親方、海を越えた噂を聞く
出発の朝。
最後のコーヒーを港の桟橋で飲んだ。朝日が海を照らして、消波ブロックの頭が金色に光ってる。クレーンの腕木が空に伸びてる。灯台が白く輝いてる。
いい港だ。我ながら。
荷物をまとめて馬車に積んでたら、ふと足が止まった。
桟橋の三番目の柱。根元に小さな水溜まりができてる。
しゃがんで見た。コンクリートの基礎と杭の接合部から、じわっと水が染み出してる。
「ルッカ」
「はい」
「ここ、コーティングが一箇所剥がれてる。海水が鉄金具に触れてる。このまま放っておくと半年で錆びる」
ルッカが覗き込んだ。
「……ほんとだ。松脂が一センチくらい剥がれてます。これ、昨日の荷揚げでロープが擦れたんだと思います」
「塗り直してくれ」
「はい」
ルッカが松脂コーティングを塗り直した。三分で終わる作業。だが、この三分をやるかやらないかで、半年後の桟橋の寿命が変わる。
「セドリック」
「はい」
「クレーンのロープが金具に擦れる位置に、革の当て布を巻いてくれ。コーティングが剥がれるのを防げる。全台分だ」
「分かりました。すぐに手配します」
最後の最後まで、直すところが見つかる。当たり前だ。完璧な現場なんかない。問題を見つけたら直す。見つけ続ける限り、直し続ける。それが土方だ。
「よし。もういいだろ。——出発だ」
* * *
馬車に乗り込んだ。
港の広場にセドリックと漁師たちが集まってた。ヨルクがクレーンの操作棒を片手に立ってる。老漁師が杖をついて来てる。
「親方、達者でな」
「ああ、港を頼む」
「任せろ!」
馬車が動き出した。
その時——港から音が響いた。
ゴーーーン。
鐘だ。船の鐘。一隻、二隻、三隻。港に停泊してる船が次々と鐘を鳴らし始めた。
ゴーーーン。ゴーーーン。ゴーーーン。
十隻以上の鐘が重なった。港じゅうに響く。海に反射して、倍になって返ってくる。
「何だこれ……」
「『出港の礼』です!」
セドリックが遠くから叫んだ。
「この港を救った者への、船乗りの最高の敬礼です!」
鐘がまだ鳴ってる。馬車が港を離れても、まだ聞こえてる。丘を越えても、かすかに。
「……」
何も言えなかった。
ガルドが横で鼻をすすってた。もう突っ込まない。俺も似たようなもんだ。
カーラが窓から手を振ってた。「また来るわー!」と叫んでる。来るのか。まあ、あの温泉と酒のためなら分からんでもない。
ルッカはコーティング用の松脂を瓶に詰めてた。セドリックに渡す分の予備だ。最後まで気が利く。
エルノは港の全データをまとめた報告書を膝に載せて読み返してる。次の現場でも使える知見を整理してるんだろう。
リルは精霊と話してる。
「水の精霊が寂しがってます。海が好きだったみたいです」
「次は川だ。水の精霊にも出番はある」
「そう伝えます。——喜んでます」
精霊も忙しいな。
* * *
王都に向かう街道を北上してると、面白いことが起きた。
街道沿いの宿場町に泊まった夜。
酒場で飯を食ってたら、隣のテーブルの旅商人たちが噂話をしていた。
「聞いたか。南の港に化け物みたいな建築家がいるらしいぜ!」
「ああ、変な形の石を海に投げたら波が止まったって話だろ。嘘くせえ」
「嘘じゃねえよ! 俺の知り合いの船乗りが実際に行ってきた。港に入ったら嘘みたいに波が静かで、でかい機械が荷物を勝手に持ち上げてくれて、夜は塔の上から光が出てて——!」
「何だそりゃ。おとぎ話じゃねえか!」
「おとぎ話みてえだが、本当だってよ。そのうち噂が、帝国にも届くだろうな!」
ガルドが俺を見た。にやにやしてる。
「親方、お前の話だぞ」
「聞こえてる。黙って飯食え」
「化け物みたいな建築家だってよ」
「化け物じゃねえ。土方だ」
「もう訂正しに行ったら?」
「面倒くせえ。飯がまずくなる」
翌日の宿場でも似たような噂を聞いた。今度は西部要塞の話だった。
「国境に星の形をした砦ができたらしいぞ!」
「星? 砦が星の形ってどういうことだ?」
「さあ。でも帝国軍が二百人で攻めて、一人も入れなかったってよ!」
「嘘だろ!?」
「本当らしい。堀の水が湯だったって聞いたぞ!」
「何だそりゃ。風呂かよ!」
風呂だよ。温泉だよ。
ガルドが噴き出した。カーラもけらけら笑ってる。リルが「有名人ですね、親方さん」と嬉しそうだ。
* * *
王都に着いた。一日だけ作業場に寄った。
ハインツが上町の改修を進めてくれてた。ダグが下町のブロック住宅を増やしてくれてた。市場は繁盛してる。浴場は相変わらず行列。水道橋のアーチが夕日に光ってる。
変わってない。
いや、良くなってる。俺がいなくても、街は良くなり続けてる。
アレクシス王子からの書簡が届いていた。
『ダムの建設予定地を選定した。東部ミュール峡谷。現地調査をお願いしたい。資材と人員は手配済みだ』
ミュール峡谷。東部の穀倉地帯を流れるミュール川の上流にある峡谷だ。ここにダムを作って水を貯め、灌漑に使う。
ダム。
谷を丸ごと塞ぐ壁。今までで一番でかい仕事だ。城壁が八キロ、要塞が百五十メートル、港が全長二キロ。だがダムは——一つの壁だが、その壁が何万トンもの水を支える。
コンクリートの量。鉄筋の量。工期。全部が桁違いだ。
「親方、次はダムだっけ?」
「ああ、谷を塞ぐ」
「谷を塞ぐ。——また無茶なこと言うな」
「無茶じゃねえよ。俺の故郷じゃ当たり前の技術だ」
「親方の『当たり前』は、こっちの世界じゃ全部おとぎ話なんだよ」
一晩だけ作業場で寝た。
自分の布団。自分の風呂。自分のコーヒー豆。
やっぱり、ここが落ち着く。
カーラが風呂に入りながら叫んだ。
「ねえ親方! ダムって何さ!」
「でっけえ壁で川を塞いで、水を溜める!」
「何のために!」
「畑に水を送るためと、洪水を防ぐためだ!」
「ふーん! 風呂入れる!?」
「……入れるわけねえだろ」
「つまんない」
ダムに風呂は付かない。たぶん。
翌朝。東へ出発した。棟方組全員。馬車二台。
海の次は川。港の次はダム。
四四歳。まだまだ知らないことだらけだ。まだまだ作りたいものだらけだ。
山を越えたら、峡谷が待ってる。
「ガルド。コーヒー豆はちゃんと積んだか」
「積んだぞ。三袋」
「足りるかな」
「ダム作るのに何ヶ月かかるんだ」
「半年は覚悟しろ」
「……五袋追加していいか」
「追加しろ」
コーヒーがなきゃ朝が始まらない。現場がどこでも、それだけは変わらない。
さて。次の現場だ。
いつもご愛読いただきありがとうございます!
親方の物語はまだまだ続きます。
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