親方、熱を逃がす
四十八時間ぶりに目が覚めた。
全身がバキバキだ。地面で寝たせいで背中が痛い。四四歳の身体に徹夜二連続はきつい。コーヒーを三杯飲んでやっと頭が回り始めた。
ダムは立ってる。三十メートルのコンクリートの壁が、峡谷を横切ってる。裏側の湖は水位二十九メートルで安定してる。雨が止んで、流入量が落ち着いた。
危機は去った。——と思ってた。
朝の点検で壁面を歩いてたら、嫌なものを見つけた。
壁の表面に、細い線が走ってる。ひび割れだ。
「……」
指でなぞった。浅い。表面だけ。だが一本じゃない。二本、三本——数えると、突貫で打った上部五メートルの区間に、十本以上のひびが入ってた。
「リル。ノームにこの壁の中を見てもらえるか。特に、温度が分かるなら」
「はい。——ノームが言ってます。壁の中がすごく熱いって。外側は冷えてるけど、真ん中はまだ熱くて、その温度差で壁が引っ張られてるって」
やっぱりだ。
コンクリートは固まる時に熱を出す。化学反応の熱だ。薄い壁なら表面から逃げていくが、分厚いダムの壁だと中心部の熱が逃げ場を失う。外が冷えて中が熱いと、膨張率の差で表面にひびが入る。
普通のペースで打ってれば、一段ずつ冷ましながら積めるから問題にならない。だがあの突貫で五メートルを一気に打った。冷ます暇がなかった。急いだツケが来やがった。
「まずいのか、親方」
ガルドが心配そうな顔で覗き込んでる。
「まずい。放っておくとひびが深くなる。水がひびから染み込んだら、ダムの内部が腐食する。最悪、壁が割れる」
「割れる!? ——せっかく間に合わせたのに」
「だから直す。今すぐにだ」
* * *
壁の中の熱を抜く方法。
元の世界のでかいダムじゃ、コンクリートの中にパイプを埋め込んで、冷たい水を流す。パイプの中を水が通る間に、コンクリートの熱を吸い取って外に運び出す。
だが、もう壁は打ち終わってる。パイプを埋め込む段階は過ぎた。
なら——後から穴を開けて、パイプを通す。
「ルッカ。鉄の管を作ってくれ。直径五センチ、長さ十メートル。壁を貫通させるサイズだ。五本!」
「はい、親方!」
「ガルド。壁の上部、突貫で打った区間に穴を開ける。水平方向にだ。壁を横に貫通する穴を五本。等間隔でだ!」
「壁に穴を開けるのか? それ、かえって強度が弱くならねえか?」
「五センチの穴で弱くなるほどヤワな壁じゃねえよ。壁の厚さは五メートルから二十メートルあるんだ。五センチの穴なんか、蚊に刺されたようなもんだ」
そして、穴を開けるアイデアも、既に閃いている。
俺たちが突貫で打ったコンクリートは、まだ完全に固まっていない。打設から少ししか経ってない区間は、表面は硬いが中はまだ柔らかさが残ってる。
「今なら鉄の管を叩き込める。来週だったら手遅れだった。——ガルド、この管を壁に水平に叩き込め。十メートル、反対側まで貫通させる」
「十メートル!? まっすぐ通るのか?」
「エルノが方向を出す。お前はエルノの指示通りに打て。ずれるなよ」
「棟方殿、この角度で真っ直ぐ進めれば、反対側の表面に出ます。左に一度ずれると反対面で三十センチずれますので、慎重に!」
「聞いたな、ガルド!」
「了解。——おりゃっ!」
ガルドが木槌で鉄管の頭を叩いた。尖った先端が壁に食い込む。コンクリートの表面は硬いが、中に入ると手応えが変わった。まだ柔らかい層に達したんだ。
ドスン。ドスン。ドスン。一打ごとに管が十センチずつ沈んでいく。普段の力任せが嘘みたいに丁寧な打撃。方向を微調整しながら、真っ直ぐ打ち込んでいく。こいつ、精密作業もできるようになったんだな。
五本の管が壁を貫通した。反対側からルッカが先端の到達を確認してくれた。管の周囲にコンクリートを充填して固定。
「管に川の水を流す。冷たい水が管を通る間に、壁の中の熱を吸い取る。熱い水が反対側から出てくる。入れ替わりに冷たい水が入り続ける。壁の温度が均一になるまで回し続ける」
上流の湖から管に水を引いた。冷たい雪解け水が管に流れ込む。
管の反対側から出てきた水を、ルッカが触った。
「熱い。かなり熱いです。壁の中の熱を吸ってます!」
「効いてる。このまま回し続ければ、一週間で壁の温度が均一になる。ひびの拡大も止まる!」
リルのノームが確認してくれた。
「壁の中の温度が下がり始めてます。真ん中と外側の差が小さくなってきてるって!」
「よし。あとは待つだけだ!」
三日後。ひびの拡大が完全に止まった。表面のひびにはコンクリート補修剤を塗り込んで封鎖。一週間後、壁の内部温度が均一になったのを精霊が確認。冷却水を止めた。
管はそのまま壁の中に残した。将来また必要になるかもしれない。
「急いだ仕事のツケは必ず来る。だから直す。直す方法まで含めて、仕事だ」
技術官たちが俺の言葉を書き留めてた。
報告書に載せるんだろう。
恥ずかしいからやめてくれ。
* * *
ダムの仕上げに入る。
まず余水吐き。湖の水が溜まりすぎた時に、余分な水を安全に流すための通路だ。ダムの端の崖を削って、幅五メートルの溢水路を作った。水位がダムの天端を超えそうになったら、ここから水が流れ出て下流に逃げる。
次に放水口。灌漑用の水を下流に送るための出口だ。ダムの下部に鉄の水門を設けて、開閉で水量を調整する。ルッカが作った水門は、ハンドルを回すだけで開け閉めできる。
「セドリックの港の水門と同じ仕組みか」
「ああ、一回作ったもんは使い回す。車輪を二度発明する必要はねえ」
放水口から灌漑用水路を下流の穀倉地帯まで引く。コンクリートの水路。王都で水道を引いた時と同じ要領だ。勾配をつけて、水が自然に流れるようにする。
水路の延長は十五キロ。長い。だがガルドのチームと農夫たちの合同作業で、三週間で掘り抜いた。農夫たちの目の色が違った。自分の畑に繋がる水路を自分で掘ってるんだ。腕の振りが違う。
全ての工事が終わった。
ダム本体。余水吐き。放水口。水門。灌漑水路。全部揃った。
「よし。——水を流す!」
* * *
放水の日。
下流の農村から人が集まった。百人以上。いや二百人近い。周辺の村からも来てる。噂を聞いて歩いてきた農夫、その嫁、子供、爺さん婆さん。
みんな、水路の脇に並んでる。空っぽのコンクリートの溝が、峡谷からまっすぐ穀倉地帯に向かって伸びてる。溝の先に、干からびた畑が広がってる。
「親方、準備はいいか」
「ああ。——ルッカ、水門を開けてくれ!」
ルッカがハンドルを回した。鉄の水門がゆっくり上がっていく。
ダムの放水口から——水が出た。
透明な水がコンクリートの水路に流れ込んだ。さらさらと音を立てて、勾配に沿って下流に向かう。
水路を水が走っていく。峡谷を出て、丘を越えて、穀倉地帯に入っていく。
農夫たちが水路の横を走った。水と一緒に走ってる。水を追いかけてる。
「水だ! 水が来たぞ!!」
「こっちまで来た! うちの畑の前まで!!」
水路から枝分かれした小さな溝を通って、水が畑に流れ込んだ。乾いた土が水を吸い込んでいく。黒く湿っていく。
最初に水が届いた畑の農夫が——あのおっちゃんが、畑の真ん中に立ってた。
足元の土が濡れていくのを、じっと見てた。
それから——崩れ落ちた。
膝をついて、湿った土を両手で掬い上げて、額に押し当てた。
「水だ……畑に、水が来た……!!」
泣いてた。声も出さずに泣いてた。
周りの農夫たちも泣いてた。嫁さんたちが泣いてた。子供たちはよく分かってないだろうが、親が泣いてるから一緒に泣いてた。婆さんが空を見上げて手を合わせてた。
みんな泣いてる畑の真ん中で、水がさらさらと流れ続けてる。
「……」
俺は何も言えなかった。
コンクリートで谷を塞いで、水を溜めて、管で温度を下げて、水路を引いて、水門を開けた。やったことはそれだけだ。
だがそれだけのことで——あのおっちゃんの畑に水が届いた。子供が飯を食える。
ガルドが横で鼻をすすってた。もう突っ込まない。俺も同じだ。
カーラが腕を組んで水路を見てた。目がちょっと赤い。
「ねえ親方……ダムって風呂より地味だと思ってたけど、撤回するわ」
「……何で風呂と比べるんだよ」
「だってあたしの評価基準、風呂だもの」
「お前の基準はおかしい」
「うるさいわね。——でもこれ、風呂よりすごいわ。認める」
カーラに「風呂よりすごい」と言われたのは初めてだ。最高の褒め言葉かもしれん。
ルッカが水門のハンドルを握ったまま静かに立ってた。
「親方。この水門は、わたしが作りました」
「ああ……」
「わたしの水門が、あの人たちに水を届けたんですね」
「お前の水門だ。お前の仕事だ」
ルッカの目が光った。
泣いてない。笑ってる。
「……鍛冶師やってて、よかったです!」
いい言葉だ。いいや、それ以上の言葉はいらない。
エルノが放水量を記録してた。水位の変化、流量、到達時間。全部数字にしてる。
「棟方殿。水路の末端まで水が届くのに、四十二分でした!」
「四十二分で十五キロか。上出来だ」
「はい。この水路があれば、穀倉地帯全域に一日で灌漑できます。年間の収穫量は——推定で三倍から五倍になるはずです!」
「三倍から五倍。——農夫たちに教えてやれ!」
「はい!」
エルノが農夫たちに数字を伝えた。三倍から五倍。畑の収穫が。
「五倍!?」
「嘘だろ!?」
「嘘じゃねえ! 水があれば二期作もできる! 冬以外ずっと作れる!」
農夫たちの顔が変わった。涙の顔から、希望の顔に。
「親方、ありがとう! 本当にありがとう、親方!」
全員の声が、いつまでも響いていた。
……くそ。また目にゴミが入りやがった。
ダムが水を溜めて、水門が水を流して、水路が水を運んで、畑に水が届いた。
これが——ダムだ。
谷を塞ぐ壁じゃない。人の暮らしを変える装置だ。
「さて……飯にするか。今日は勝ち飯だ」
「何のカツだ、親方?」
「川魚。——いや、今日は特別だ。農夫のおっちゃんたちに作ってもらった野菜のカツにする」
「野菜のカツ?」
「この畑で来年獲れる野菜の前祝いだ。今は干からびてるが、来年には——」
「来年には、この畑がいっぱいになるんだな」
「ああ……水があれば、畑は応えてくれる」
夕暮れの畑に水があった。コンクリートの水路がまっすぐ伸びてる。その先に、ダムの灰色の壁が峡谷の間に見えてる。
でかい仕事だった。今までで一番でかい。
だが一番大事なのは、でかいことじゃない。あのおっちゃんの畑に水が届いたことだ。
今回も、なかなかいい仕事だった。




