第2章 Act.14 マルセルの怒りと商会の女
空が白み始めた頃。
領主館の執務室には、まだ魔導ランプの明かりが灯っていた。
マルセル・ナ・ティリアは一睡もせず、守備騎士グラント・エージンとベイセル・ナ・ミースから昨夜の捕縛作戦について報告を受けていた。
「森の拠点は制圧しました。複数名を拘束。盗まれたティリア・ハニーと思われる樽と、帳簿も押収しています」
「工場側も制圧済みです。逃走した2名を含め10名を拘束しました」
「よくやった」
マルセルは短く答えた。
机の上には、押収品の一覧と報告書が並んでいる。
「……愚かなことをしてくれたものだ」
ティリア・ハニー。
この領地の名を冠し、周辺の村々と町の商人が長い年月をかけて育ててきた特産品だ。
それを盗み、混ぜ物で水増しし、同じ名で売る。
蜂蜜を何樽か盗まれた程度の話ではない。
「奴らが売ったのは蜂蜜ではない」
マルセルの声が低くなる。
「――ティリアという名だ」
偽物が広まれば、本物まで疑われる。
被害を受けるのは、真面目に蜂を育ててきた養蜂家や、それを扱う商人たちだ。
さらに「ティリアの品は信用できない」という評判まで立てば、蜂蜜だけでは済まなくなる。
「信用は積み上げるのに何年もかかる。だが、失うのは一度で足りる」
グラントも黙って頷いた。
産業が衰えれば、領の収入も減る。
領に金がなければ、兵を養うことも、街道を直すことも、魔獣や災害へ備えることもできない。
領民から税を取る以上、マルセルには彼らを守る責任がある。
「真面目に働く者が損をし、盗んで薄めた者が儲かる。それを領主が黙って見ているような土地にはできん」
怒鳴ってはいなかった。
だが、その声には明確な怒りがあった。
マルセルは報告書を閉じる。
「グラント。押収した蜂蜜の出所を調べろ。盗まれた養蜂家や商人まで辿れ」
「はっ」
「ベイセル。帳簿を洗え。作った者だけでなく、盗んだ者、運んだ者、売らせた者――頭まで辿れ」
「承知しました」
「ただし、証拠もなく捕らえるな。この騒ぎに乗じた私怨の密告も出る」
2人が頷く。
「それと、この件は隠すな」
ベイセルが顔を上げた。
「よろしいので?」
「偽物が出たことより、領主がそれを知りながら隠したと思われる方がまずい」
マルセルは窓の外を見る。
朝日に照らされ、ティリアガルデンの屋根が少しずつ姿を現していた。
「偽造品を確認し、製造拠点と盗賊団を摘発した。今回問題になったのは偽造品であって、正規品そのものではない。そこまで含めて知らせろ」
「はっ」
マルセルは再び2人へ視線を戻す。
「ティリアの名を汚した代償が、盗んだ蜂蜜を返せば済む程度のものだと思わせるな」
一拍置く。
「徹底的に調べろ」
「「はっ」」
大捕物は終わった。
だが、領主としての仕事はここからが本番だ。
◇
同じ頃。
ティリアガルデンの商業区、その一角にある商会の2階。
まだ店を開けるには早い時間だが、主人の執務室にはすでに明かりが灯っていた。
「……両方とも潰されました」
机の前に立つ男が報告した。
「森の連中も、貧民街の工場もです。領兵が同時に踏み込んだらしく、かなりの人数が捕まっています」
机の向こうに座っていた女が、手にしていた帳簿から顔を上げた。
「そう」
驚いた様子はない。
「思ったより早かったわね」
女の名は、アザリー。
ダズエル商会の現会長だった。
2年ほど前までは、夫がこの椅子に座っていた。
信用を重んじ、危ない橋を渡らず、確実な取引を積み重ねる男だった。
夫の死後、妻が商会を継いでも表向きの商売は大きく変わっていない。
酒。
繊維製品。
貸倉庫。
金貸し。
机の上にも、それらの取引記録や貸付金の帳簿が並び、その中には最近になって加わった数件のティリア・ハニーの買付契約も混じっている。
ただし、人間と商売のやり方は少しずつ変わった。
古参の一部は重要な仕事から外され、代わりに彼女が使いやすいと判断した者が重用された。
貸付は増え、以前より強引な契約も扱うようになった。
それでも利益は伸びている。
町での評判は、
――多少強引だが、商売のできる女。
その程度だった。
部下の方が、かえって落ち着かない様子を見せる。
「以前、工場の連中からも報告がありました。バンとかいう冒険者に怪しまれた可能性がある。場所を移すか、しばらく止めたいと」
「聞いているわ」
「……それでも、続けさせたんですか?」
アザリーは椅子の背へゆっくり体を預けた。
「止める理由がなかったもの」
部下が黙る。
偽造品を作り続けること自体が目的なら、あの時点で工場を移した方がよかった。
危険を感じた現場の判断は正しい。
だが、アザリーの目的はそこではない。
「町の外へ出た分は?」
「予定より少なくなりましたが、すでに複数の商人へ渡っています。町の中でも、それなりの量が売られました」
「なら十分よ」
アザリーの口元が、わずかに緩んだ。
「少し予定とは違ったけれど、本筋はうまくいったわ」
「……工場の連中も盗賊も捕まったのに、ですか?」
「だからよ」
アザリーは机の上に置かれていた別の紙を引き寄せた。
そこには、ティリアガルデン周辺の養蜂家や小規模商人の名前が並んでいる。
いくつかには、すでに印が付けられていた。
「これで偽物が存在したことは、領主自身が認めざるを得なくなった」
「ですが、すぐに取り締まったことも公表するでしょう」
「当然でしょうね」
むしろ、そうしてもらわなければ困る。
マルセル・ナ・ティリアは無能ではない。
偽物が出回った事実を隠すような男でもない。
製造拠点と盗賊団を摘発し、今回問題になったのは偽造品であって、正規品そのものではないと説明するだろう。
「でも、一度疑いを持った商人が、翌日から今まで通り買うと思う?」
部下が少し考える。
「……しばらく様子を見る者は出るでしょう」
「それでいいの」
必要なのは、ティリア・ハニーを潰すことではない。
欲しいのは、ほんの短い混乱だ。
買い手が慎重になれば、注文が減る。蜂蜜が売れなければ、現金が入らない。
蓄えの少ない養蜂家ほど、その影響は早く出る。
そこで。
「貸してあげればいいのよ」
アザリーが言った。
「金を、ですか」
「ええ。すでに話を進めているところは、そのまま契約をまとめなさい。新しく困っているところがあれば、そちらにも声をかけて」
金貸しは、もともとこの商会の仕事の1つだ。
そして貸付の条件には、金の返済だけではないものを加えている。
「今後数年間、うちへ優先して蜂蜜を卸す。それが条件よ」
「買付権を?」
「そう」
ティリア・ハニーは、これまでダズエル商会が深く入り込めなかった商品だった。
昔から取引してきた養蜂家と商人の結びつきが強く、多少高い値を提示しただけでは簡単に取引先を変えない。
なら、その関係が揺らぐ時を利用すればいい。
今年を乗り切るための金が必要なら、数年先の条件を受け入れる者もいる。
返済できれば、それでいい。
返せなければ、さらに条件を増やす。
そうやって少しずつ、仕入れ先を増やしていく。
「領主が信用を立て直す頃には――」
アザリーの指が、養蜂家の名前をゆっくりとなぞった。
「その蜂蜜を売る権利を、こちらが握っている」
そして価格が戻れば。
今度は自分たちが、本物のティリア・ハニーを正規の商品として売ればいい。
「偽物で値を落として、本物で儲ける……」
部下が呟く。
「言い方が悪いわね」
アザリーは微笑んだ。
「困っている養蜂家に金を貸して、売り先まで用意するのよ。立派な商売でしょう?」
冗談なのか、本気なのか。
その表情からは読み取れなかった。
部屋の扉の脇には、先ほどからもう1人の男が立っていた。
大柄な体。
古い傷の残った顔。
表向きは商会の護衛をまとめている男だ。
だが、借金の取り立てや、表立って処理できない揉め事まで任されていることを、ここにいる者は知っている。
アザリーが商会を継いでから重用するようになった人間の1人だった。
部下がちらりとそちらへ目を向ける。
「捕まった連中が、こちらのことを喋った場合は?」
アザリーは首を横へ振った。
「何もしなくていいわ」
意外だったのか、護衛の男まで目を動かした。
「今、誰かが不自然に消えれば、それこそ領主に答えを教えているようなものじゃない」
「ですが――」
「工場の連中は、私と直接会ったことがない。命令も金も、何人かを挟んで渡してある」
アザリーは自分の帳簿を指先で軽く叩いた。
「ここにも、偽蜂蜜を作れなんて1文字も書いてないでしょう?」
表向きに残っているのは、貸付。
倉庫代。
農産物の取引。
荷車の手配。
そして、正式な契約を交わしたティリア・ハニーの買付。
どれも、それだけなら普通の商売だ。
「マルセル様は優秀な方よ」
アザリーは静かに言った。
「だからこそ、証拠のない人間を怒りだけで捕らえたりはしない」
マルセルが、怒りだけで人を捕らえるような領主ではないことは分かっている。
そして今は、その慎重さがこちらにとって都合がいい。
「数日は余計な動きを止めなさい。裏の連中とも連絡を切る」
「貸付と買付の方は?」
「予定通り進めて」
アザリーは立ち上がり、窓へ歩いた。
朝日に照らされたティリアガルデンの町並みが見える。
そのさらに向こうには、周辺の村々と菩提樹林が広がっている。
亡き夫は、この町で長く商売を続けるなら、信用を失うような真似だけはするなと言っていた。
アザリーも、信用が大切だという考えには賛成だった。
ただし――。
信用は守るだけのものではない。
使える時には、使うべきものだ。
夫が何年もかけて積み上げたこの商会の信用も。
ティリアという土地が長い年月をかけて積み上げた信用も。
どちらも彼女にとっては、利益を生み出すために利用できる資産だった。
「ティリア・ハニー……」
これまでは、自分の商売ではなかった。
だが、すでに最初の契約は手に入れた。
アザリーは窓の向こうを眺めながら、静かに笑った。
「次は、これをうちの主力商品に加えましょう」




