親方、帝国に風呂を建てる
飛梁が六本、全部架かった。
大広間の天井のスラストを、外からがっちり受け止めてる。壁の開きが止まった。エルノの測量で確認済みだ。
「棟方殿。壁の傾斜、完全に停止しています。むしろ〇・二ミリ戻っています」
「飛梁が引き戻してるな。石の自重で元に戻ろうとしてる。——成功だ」
ゲルハルトが大広間の天井を見上げて深く息を吐いた。
「……これで、安心して会議ができる」
「天井が落ちる心配なく会食もできるわよ」
カーラがすかさず言った。こいつは本当にブレない。
さて。
飛梁が終わった。城壁の根継ぎは北面をヴァルターの石工チームに任せてある。帝国の現場が順調に回り始めた。
となると——約束を果たす時間だ。
「親方。風呂、まだ?」
「今から作る」
「待ってました!!」
カーラが拳を突き上げた。帝国に来て二十日。この女はずっと風呂を待ってた。
* * *
場所は城の北棟。ゲルハルトが「好きに使え」と言ってくれた一角。
帝国の石工二十人を借りた。ヴァルターが自ら現場に来た。
「儂も手伝う」
「あんた、風呂に興味あるのか」
「石造りの風呂など積んだことがない。新しい仕事には興味がある」
正直な爺さんだ。
「じゃあ壁を頼む。浴槽は俺が設計する」
帝国初の公衆浴場。設計はこうだ。
浴室は男女別。仕切り壁で完全に分ける。男湯・女湯それぞれに浴槽を一つ。深さ六十センチ、幅三メートル、奥行き四メートル。十人が同時に入れるサイズ。
床下にハイポコーストの煙道を通す。炉は浴室の外に一基。煙道が浴室の床下を蛇行して、床全体を温める。浴槽の下も煙道が通る。湯を温める。
「浴槽の湯はどうやって入れるんだ」
「ルッカ。蛇口だ」
ルッカが鍛造した鉄の蛇口を見せた。レバーを回すと水が出る。閉じると止まる。
「帝国の鉄は質がいいです。レグニカで作ったものより精度が高いのができました」
「よし。水の供給は城の井戸から引く。高低差で自然に流れるようにパイプを通す。——排水は床に勾配をつけて、排水口から外の排水路に流す」
ヴァルターが浴槽の石壁を積み始めた。
こいつの石積みで風呂を作ったら、どうなるか。
——なった。
浴槽の内壁が、信じられないくらい滑らかに仕上がった。石と石の継ぎ目が指で触っても分からない。目地の厚みが均一で、曲面の角が全部面取りされてる。
「……ヴァルター。これ風呂だぞ。要塞じゃねえぞ」
「石を積むのに手を抜く理由がない」
「いや、文句言ってるんじゃなくて——これ、レグニカの『竜の湯』より仕上げがきれいなんだが」
「当然だ。儂が積んだのだから」
……参った。この爺さんの石工魂は筋金入りだ。
* * *
浴場は三日で形になった。あとは仕上げだ。
で、ここで一つ問題がある。
帝国の冬は寒い。浴場に窓がないと暗い。だが窓を開けると寒気が入って湯が冷める。
レグニカなら気にならない程度の寒さだが、帝国の冬は外気が氷点下だ。窓を開けたら浴場が冷蔵庫になる。
「窓を付ける。ただし、普通の窓じゃねえ」
「何を企んでいる」
「二重窓だ」
ルッカにガラス板を二枚用意させた。帝国にはガラス工房がある。透明度は低いが、光は通す。
「ガラスを二枚使う。二枚の間に指二本分の隙間を空けて、枠で固定する。隙間には空気が入る。——この空気の層が断熱材になる」
「空気が……断熱?」
「空気は熱を伝えにくい。ガラス一枚だと外の寒さがそのまま中に伝わるが、間に空気の層があると、寒さがそこで止まる。——見せてやる」
窓枠を二つ作った。
一つは普通の窓。ガラス一枚。
もう一つは二重窓。ガラス二枚の間に三センチの空気層。
両方を浴場の壁に並べて嵌め込んだ。
「今は秋だが、朝晩は冷え込む。明日の朝、この二つの窓を比べてみろ」
翌朝。
石工たちが窓の前に集まった。
一枚ガラスの窓——内側が結露でびしょびしょ。水滴が垂れてる。窓の周りの壁も湿ってる。
二重ガラスの窓——乾いたまま。結露ゼロ。透明なガラスの向こうに朝日が見える。
「嘘だろ……!?」
「何で!? 同じガラスだろ!?」
「片方だけ乾いてる!? 何で!?」
「空気の層だ。外の冷気がガラス一枚目で止まる。二枚目まで届かない。内側のガラスが冷えないから結露しない」
「た、ただ二枚にしただけで!?」
「そうだ。二枚にしただけだ。間に空気を挟んだだけ。——空気は最高の断熱材だ。タダで手に入る。どこにでもある。なのに誰も使ってなかった」
石工の一人が二重窓に手を当てた。
「……冷たくない。窓なのに冷たくない! ガラスの窓は冬に触ると凍るほど冷たいのに!」
「それが二重窓だ。冬の帝国で、窓を閉めたまま明るい部屋が作れる。——風呂に最適だろ」
ヴァルターが二重窓を睨んでる。
「……空気を挟むだけ。たったそれだけのことを、誰も思いつかなかったのか」
「思いつかなかったんじゃねえ。発想がなかっただけだ。ガラスは一枚で使うもんだって思い込んでた。思い込みを外せば、答えはいつも単純だ」
「思い込みを外す、か……。基礎を深く掘れば凍上が止まる。鉛を挟めば地震を逃がせる。空気を挟めば寒さを止める。——全部、一つの発想だな。『間に何かを挟む』」
おお。こいつ、本質を掴みやがった。
「……ヴァルター。あんた、すげえな」
「何がだ」
「今のまとめ方。俺がバラバラに教えたことを、一つの原理で繋げた。——それができる奴は少ねえぞ」
ヴァルターが一瞬だけ目を見開いた。
「……褒めるな。気持ちが悪い」
「褒めてねえよ。事実を言っただけだ」
「同じことだ」
素直じゃねえ爺さんだ。俺も人のこと言えねえけどな。
* * *
風呂が完成した。
帝国初の公衆浴場。床暖房付き。二重窓。ルッカの蛇口。ヴァルターの石壁。
名前は——まだない。
「竜の湯の帝国版、何て呼ぼうか」
「帝の湯でいいんじゃない?」
カーラが即答した。
「……皇帝に怒られねえか」
「皇帝が入るんでしょ? なら帝の湯よ」
帝の湯。まあ、悪くねえか。
最初に入るのは——帝国兵だ。
ゲルハルトが兵士二十人を連れてきた。全員、浴場の入り口でモジモジしてる。
「……本当に裸で入るのか?」
「裸で入るんだ。湯に浸かるんだ。——いいからとっとと脱げ」
最初の一人が恐る恐る湯に足を入れた。
「あっ——」
「——つ——」
「————ッッッッ!!!!」
声にならない声が出た。
二人目。
「うわああああ!! 何だこれ!! あったけえ!! あったけえよおおお!!」
三人目が飛び込んだ。四人目も。五人目も。
一分後、二十人全員が湯に浸かってた。
「何だこれ……何だこれ……体が溶ける……」
「床もあったけえ……湯もあったけえ……全部あったけえ……」
「窓から光が入ってる……明るい……温かい浴場で窓から光が……」
白髪の老兵が、一番奥で黙って湯に浸かっていた。
目を閉じて、天井を見上げて、深く息を吐いた。
「……五十年、兵士をやってきた」
誰に言うでもなく呟いた。
「夏は砂埃、冬は凍傷。風呂なんぞ入ったことがなかった。川で体を洗うのが精一杯だった。——こんな……こんな気持ちいいことが、あるのか」
涙が湯に落ちた。
隣の若い兵士が気まずそうにしてる。
「……隊長、泣いてます?」
「泣いてねえ。湯気が目に入っただけだ」
——だから、それは俺のセリフだっつの。
仕切り壁の向こうからカーラの声が響いた。
「親方ーー! 帝国の風呂も良いじゃない! 石が重厚で格好いいわ! ヴァルターのおじいちゃんに伝えて!」
「おじいちゃん言うな!」
壁の向こうでルッカとリルの笑い声が聞こえた。
ヴァルターは——男湯の隅にいた。
湯に浸かってる。
帝国軍事建築総監が、自分の積んだ石壁に囲まれて、初めての風呂に入ってる。
「……」
「どうだ」
「……悪くない」
出た。『悪くない』。こいつ、俺と同じ語彙力だな。
「ここは戦場より良いな」
「当たり前だ。風呂は世界で一番平和な場所だ」
「……棟方。帝国中にこれを作れるか」
「作れる。石とレンガと煙道だけだ。帝国のどの村でも材料は手に入る」
「作る。——儂の手で。帝国中に」
「そりゃ心強い。帝国一の石工が積んだ風呂なんて、贅沢すぎるだろ」
「うるさいぞ」
二人で湯に浸かった。
帝国の灰色の空が二重窓の向こうに見える。結露しない窓。明るい浴場。温かい石の床。
イレーネが浴場の外で待ってた。ノートを持って。
「棟方殿! 浴場の運営マニュアルを作成したいのですが! 湯温の管理、清掃手順、煙道の保守——」
「後にしてくれ。今、風呂に入ってるんだ」
「す、すみません……! 出たら教えてください!」
エルノも外にいた。
「棟方殿。帝国語版の標準仕様書、全五章、完成しました。ブロック工法、床暖房、換気システム、すべり支承、二重窓。——校正が終わり次第、ゲルハルト将軍に提出します」
エルノの耳が赤い。帝国語の仕様書を完成させた達成感だろう。
「お前、帝国に来てからずっと書いてたな」
「はい。棟方殿がいなくても帝国の職人が自分で作れるようにするのが、私の仕事ですから」
「……上出来だ」
湯が気持ちいい。帝国の水は硬いが、温めると肌が滑らかになる。悪くねえ湯だ。
帝国に来て二十三日。城壁の基礎、床暖房、ブロック住宅、すべり支承、飛梁、アーケード、換気システム、二重窓、風呂。
やれることは全部やった。
——と思ったら、ゲルハルトが浴場に飛び込んできた。服を着たまま。
「棟方殿! 皇帝陛下が——」
「落ち着け。何だ」
「皇帝陛下が、風呂に入りたいと仰せです! 明日!」
カーラの声が仕切り壁の向こうから飛んできた。
「ほら見なさい! 帝の湯って名前にしといて正解でしょ!!」
……このタイミングで、この女の勘の良さだけは褒めてやる。
「分かった。明日、陛下をお迎えする。——ゲルハルト、とりあえず服を脱げ。浴場に靴で入るな」
「は、はいっ! 失礼しました……!」
明日は皇帝と風呂か。
日本にいた頃は、まさか異世界の皇帝と裸の付き合いをすることになるとは思わなかったな。
人生、分からんもんだ。




