親方、帰ってきてコーヒーを飲む
一ヶ月の巡回を終えて王都に帰ってきた。
西門をくぐったら、門番が「おかえりなさい親方!」と叫んだ。いつからこの街の全員が俺のことを親方って呼ぶようになったんだ。名乗った覚えはねえんだが。
学院に向かう道すがら、下町を歩いた。通りがきれいだ。石畳にゴミが落ちてねえ。排水溝も詰まってねえ。——二期生が市場の巡回をやってるらしい。メルダの指示で月に二回、学生が下町を歩いて、小さな不具合を見つけて直してるそうだ。
俺が休みの日にやってたことを、仕組みにしやがった。あの女は本当に管理が上手い。
下町湯の前を通ったら行列ができてた。昼過ぎなのに三十人くらい並んでる。番台の管理人が手際よく客をさばいてる。壁を見た。版築の縞模様がきれいだ。ヒビもねえ。
学院に着いた。
「親方!! おかえりなさい!!」
ガルドが走ってきた。トルテが後ろから飛びついてきた。背中にのしかかられた。うるせえ。あと重い。猫獣人のくせに体重がある。
「トルテ離れろ。背骨が折れる」
「おかえりなさいって言ってるんですよ!!」
「聞こえてる! 降りろ!」
ガルドがトルテを引きはがしてくれた。助かった。
「おかえり親方!! ——学院は何も問題ねえぞ!! 二期生の壁積み実習が終わって、今は排水設計に入ってる!! 帝国の弟子も三人残って実習を続けてる!!」
「報告は後でいい。——コーヒーくれ」
「へいよ!」
ガルドがコーヒーを淹れてくれた。淹れ方が上手くなってる。昔は粉が多すぎて泥みてえな液体が出てきたが、今はちゃんと飲める濃さだ。
学院の講堂の椅子に座って飲んだ。
——うまい。
一ヶ月歩き回って、宿場の茶を飲んで、帝国の甘い茶を飲んで、カイザの水で淹れたコーヒーを飲んで。全部それなりだったが、学院の講堂で飲むコーヒーが一番落ち着く。ドームの天井が頭の上にあって、石の壁が周りにある。自分たちの手で建てた場所で飲むコーヒー。
膝が痛え。腰も痛え。足の裏にマメができてる。一ヶ月で三百キロ以上歩いた。四七歳の脚にはきつかった。正直に言えば途中で馬車に乗りたかった。乗らなかったのは意地だ。自分で敷いた道は自分の足で確かめる。意地っ張りと言われりゃ否定しねえ。土方は意地で生きてる。
* * *
巡回の報告をまとめた。エルノとセオを呼んで、全区間の点検結果を仕様書に反映する。
「街道の路面。三箇所に亀裂。全て補修済み。排水溝の格子追加が必要な箇所が二つ。橋は十二本中十一本が健全、一本の欄干モルタルを補修済み。トンネルは異常なし。ダムは水門のヒンジに給油が必要だった。水道橋は異常なし。——以上」
「はい、全てメモしました。仕様書の定期点検項目に追加します。——あと、巡回の頻度ですが、年に二回で十分でしょうか。春と秋に一回ずつ」
「春と秋でいい。冬の前に凍結対策の確認、夏の前に排水の確認。——ただし、大雨や地震の後は臨時で回れ」
「了解です。臨時点検のトリガー条件も仕様書に入れます」
トリガー条件。こいつの口からそういう言葉が出るようになった。現場を見ろ見ろと言い続けた男が、今は仕組みの言葉を使いこなしてる。現場と仕組みの両方が分かる奴は強い。
「あと一件。ユーリの住宅用小型免震支承を仕様書に正式追加する。ユーリの名前入りで」
「ユーリさんの! ——分かりました。設計図と耐荷重計算を取り寄せて、検証してから追加します」
「検証はエルノに頼め。——間違いはねえと思うが、念のためだ」
「はい」
エルノが耳を赤くしてる。嬉しいのか。お前はいつも耳が赤い。
ヴァルターからの帝国学院の件もセオに伝えた。メルダが行くかどうかは本人に訊く。
「メルダさんなら——たぶん行くと思います。あの人は仕組みを作るのが好きですから。新しい学院の運営を一から作れるなら、喜んで行くんじゃないかと」
「お前はメルダの何を知ってるんだ」
「えっ……い、いえ、仕事の傾向として……」
セオの耳が赤くなった。エルノと同じ色だ。男って奴は耳に出る。まあ俺の知ったことじゃねえ。
* * *
午後。講堂でコーヒーの二杯目を飲んでたら、メルダが来た。
「親方。——帝国学院の話、セオから聞きました」
「ヴァルターが指名した。お前の段取りが欲しいとさ。——行くか」
「行きます」
即答だ。迷いがねえ。
「いつ発つ」
「来週には出られます。帝国までは街道で三日。——引き継ぎ事項はセオさんに渡します。学院の工程管理マニュアルも複製してセオさんに預けます」
「引き継ぎの段取りまでもう考えてんのか」
「親方に言われたでしょう。段取りは前日までに終わらせろって」
「……言ったか」
「言いました。初日に」
こいつ、全部覚えてやがる。
「条件がある」
「何ですか」
「帝国の学院でも、朝の体操をやれ。ご安全にを言え。首巻きを巻け。手締めを打て。——それだけ守ってくれりゃ、あとはお前のやり方でいい」
「当然です。——学院の文化は持っていきます」
「あと風呂を建てろ」
「それはカーラさんの担当では」
「お前でもできるだろ」
「……やります」
メルダが背筋を伸ばして敬礼した。軍人みてえだ。帝国の血か。
「親方。——ありがとうございました」
「礼はいらねえ。お前が学んだことを帝国で広めてくれりゃそれでいい。出し惜しみはするなよ」
「はい。出し惜しみはしません」
去り際に振り返って、小さく笑った。「壁を叩く癖、帝国でも広めますね」。広めてくれ。叩く奴が増えれば壊れる壁が減る。
メルダが去った後、カーラが来た。
「メルダちゃん、行くの?」
「行く」
「寂しくなるわね」
「寂しくねえ。——増えるんだ。学院が二つになる。帝国にも仕込みが入る。嬉しいことだろ」
「でも寂しいでしょ」
「……うるせえ」
「はいはい。——風呂沸いてるわよ」
「……ありがてえ」
カーラは風呂が沸いてるタイミングで来る。こいつの風呂センサーだけは信用できる。
* * *
夕方。風呂に入った。学院の風呂。一人で浸かった。
学生たちは夕飯の支度をしてる。現場汁の匂いが風呂まで流れてくる。誰かがパンを焼いてる匂いもする。腹が鳴った。風呂で腹が鳴るのはみっともねえが、誰も聞いてねえからいい。
湯に浸かりながら天井を見た。木の梁。トラス構造。学生が組んだ屋根だ。釘の打ち方がちょっと雑だが、構造は問題ねえ。そのうち自分で恥ずかしくなって直すだろう。腕が上がればそうなるもんだ。
——こういう時間が一番好きだ。
仕事が終わって、風呂に入って、コーヒーの匂いと飯の匂いがして。体中が痛くて、湯が染みて、頭が空っぽになる。何も考えなくていい時間。
考えなくていいのに、考えちまう。明日は何をするか。仕様書の改訂。二期生の排水設計の確認。下町湯の竈の定期点検。ルッカにユーリの免震支承の量産体制を相談する。やることはある。たっぷりある。
仕事がなくなったと思ったのは錯覚だった。仕事は形を変えて続いてる。建てる仕事、教える仕事、守る仕事、広める仕事。全部違うが全部土方の仕事だ。
風呂から上がった。体を拭いて、服を着て、講堂に行った。
全員が飯を食ってた。でかい鍋の現場汁。ガルドがおかわりしてる。トルテが肉の取り合いでガルドと揉めてる。二期生が笑ってる。ルッカがコーヒーを淹れてくれてる。エルノが仕様書を広げて何か書いてる。飯の時くらい閉じろよ。リルが精霊に「今日も一日お疲れさまです」と言ってる。
ミーナが講堂の隅でコーヒーを飲んでる。飲めるのかこいつ。記録体なのに。
「ミーナ。コーヒー飲めるようになったのか」
「味は分かりません。でも温かい。——温かいのは好きです」
「……そうか」
席に座った。現場汁の椀を受け取った。うまい。いつもの味だ。根菜と肉と発酵調味料。この味だけは最初から変わってねえ。
ガルドが「肉多めに入れといたぞ親方」と言った。気が利くじゃねえか。トルテが「あたしが切ったんですよ!」と主張してる。猫の手で肉を切ったのか。まあ包丁使ってるだろうが。
飯を食いながら、講堂を見渡した。ドームの天井。四種の壁。学生が建てた校舎。窓から夕方の風が入ってくる。汗が乾く。飯がうまい。
——悪くねえ。
コーヒーを飲んだ。三杯目。飲みすぎだ。だが今日はいい。帰ってきたんだから。




