる範囲でやってみようって話だ」
そう言って、俺とココラを順に指す。
「レオンは、オレがどこに足を置いて、どこを避けるか見てみろ。どこで止まるかもな。最初は真似するだけでいい」
「了解」
「嬢ちゃんは後ろの音を聞いてみてくれ。最後を歩く奴は、背中側の異変に気づく役でもある」
「後ろの音……」
ココラの耳が少しだけ動いた。
「足音や枝が折れる音、草が擦れる音だな。オレたち以外の音が混じったと思ったら、遠慮せず教えてくれ。間違ってても構わねえから」
「はい」
「ついでに、レオンが変なものに気を取られてたら、それも頼む」
「なんで俺だけ追加で注意されてるんだよ」
「嬢ちゃんを頼りにしてるんだよ。お前を止める役としてな」
バンさんに笑いながら言われ、俺は何も言えなくなった。
「あと、何か気になるものを見つけたら、近づく前に一声かけてくれ。珍しい花でも、落ちてる道具でも、動物の死骸でも、変な穴でもだ」
バンさんはそう言うと、なぜか俺の方を見た。
「森じゃ、敵より『ちょっと見てみたい』って気持ちの方が厄介だったりするからな」
思わず苦笑する。
正直、かなり耳が痛い。
珍しいものを見つけたら、とりあえず近づいて見たくなる。生まれ変わっても、こういうところは前世から変わらないらしい。
「レオン……」
ココラが、めちゃくちゃ心配そうな目で見つめてくる。
「う、うん。分かってるよ」
「ははっ。もう尻に敷かれてるのか? まあ、気になるのは悪いことじゃねえよ。近づく前に、ひと言相談してくれりゃいい」
バンさんは笑いながら、再び丘の方へ歩き始めた。
丘を越える。
木々の枝葉が重なり、森の中が一段暗くなった。
さっきまで背後に見えていた明るい空も、木々に遮られ始めている。
俺は一度、後ろを振り返る。
斜面。
丘の形。
さっき歩いてきた方向。
頭の中で、もう一度帰り道を確かめた。
「ここからが本番だ。気ぃ抜くなよ」
バンさんの声が、少しだけ低くなる。
「了解」
「はい」
こうして俺たちは、町の子供たちが普段は近づかない西の森の奥へ足を踏み入れた。




