「親方、水を量る」
ダムの高さが二十五メートルに達した日、空の色が変わった。
西から分厚い雨雲が押し寄せてきた。山の天気は変わりやすい。朝は晴れてたのに、昼にはもう灰色の空。
「親方さん。水の精霊が言ってます。上流ですごい雨が降ってるって。山の雪解け水も混じって、川の水量が急激に増えてるって!」
リルの報告に、背筋が冷えた。
「どのくらい増えてる?」
「普段の五倍以上……まだ増えてるって」
五倍。
仮の堰で迂回させてる水路の容量は、普段の水量の三倍までしか想定してない。
五倍なら——溢れる。
「ガルド! 上流の仮堰を確認しろ!」
ガルドが走って戻ってきた。顔が険しい。
「やべえぞ親方。仮堰を越えて水がダムの裏側に流れ込んでる。水位がぐんぐん上がってる」
ダムの裏側に流れ込んだ水は、ダムの壁を押す。壁が完成してれば問題ない。三十メートルのコンクリートの壁なら、何万トンの水圧にも耐える。
だが今は二十五メートルだ。あと五メートル足りない。水が二十五メートルを越えたら、未完成の壁の上端を水が越えて、打ちたてのコンクリートを洗い流す。壁が崩壊する。
「リル。水位が二十五メートルに届くまで、あとどのくらいだ」
「水の精霊に計算してもらいます。——今の流入速度だと……二日です」
二日。
二日で水位が壁の頂上に届く。
* * *
全員を集めた。技術官も農夫も作業員も、全員。
「状況を説明する。上流の豪雨で水量が増えてる。このままだと二日後に水位が壁の上端を越える。越えたらダムが壊れる」
ざわめき。悲鳴。農夫の顔が蒼白になった。
「壊れる——? せっかくのダムが——!」
「壊さねえ。壊させねえ」
そう言うと、一気に場が静まり返った。
「二日で、五メートル打てばいいのさ」
……しばしの沈黙。
ガルドが最初に口を開いた。
「……親方。今まで一日三十センチだったのを、一日二メートル半にするってことか」
「ああ」
「型枠を毎日三十センチ上げてたのを、何倍にもするってことか」
「やり方を変える。スライディングフォームを連続運転にする。型枠を上げる間隔を三十分に一回にして、コンクリートを休まず流し続ける。昼も夜も止めねえ」
「コンクリートが固まる前に型枠を上げたら、崩れるんじゃ——!」
「崩れねえ。火の精霊にコンクリートの硬化を加速してもらう。水の精霊に水分管理を任せる。風の精霊に表面の乾燥を助けてもらう。土精霊に壁の内部を監視してもらう。四体フル稼働だ」
リルが頷いた。顔は緊張してるが、目は据わってる。
「やります。精霊たちも、やるって言ってます!」
「よし――ルッカ! 滑車とロープの点検を倍速で回せ。ロープが切れたら壁が止まる!」
「はい、親方! 予備のロープは十分あります。滑車の軸も交換用を準備してます!」
「エルノ、水位と壁の高さを一時間ごとに計測しろ。どっちが先に追いつくか、常に俺に報告しろ!」
「はい、測量器具は準備できてます!」
「カーラ!」
「何んだい、親方」
「何もなくていい。そこにいてくれ」
「……了解」
カーラが剣の柄に手を置いた。
剣で水は斬れないが、こいつがいると現場が落ち着く。
魔物が来ても大丈夫、もしもの時の用心棒だ。
「全員聞け。これから四十八時間、寝ないで壁を伸ばす。辛いだろうが、ここで止めたら全部が水の底だ。ダムも、農夫たちの希望も、俺たちの二ヶ月の仕事も。——全部沈む。沈ませねえ。意地でも」
「「「おう!!!」」」
腹の底からの返事だった。
* * *
突貫打設が始まった。
コンクリートを練る。流す。ロープを引く。型枠が上がる。また流す。また引く。
止まらない。呼吸するように繰り返す。
三十分に一回、滑車が回る。型枠が五センチ上がる。一時間で十センチ。六時間で六十センチ。
足りない。もっと早く。
「ガルド! コンクリートの練りを倍にしろ! バケツを二列で回せ!」
「おう、全員二列だ! 左右から同時に流し込め!」
農夫たちも加わった。コンクリートを練ったことなんかない連中だが、バケツを運ぶことはできる。人海戦術でバケツリレーを二列にして、コンクリートの供給量を倍にした。
火の精霊がコンクリートの表面温度を上げる。硬化が速まる。型枠を上げるペースが加速した。
六時間後。エルノの報告。
「壁の高さ、二十五・六メートル。水位、二十四・二メートル。差は一・四メートル。水位の上昇速度は毎時八センチです」
「壁の上昇速度は」
「毎時十センチ。わずかに壁が勝ってます」
「わずかじゃ足りねえ。もっと差を広げろ」
夜。松明を灯して作業を続ける。月明かりと松明の光の中で、コンクリートを流し続ける。
型枠が軋んでる。連続使用で木が悲鳴を上げてる。ルッカが走り回って、緩んだボルトを締め直し、割れた板を交換してる。擦り切れかけたロープを次々に張り替えてる。
ガルドが夜中の三時にコーヒーを淹れてくれた。
「飲め、親方。倒れるなよ」
「……すまんな」
「謝んなよ。飲んでくれ」
城壁を急いで直してた夜と同じやり取りだ。あの時もガルドが夜中に湯を持ってきてくれた。今度はダムで、飲み物がコーヒーに変わったが、やってることは同じ。
苦いコーヒーが腹に落ちた。頭がしゃきっとした。
まだやれる。
* * *
二日目の朝。
「壁の高さ、二十七・五メートル。水位、二十六・八メートル。差は〇・七メートル」
差が縮まってる。水が追いついてきてる。
「雨はまだ降ってるのか」
「上流ではまだ降ってます。でも——弱まってるそうです。水の精霊が、あと半日で止むって言ってます」
「半日。壁があと何メートルいる」
「二・五メートルです」
半日で二・五メートル。今のペースだと——ぎりぎりだ。
「ペースを上げろ。型枠を上げる間隔を二十分にしろ」
「親方、コンクリートが固まりきらないうちに上げたら——」
「固まりきらなくていい。形を保てる硬さになった瞬間に上げろ。火の精霊、もっと温度を上げてくれ」
サラマンダーがコンクリートの表面をぼうっと照らした。温度が上がって、硬化がさらに速まった。
二十分に一回、滑車がきしむ。ギィ、ギィ。峡谷にロープの軋む音が響き続ける。
午後。
「壁、二十九メートル。水位、二十八・五メートル。差〇・五メートル」
五十センチ。壁の上端に立つと、裏側の水面がすぐそこに見える。黒い水が壁を押してる。
「あと一メートル」
一メートル。
最後の一メートルが一番長い。
コンクリートを流す。ロープを引く。型枠が上がる。
二十センチ。四十センチ。六十センチ。
「水位、二十九・三メートル。差〇・三メートル」
三十センチ。壁の上端から覗き込むと、水面が手を伸ばせば届きそうな距離に迫ってる。
「あと四十センチ!!」
コンクリートを流した。ロープを引いた。
二十センチ。
「あと二十センチ!!」
コンクリート。ロープ。
十センチ——
「三十メートル! ――壁が、三十メートルに届きました!!」
エルノの声が峡谷に響いた。
「水位は!?」
「二十九・六メートル! 差〇・四メートル! ——雨が止みました! 水位の上昇が止まってます!」
止まった。
水が、止まった。
壁の上端と水面の間に、四十センチの余裕がある。水は壁を越えない。ダムは壊れない。
間に合った。
* * *
峡谷に歓声が湧いた。
作業員、農夫、技術官。
二日間寝ないで働いた全員が、叫んでる、泣いてる、抱き合ってる。
「間に合ったーーー!!」
「壁が勝ったぞ!!」
「ダムが水に勝った!!」
ガルドが地面に大の字に倒れた。
「終わった……腕が、もう上がんねえ……」
「よくやった。寝てろ」
「おう……言われなくても寝る……」
リルが座り込んだ。精霊たちが周りでふわふわ浮きながら、リルの肩を叩いてる。労ってるのか。精霊にも疲労感ってあるんだな。
ルッカが滑車のロープを握ったまま眠りかけてる。最後まで型枠の面倒を見続けてた。こいつの手がなかったら、型枠がバラけて終わってた。
エルノが測量データを最後まで記録してから、ノートを閉じた。一時間ごとの水位と壁高の記録。数字が交差しかけて、最後に壁が逃げ切った軌跡が、グラフに残ってる。
「棟方殿。最終記録です。壁高三十・〇メートル。水位二十九・六メートル。差〇・四メートル。——勝ちました」
「ああ……勝った」
カーラが水筒を持ってきた。
「はい。水」
「……ありがとう」
「お疲れ様。——あんた、四十八時間立ちっぱなしだったわよ。座りなさい」
「座ったら、立てなくなる」
「いいから座りなさい」
座った。……立てなくなった。言った通りだ。
農夫たちが集まってきた。五十人以上。全員泥だらけだ。二日間、コンクリートのバケツを運び続けてくれた人たちだ。
あのおっちゃんが——最初に頭を下げたおっちゃんが、俺の前に来た。
「親方。壁が……水に勝ったんだな」
「ああ……勝った。もう溢れない。このダムは、三十メートルの水を支えられる」
「来年の夏、畑に水が届くんだな」
「届く。約束する」
おっちゃんの目から涙がこぼれた。
「……ありがとう、親方。ありがとう」
周りの農夫たちも泣いてる。笑ってる奴もいる。空を見上げてる奴もいる。雲の間から青空が覗き始めてた。
雨が上がった。
峡谷に日が差し込んできた。ダムの灰色の壁面が、光を受けて白く輝いた。
三十メートルのコンクリートの壁が、峡谷を横切ってる。
裏側には、なみなみと水を湛えた湖。
でかい。
でかくて、頑丈で、美しい。
「親方」
ガルドが地面から顔を上げた。
「……悪くねえ」
「悪くねえよ」
「つーか、最高だ」
「……ああ。最高だ」
二回目だ。「最高」って言ったの。一回目は竜降ろしの夜。今日が二回目。
三回目があるとしたら——いつだろうな。
まあいい。今は寝よう。四十八時間ぶりの睡眠だ。
地面に転がった。空が青い。雲が流れてく。
三秒で意識が飛んだ。




