親方、原点に帰る
国家事業の段取りを組み始めた翌日。
全国から職人を集めて研修を行う準備、各地への資材輸送ルートの確保、ブロック工場の建設候補地の選定——やることは山ほどあるが、まだ動き出しの段階だ。実際に全国展開が始まるのは来月からになる。
少しだけ、時間ができた。
ふと思い立って、下町を歩いた。
久しぶりに、何の用事もなく街を歩く。市場の建設が始まってからこっち、ずっと走ってばかりだった。歩くのは久しぶりだ。
足が自然に、ある場所に向かっていた。
* * *
マルタさんの長屋。
俺がこの世界で最初に修繕した建物。壁のひび割れを直して、基礎の不同沈下をやり直した、あの長屋。
まだ建ってた。
壁を見た。あの時直したひび割れの跡はうっすら残ってるが、新しいひびは入ってない。基礎も安定してる。竜降ろしの衝撃波も、ここまでは影響が小さかったんだろう。
玄関を叩いた。
「はいはい、どなた——あら」
マルタさんが出てきた。半年以上ぶりだ。白髪が少し増えた気がするが、元気そうだ。
「ムナカタさん! まあまあ、お久しぶりだねえ」
「ご無沙汰してます。壁の調子はどうですか」
「見てよ、真っ直ぐのままだよ。あんたに直してもらってから、一度も傾いてない」
マルタさんが嬉しそうに壁を撫でた。
「あんた、えらく出世したって聞いたよ。王様にも会ったんだって?」
「まあ、成り行きで」
「成り行きで王様に会う人がいるかい! ——まあ上がんなさい。お茶くらい出すよ」
久しぶりにマルタさんの長屋に上がった。
床を踏んだ。真っ直ぐだ。あの時、割栗石を突き固めて直した基礎が、ちゃんと持ってる。
だが——長屋の外に出て、裏手を見た時、気になることがあった。
共同井戸の周り。前に直した井戸だ。石組みは無事だが、井戸の周辺の地面がまたじめじめしてる。
最初に来た時と同じだ。地下水が片側に偏って流れて、地盤を緩くしてる。マルタさんの長屋の不同沈下の根本原因。あの時は基礎を直しただけで、地下水の流れ自体は手つかずだった。
直したが、原因を取り除いてなかった。
応急処置だったんだ。あの時の俺には、これしかできなかった。排水路を掘る技術も、精霊に地下水を調べてもらう手段も、コンクリートもなかった。
今は——全部ある。
「マルタさん」
「なんだい」
「この辺り一帯の排水、ちゃんとやり直していいですか」
「排水?」
「このじめじめした地面。井戸の水が地下で偏って流れてるのが原因です。前に壁を直した時は、それを止められなかった。今ならできます」
マルタさんが目を丸くした。
「そんなこと、まだ覚えてたのかい」
「職人は自分の仕事を忘れませんよ。ましてや、やり残した仕事はな」
* * *
翌日。棟方組の全員を連れて、マルタさんの長屋の一帯に来た。
「ここが、俺の最初の現場だ」
ガルドが長屋を見上げた。
「ここが。——ここから始まったのか、全部」
「ああ、この壁のひび割れを直すところから。あの時は、お前も、リルも、ルッカもいなかった。一人で割栗石を担いで、河原を三往復した」
「三往復……今なら俺が、一往復で済ませるのに」
リルが井戸を覗き込んだ。
「あ、この井戸。精霊が覚えてます。ここで親方さんに初めて会ったって」
土精霊がふわふわ光りながら、井戸の縁を飛び回ってる。懐かしいんだろうか。精霊にも思い出ってもんがあるのか。
「リル、精霊にこの辺の地下水の流れを見てもらってくれ。前に来た時と変わってるかどうか」
「はい。——ノームが言ってます。地下水は……やっぱり片側に偏ってるって。西側から東の井戸に向かって流れてて、途中で長屋の下を通ってる。長屋の基礎の土を少しずつ持っていってるって」
「やっぱりな。原因はまだ生きてた」
マルタさんの基礎を直してから半年以上経つが、地下水の流れは変わってない。突き固めた割栗石が頑張ってくれてるから今は大丈夫だが、何年もこのままだと、また地盤が緩む可能性がある。
「根本的にやる。この一帯に排水路を通して、地下水の流れをコントロールする。南区画でやったのと同じだ」
「同じって言っても、ここは既に長屋が建ってますよ?」
ルッカが周りを見た。確かに、更地だった南区画と違って、ここは建物の間を縫って排水路を通さなきゃならない。
「だからこそ腕の見せどころだ。——ルッカ、お前は長屋の基礎周りの状態を確認してくれ。ガルド、道に沿って溝を掘る。幅は三十センチ、深さは膝まで。リル、地下水の流れに沿って最適なルートを精霊に聞いてくれ」
「はい、親方!」
「了解だ、親方」
「はい!」
カーラが腕まくりした。
「あたしも掘る。暇だし」
「頼む。——ただし、排水溝を壊すなよ。お前、力加減が雑なんだから」
「失礼ね。意外と繊細よ、あたし。モンスターを倒す時以外はね」
「そりゃあ助かる」
そんなこんなで、作業開始。
長屋の裏手に沿って排水溝を掘っていく。コンクリートで溝を固めて、勾配をつけて東の本通りの側溝に接続する。地下水を排水路に誘導して、長屋の下を通らないようにバイパスを作る。
水の精霊が地下水の流れを感じ取りながら、最適なルートをリアルタイムで教えてくれた。ここを掘れ、ここは避けろ、ここに水が溜まりやすい。元の世界ならボーリング調査に何十万もかかるデータが、精霊の一言で手に入る。
半日で排水路が完成した。
地下水が新しい排水路に流れ込んで、長屋の下から水が引いていく。精霊が確認してくれた。
「親方さん。長屋の下の地面が、もう乾き始めてるそうです。水の流れが変わったって」
「よし。これでマルタさんの長屋は、もう不同沈下を起こさない」
マルタさんが見に来てた。排水路を覗き込んで、不思議そうな顔をしてる。
「ムナカタさん、この溝は何だい」
「排水路です。あの時やり残した仕事を、今日片付けました。これでもう地面がじめじめすることはない。壁にひびが入ることも、床が傾くこともない」
「……前に直してもらった時も、十分ありがたかったのに。また来てくれるなんて」
「やり残しがあったんです。気になってた」
マルタさんが気さくに笑った。
「あんた、変わったねえ。王様に会うような人になっても、こんなちっぽけな長屋の排水を気にしてるんだから」
「ちっぽけじゃねえですよ。俺の最初の現場だ」
マルタさんがまた目を潤ませた。この婆さんも泣き虫だな。
* * *
帰り道。
近所の住民が集まってきた。最初にマルタさんの壁を直した時と同じだ。
「親方、うちの排水も見てくれねえか!」
「うちの裏手もじめじめしてるんだけど——!」
「親方、うちも頼むよ!」
来た来た。いつものパターンだ。一軒直すと隣が来る。隣が来たらその隣も来る。
だが今回は、俺が全部やる必要はない。
「ダグさん。ここの排水路の延長、やってくれるか。南区画と同じ手順だ」
連絡を入れたら、ダグが大工チームを連れてすぐに来た。
「任せろ、棟方! 排水路なら目つぶっても掘れるようになったぜ!」
「頼む。勾配は百メートルで三十センチな」
「分かってるよ。何回やったと思ってんだ」
ダグが指揮を取って、長屋の一帯の排水路工事を始めた。俺はもう手を出さなくていい。
ガルドが隣を歩きながら言った。
「親方。なんか、いい一日だったな」
「ああ……」
「最初の現場に戻って、やり残しを片付けて。なんかこう……ぐるっと一周した感じがする」
「そうだな。……一周して、まだまだ先がある」
「どこまで行くんだ、俺たち」
「分からん。だが、やることがある限りは走り続ける。『土方』ってのはそういうもんだ」
夕日の中に、長屋の壁。
あの壁、俺が最初に直した壁……真っ直ぐなまま、まだ建ってる。
ここから始まった。マルタさんの長屋の、ひび割れた壁の前から。
半年と少しで、ずいぶん遠くまで来た。
だが今日、ここに帰ってきて分かった。どんなにでかい仕事をしても、一軒の長屋の排水を気にする親方でいたい。国の城壁を直すのも、婆さんの家の水はけを直すのも、同じ仕事だ。同じだけ大事だ。
それが——俺が『土方』である理由だ。
「さて。帰って風呂にするか!」
「賛成!」
「あたしが先よ」
「順番守れよ、姐さん」
「あんたたちが遅いのよ」
五人と四匹で、作業場に帰った。
いつもの夕暮れ。いつもの道。いつもの連中。
ああ……つくづく、悪くねえ。




