第2章 Act.20 日が沈む頃、倉庫街で
「ここまで大きな損を出せる馬鹿が、うちの商会にいるとは思わなかったわ」
町外れの倉庫街。
日が西へ傾き、窓から差し込む光が赤くなり始めていた。
ダズエル商会の倉庫の奥で、商会長アザリーは細い葉巻を指に挟み、ゆっくりと煙を吐き出した。
本来なら、こんな場所で吸うべきではない。
火気厳禁の倉庫だということくらい、商会長である自分が一番よく分かっている。
それでも今は、火をつけずにはいられなかった。
少しは気が静まるかと思った。
だが、駄目だった。
目の前に積まれた報告書を見るたびに、腹の底から怒りが戻ってくる。
「……それで、いくら損したの?」
向かいに立つ倉庫責任者が、青ざめた顔で金額を答えた。
アザリーは何も言わなかった。
葉巻を一度だけ吸う。
吐き出した煙が、倉庫の薄暗い天井へゆっくり昇っていった。
ティリア・ハニー。
ようやく手に入れた、新しい商品だ。
盗品でも、偽物でもない。
養蜂家と正式に契約を結び、代金を払い、ダズエル商会の商品として買い取った本物だ。
契約書もある。
領主に帳簿を見せろと言われても、何も困らない。
それを――。
「管理方法は伝えたはずよね」
「は、はい」
「蜂蜜が垂れたら、その日のうちに清掃する。樽に傷や漏れがないか確認する。ネズミを見つけたら、侵入口まで調べる。そう伝えたわよね?」
「はい……ただ、倉庫ならネズミが出ること自体は珍しくありませんので……」
「だから?」
男の声が止まった。
「最初は2、3匹でした。罠も置きましたし、それで十分だと……」
「十分ではなかったから、こうなっているのでしょう?」
倉庫の端には、齧られた木樽がいくつか並べられていた。
幸い、被害が出たのは一部だけだ。
異常が報告されてからは、すぐに全ての樽を調べさせた。
無傷の樽は別の倉庫へ移し、傷の浅い物も中身を確認して、問題のない蜂蜜は清潔な容器へ移し替えた。
床を洗わせ、壁際を調べ、ネズミの侵入口になりそうな隙間も塞がせている。
ティリア・ハニーの商売そのものが赤字になるほどの被害ではない。
それでも、失った利益は小さくなかった。
食害された樽。
廃棄した蜂蜜。
新しい容器。
清掃。
駆除。
運搬。
予定していた出荷の遅れ。
全部、金だ。
「知らなかったなら仕方ないわ」
倉庫責任者が、わずかに顔を上げた。
「でも、知らないから調べろと言ったのよ」
再び俯いた。
「酒樽と同じつもりで扱った?」
「……申し訳ありません」
アザリーは机に置かれた報告書を閉じた。
「辞めろとは言わないわ」
男が顔を上げた。
「今日付で倉庫責任者から外れなさい。当面は副責任者の下で在庫管理をやってもらうわ」
「……はい」
「今回の失敗は覚えておきなさい。次に同じことをしたら、その時は必要ないわ」
「はい!」
「それから、この倉庫だけじゃない。うちが使っている倉庫を全部調べさせて。食料を置いていなくても、ネズミが移っている可能性があるわ」
「すぐに」
男は深々と頭を下げた。
アザリーは、もう一度葉巻を吸った。
「せっかく手に入れた商品を、売る前にネズミへ食わせるために金を払った覚えはないのよ」
倉庫責任者は何も答えず、逃げるように倉庫を出ていった。
重い扉が閉まる。
静かになった。
――これが、今日の問題の1つ目。
腹は立つ。
だが、所詮は金で済む失敗だ。
金なら取り戻せる。
問題は――。
「それで」
アザリーは葉巻を灰皿へ押しつけた。
「そっちは?」
倉庫の柱にもたれていた大柄な男が、ゆっくりと顔を上げた。
ダズエル商会の護衛責任者、ジュドー。
表向きは、それだけだ。
だが、アザリーが商会を継いでから、この元傭兵には表では頼めない仕事も任せてきた。
ジュドーは柱から離れると、倉庫のさらに奥へ向かった。
しばらくして、1人の若い男を引きずりながら戻ってきた。
20歳を少し過ぎた程度だろう。
両手を後ろで縛られ、口元には殴られた跡がある。
「離せよ!」
男は暴れたが、ジュドーが腹に拳を一発叩き込むと、苦しげに身体を折り、そのまま大人しくなった。
「こいつで間違いない」
「名前は?」
「ボイ」
アザリーは男を見た。
「ヘブの友人だったそうです」
友人。
同じ貧民街で育ち、幼い頃から何度も一緒に盗みや喧嘩をしてきた。
血はつながっていないようだ。
だが、本人たちは兄弟のようなものだと思っていたらしい。
「……ヘブを殺すように言ったのは、お前か」
ボイが低い声で言った。
アザリーは答えなかった。
「聞こえなかったのか?」
「聞こえているわ」
「だったら答えろ!」
ボイが前へ出ようとする。
ジュドーの手が肩へ食い込んだ。
「座れ」
「誰が――」
膝の裏を軽く蹴られただけで、ボイは床へ崩れた。
アザリーは小さく息を吐く。
「よく、ここまで辿り着いたわね」
「……あいつを探してただけだ」
ヘブが消えたのは、偽ティリア・ハニーの工場が摘発される少し前だった。
ヘブは元々、工場周辺で運搬や見張り、荷物の受け渡しなどを任されていた下っ端の1人にすぎない。
ところが、欲を出した。
工場から偽ティリア・ハニーを少しずつ盗み、自分で売り始めたのだ。
町の外へ流すだけなら、まだ放っておけた。偽物が広がれば本物の信用が落ちるという点では、アザリーの目的にも合っていたからだ。
問題は、ヘブには商売の頭がなかったことだ。
市場や露店、酒場、知り合いの行商人。売れそうな相手なら手当たり次第に売り、誰へ渡したのかもまともに記録しない。止めるよう命じても、やめなかった。
むしろ、
「どうせ偽物を売るんだろ? 俺が売ったって同じじゃねえか」
と笑ったらしい。
同じなわけがない。
管理できない商品ほど危険な物はない。
実際、ヘブが流した偽ティリア・ハニーの一部がクラッカーへ挟まれ、町の露店で売られた。
そして、それを買った2人の子供が違和感に気づいたことから、偽造品の存在が一気に表へ出た。
アザリーにとっては、予定より早すぎる露見だった。
だから、ヘブは消した。
もう1人、貧民街のまとめ役とこちらの仲介人をつないでいた連絡係も始末している。
偽造工場が摘発されたあと、
「全部話されたくなければ金を出せ」
と脅してきた男だ。
最初は口止め料を払った。
だが、一度払えば終わる男ではなかった。
要求は次第に大きくなり、最後には領主へ話すとまで言い出した。
そこで終わりにした。
金で解決できるうちは金で解決する。
金で解決できなくなれば、別の方法を使う。
それだけの話だ。
そして今度は3人目。
ボイ。
「ヘブは、消える前の日にお前と会っていたそうね」
「……ああ」
「何を聞いたの?」
ボイは黙っていた。
ジュドーが一歩前へ出る。
「いいわ」
アザリーが止めた。
「言いたくなければ言わなくていい。その後のあなたの行動は、もう調べてあるから」
何を聞いたのかまでは分からない。
ボイ自身も偽造工場で働いていたが、仕事の指示は仲介人を通して受けていたため、その上に誰がいるのかまでは知らなかったはずだ。
ただ、ヘブが失踪してからのボイの行動については、すでに部下に調べさせていた。
最初は、貧民街や酒場を回り、ヘブの行方を聞いていたらしい。
そのうち、ヘブが失踪した夜に、町外れの森へ向かう不審な荷車を見たという話を聞きつけた。
ボイは森へ向かい、荷車が通れそうな道を中心に調べた。そして、新しく土が掘り返された場所を見つけたらしい。
そこは、ヘブを埋めさせた場所だった。
後から部下に確認させると、確かに土が掘り返されていた。
おそらく、ボイはヘブの遺体を発見したのだろう。
それから、ボイの調査対象が変わった。
今度はヘブの行方ではなく、ヘブを殺した人間を探し始めたのだ。
貧民街や酒場で聞き込みを続け、金を払い、時には殴られながらも、調査をやめなかったらしい。
そして、偽造工場に仕事や指示を回していた仲介人の1人へ辿り着いた。
ボイはその男を何日も尾行し、ついに男が倉庫街の裏手でジュドーと接触するところを突き止めた。
それからは、この倉庫の周辺を嗅ぎ回っていた。
そして今日、裏口を覗いているところをジュドーに捕まったというわけだ。
ヘブの死を知り、ジュドーとのつながりまで突き止めた。
だが、自分が殺害を命じたという証拠までは、掴んでいないはずだ。
少なくとも、帳簿や手紙を手に入れたという情報はない。
それでも、ここまで辿り着いた。
「大したものね」
アザリーは素直に言った。
「もう少し頭がよければ、こんなところまで来ずに町兵へ話したでしょうけど」
「町兵なんか信用できるかよ」
「だから自分で犯人を探した?」
「……ヘブは馬鹿だった」
ボイの声が低くなる。
「あいつはどうしようもねぇ馬鹿だった。でもな」
顔を上げる。
「殺されていいほどじゃねえ」
倉庫の中が静かになった。
アザリーは、その目をしばらく見ていた。
それから言った。
「町を出るなら、お金をあげるわ」
ボイが眉をひそめる。
「十分な金を渡す。別の町へ行って、好きに暮らしなさい」
「……は?」
「ヘブのことは忘れる。ここで見たことも忘れる。それで終わりになさい」
ボイの顔が歪んだ。
そして、唾を床へ吐いた。
「金で買えると思ってんのか」
「大抵のものは買えるわ」
「じゃあ俺は売らねえ」
「そう」
アザリーは、それ以上勧めなかった。
一度断った相手へ、同じ話を何度しても意味はない。
「残念ね」
わざわざ別の場所へ移せば、拘束した男を連れ歩くところを誰かに見られる危険が増える。
ここで捕まえた以上、人の引けた今、この倉庫で片をつける方がまだましだ。
従業員はもう帰り、出入り口も閉められているはずだった。
ジュドーは、倉庫の中央に用意してあった木椅子の前へボイを引き立てた。
椅子の真上には、樽を持ち上げるための滑車が太い梁に取り付けられ、そこから丈夫な麻縄が垂れていた。
ボイの顔から、初めて血の気が引いた。
「お、おい……」
両腕をつかまれ、無理やり椅子へ立たされる。
首へ縄がかけられた。
高さはぎりぎりだった。
普通に立てば縄が張る。
ボイは椅子の上で、必死につま先立ちになった。
「待て……待てよ……」
ジュドーは答えない。
椅子の脚へ片足をかける。
「アザリー!」
初めて名前を呼ばれた。
アザリーの眉が、わずかに動く。
「俺が消えたら、誰かが気づくぞ!」
「あなたのような人間が1人消えても、町は明日も普通に動くわ」
冷たい言葉だった。
だが、それが現実だった。
ボイは歯を食いしばった。
「ヘブを殺したこと、絶対に――」
ジュドーの足に力が入る。
椅子の脚が、わずかに軋んだ。
――その直前だった。
ジュドーの動きが止まった。
「……」
椅子へ掛けていた足を下ろし、顔だけを倉庫の横扉へ向ける。
アザリーが眉を寄せた。
「どうしたの?」
「静かに」
低い声だった。
その一言で、アザリーも口を閉じる。
倉庫の中から音が消えた。
聞こえるのは、椅子の上で必死に呼吸するボイの息遣いと、外からかすかに届く荷車の音だけ。
ジュドーは横扉を見つめたまま動かない。
数秒。
「……3人いる」
アザリーの表情から、先ほどまでの苛立ちが消えた。
「商会の人間?」
「いや」
ジュドーの目が細くなる。
「こっちの話を聞いてやがるな」
ジュドーの右手が腰のナイフへ伸びた。
アザリーも横扉を見る。
閉まっていると思っていた扉には、ほんのわずかな隙間があった。そこから夕暮れの赤い光が細く差し込んでいる。
次の瞬間。
ジュドーは抜き取ったナイフを、ほとんど狙いをつける間もなく放った。
銀色の刃が一瞬だけ赤い光を反射し、扉の隙間へ向かって飛んでいった。




