親方、山を読む
山の朝は早い。
日の出前に目が覚めた。標高が高い分、空気が冷たくて、寝袋から出るのに気合がいる。四四歳の身体に山の冷気はこたえる。
駐屯地の小屋を出て、焚き火を起こした。湯を沸かす。
荷物の底から、小さな革袋を取り出した。王都を出る前に南の商人から買った木の実だ。黒くて硬くて、噛むと苦い。商人は「薬草の一種で、煮出すと目が覚める」と言っていたが、俺にはこいつの正体に心当たりがあった。
木の実を焚き火の横の石の上に並べて、じわじわ炙った。パチパチと音がして、香ばしい匂いが立ち上る。
この匂い……間違いねえ。
炒った豆を石で潰して粉にした。布で漉して、沸かした湯を注ぐ。
黒い液体が、ぽたぽたと椀に落ちていく。
一口。
「…………くぅ」
苦い。酸味がある。元の世界のドリップコーヒーに比べりゃ雑な味だが、あの香りは同じだ。一年以上ぶりのコーヒー。朝日が昇る前の山で飲む一杯。
これだよ。現場の朝はこれがなきゃ始まらない。
「親方、何飲んでんだ? すげえ匂いがする」
ガルドが起きてきた。鼻が利く獣人は匂いに敏感だ。
「『コーヒー』だ。飲むか?」
「コーヒー? その黒い汁か? まさか、毒じゃねえだろうな……」
「毒だったら俺がもう死んでる。いいから飲め」
ガルドが恐る恐る口をつけた。
顔がくしゃっとなった。
「にっっっが! ——でも、何だこれ? 頭がすっきりしてくるぞ」
「だろ? 朝の一杯は頭を起こすんだ。現場に出る前に飲むと、一日の切れ味が違う」
リルも起きてきて一口飲んだ。「苦いけど……なんか好きかもです」。ルッカは「苦いの平気です」と平然と飲んだ。ドワーフは味覚が頑丈なのか。エルノは「エルフはこういうの飲まないんですが……あ、おいしい」と目を丸くした。
カーラは寝てた。あいつは朝が弱え。
「よし。飲み終わったら仕事だ!」
腹に一杯の黒い汁を収めて、山に向かった。
* * *
台地の測量を始めた。
エルノに任せた。水糸と分度器と錘の簡易測量器具を使って、台地の全域をグリッド状に測っていく。十メートル間隔で杭を打ち、各杭の高さと距離を記録する。
エルノの仕事ぶりを見て、確信した。こいつは測量の天才だ。
水糸の水平を一発で出す。角度を読むのが異常に早い。人間の測量士なら一箇所に五分かかる計測を、エルノは一分で終わらせる。しかも、精度が高い。
「エルノ、こっちの南端も測ってくれ」
「はい。——南端、基準点から百二十三メートル。高低差マイナス二・四メートル。傾斜は約一・一度です!」
暗算で傾斜角まで出してきた。こいつの頭の中に、三次元の地図ができてるんだ。精霊の声は聞こえないが、空間の声が聞こえてるんだろう。
「大したもんだ。お前の測量、精霊の地盤調査と同じくらい価値があるぞ」
エルノの耳が赤くなった。エルフは感情が耳に出るらしい。
昼前には台地全域の地形図が完成した。普通なら三日かかる仕事だ。
「親方、地形図です」
エルノが板に描いた等高線図を見せてきた。
これはすげえ。台地の微妙な起伏が全部可視化されてる。南に緩く傾斜してること、東端に浅い窪みがあること、北西の角だけ少し盛り上がってること。全部、見える。
「この窪み、水が溜まりやすい場所だな。ここには建物を置けねえ。排水路を通すか、堀の一部にする」
「北西の盛り上がりは、稜堡の一つを置くのに適してると思います。高い位置に突き出すので、見通しが良くなります」
「……お前、要塞の設計まで考えてるのか」
「地形を見てたら、自然とそう思えたので」
こいつ、俺が何も言わなくても地形から最適な配置を読んでる。測量士じゃなく、設計士の目を持ってやがる。
* * *
午後。岩盤の調査に入る。
台地の表面を一メートル掘ると、灰色の硬い岩盤に突き当たった。花崗岩だ。硬い。ツルハシで叩くとキーンと鳴って、火花が散る。
「これが『硬すぎて基礎が打てない』と言われた岩盤か……」
ヴォルフ大尉が横で見てる。
「はい。技術士官は匙を投げました」
「匙を投げるこたぁねえ。硬いってことは強いってことだ。こいつの上に乗っかりゃ、何を建てても沈まない。問題はどうやって岩盤と建物を繋ぐかだ」
ルッカが鍛冶場——仮設の小さい炉だが——で鉄のアンカーを作ってくれた。長さ三十センチ、直径二センチの鉄の杭。先端が尖って、表面に溝が切ってある。
「この溝は、何のためだ?」
ヴォルフが訊いた。
「コンクリートと噛み合うための溝です。鉄筋の凸凹と同じ原理。岩盤に打ち込んだ後、周りにコンクリートを流せば、アンカーとコンクリートと岩盤が一体化します」
さて、問題は岩盤に穴を開ける方法だ。
ツルハシじゃ効率が悪い。かといってドリルなんかこの世界にはない。
だが——方法はある。
「ガルド、火を起こせ。でかい焚き火だ。岩盤の上で」
「岩の上で焚き火?」
「ああ、岩を熱してから、冷水をぶっかけるんだ」
焚き火で岩盤の表面を三十分ほど加熱した。岩が赤く熱を持ったところで、水の精霊に冷水をかけてもらう。
バシュッ! と、蒸気が噴き上がった。
岩盤の表面に、細かいひびが入った。
「急激な温度変化で岩が割れる。火割りって技法だ。俺の故郷でも、火薬がなかった時代は、これで岩を砕いてた」
ひび割れた箇所にノミを当てて、金槌で叩く。パキン、と岩が欠けた。繰り返すと、直径五センチほどの穴が掘れる。
「ここにアンカーを差し込んで、コンクリートを流す」
鉄のアンカーを穴に挿入。周りの隙間にコンクリートを流し込む。固まれば、アンカーは岩盤と完全に一体化する。
試しに一本打ったアンカーを、ガルドに引っ張らせた。
「全力で引け」
「おりゃ!」
ガルドがSTR:Sの全力でアンカーを引っ張った。
が、びくともしねえ。
「抜けねえ! 岩にくっついてやがる!」
「岩盤にめり込んだコンクリートがアンカーを握ってるからな。人の力じゃ絶対に抜けない。ドラゴンが引っ張っても抜けねえよ」
ヴォルフ大尉が呆然としてる。
「この杭の上に、壁を建てるのか」
「そうだ。アンカーの頭を壁の基礎に埋め込む。壁と岩盤が鉄の杭で直結する。どんな力がかかっても、壁はずれない。持ち上げることもできない。山と一体化した壁だ」
「……フェルゲン村のドワーフの技術と同じか」
「近い。ドワーフは石と石を溝で繋いだ。俺は鉄とコンクリートで岩盤と壁を繋ぐ。原理は同じだ。全部を一つにする」
ヴォルフが黙って岩盤を見つめた。それから、低い声で言った。
「この要塞は——落ちないな」
「落とさねえよ。俺が建てるんだ」
* * *
日が暮れた。
駐屯地に戻って、飯を食った。
山の飯は質素だ。干し肉と硬いパンと、薄いスープ。王都の市場が恋しくなる。
だが、今日はちょっとだけ贅沢をした。
荷物から小さな樽を取り出した。王都の市場で仕入れた麦酒だ。問題は——温い。この世界の酒はどれも常温だ。
「リル、水の精霊にこの樽を冷やしてもらえるか。できるだけ冷たく」
「え? お酒を冷やすんですか?」
「冷えた麦酒ってのは、仕事の後に飲むもんの中で一番うまい。騙されたと思って、やってみな」
水の精霊が樽を包むように光った。
樽の温度がどんどん下がっていく。表面に水滴がつき始めた。
「よし、そのくらいだ。とめてくれ」
椀に注いだ。きんきんに冷えた琥珀色の液体。泡が少し立ってる。
一口。
「…………っぷはぁ!!」
うまい!
仕事の後の冷えた一杯――何でこんなにうまいんだ。
山の空気と汗と疲労が、全部この一杯で報われる。
ガルドにも注いでやった。
「——うお、冷てえ! なんだこりゃ、本当に飲み物なのか?」
「いいから飲んでみろ」
「それじゃあ、一杯……」
一口飲んだ。
「っっっぷはーーーーーっ!!」
カーラの風呂の溜息に匹敵する、魂が抜けそうな声が山にこだました。
「何だこれ! 冷てえ! うめえ! 何でこんなにうまいんだ、麦酒って!」
「冷やすと味が締まるんだ。温いままだと雑味が目立つが、冷やすとすっきりする」
「すっきりどころじゃねえ、生き返った!」
全員に配った。ルッカは未成年だから果汁を冷やしてやった。エルノは一口で「これは……危険な飲み物ですね。止まらなくなりそうです」と真顔で言った。エルフは酒に弱いのか。カーラは三杯飲んでけらけら笑ってる。こいつは強い。
リルは一口で頬が赤くなった。精霊たちが心配そうに周りを飛んでる。
山の夜空に星が出てた。焚き火の前で、冷えた麦酒を飲みながら、明日の段取りを頭の中で組み立てる。
アンカーの打設は明日から本格的に始める。星型の稜堡の各頂点にアンカーを打ち、そこから壁の基礎を広げていく。
三ヶ月。この山の上に、星の形をした要塞を建てる。
「親方。うまいな、この麦酒」
「ああ……」
「こういうのがあると、明日も頑張れる気がするな」
「現場の飯と酒はな、仕事の一部なんだよ。腹が満ちて気持ちが緩んで、明日に備える。手を抜いていい場所じゃねえ」
「なるほど……深いな」
「深くはねえよ。うまいもん食って、うまい酒飲んで寝るだけだ」
まあ、それだけなんだが。
それだけのことが、異世界だとなかなか叶わなかったりするんだ。半年前までは一人で冷や飯食って、水みてえな酒を飲んで、薄い布団で寝てた。
今は仲間がいて、冷えた麦酒があって、明日の仕事がある。
……悪くねえ。全然悪くねえ。
星空の下で、二杯目を飲んだ。




