第35話 私たちの関係は、次の段階へと移行する
ルーナちゃんの特別なバリアに守られつつ、ボクは麻里さんの研究室に乗り込んだのだった。
「というわけで来ました」
研究室に入ったのはボク1人だけ。
ルーナちゃんは中には入らず、どこかへ行ってしまった。きっとボクを送り届けたことに満足したのかな。うん、いつもありがとうね。『ルーナちゃん好き好き愛してる。チュッチュしたい、今すぐに』。ううん、やっぱりそれは後でね。
「いらっしゃい。私の楓」
麻里さんは自分のデスクから立ち上がり、わざわざ研究室の入り口まで迎えに来てくれた。その表情は穏やかなものだ。
「何をしに来た、とは訊かないんですね?」
まさか歓迎されるとは思わなかったので、逆にちょっと警戒していますよ。
ボクの侵入を許してどうするつもりなんですか?
「私たちは次の段階へと移行しなければいけない」
「次の段階? それは≪初夏≫がいよいよ天下を取りに行くって意味ですか?」
それはつまり、≪The Beginning of Summer≫プロジェクトの最終段階に移行するという意味なのかもしれない。
武道館ライブ。
とうとう≪Believe in AstroloGy≫に肩を並べるのか。
「そうではない。私たちの関係だ」
「ん? 私たちとは?」
≪初夏≫と誰の関係だろう。
「私と楓。私たちの関係だよ」
そう言って、麻里さんがボクの手を取った。
ひどく冷たい指先。まるで氷のようだ。
「何ですか、急に。麻里さんとの関係? 親子? ああ、もしかしてボクの試験期間か何かが終わって1人前ってことですか⁉」
何かの活動が認められたのかな。
もしかして≪BiAG≫の人たちとのデートが何らかの試験になっていたとか? 麻里さんはサプライズが好きだからなあ。普通にあり得る。
「楓は成長したな。私がいなくても自ら思考し、自ら意思決定できるようになった。人としての狡さも備わったように見える」
「狡さ? それ褒めてます?」
「ああ、褒めているよ。私の楓。お前はもう立派な人間だ」
突然、首に手をまわし、抱き着いてきた。
「ちょっと⁉ どうしたんですか⁉」
もしかして、感傷的になっているんですか?
ボクの成長がそんなにうれしいんですか?
「生まれた時から……いや、違うな。それよりもずっと前から、愛しているよ」
「それは、ありがとうございます?」
ホントどうしたんだ?
まるでこれでお別れでもするかのような口ぶりで……。
「私の親としての役目は終わりだ」
麻里さんはボクから体を離すと、白衣の乱れを整えた。それからボクのことをまっすぐ正面から見つめてきた。
「私は、ずっとお前のそばにいる。これからもずっとな」
「はい……ありがとうございます?」
親としての役目は終わり。
そう宣言しておきながら、ずっとそばにいる?
麻里さんが何を伝えたいのかよくわからない……。
補助輪が外れた自転車みたいな扱いなんだろうとは思うんだけど、手は放しても見守っていてくれるよってこと、なのかな?
ん、でもこの言葉、どこかで……?
「私がこれからしようとしていることを知ったら、楓は私のことを許してくれないかもしれないな……」
手を後ろに組み、ボクから離れて歩き出す。
「それでも私のことを選んでほしいと思っている」
選ぶ?
「ずっとこの時のために――。長かった……」
麻里さんは立ち止まり、天井を仰ぎ見る。
大きく息を吐いてから、首を傾けてボクのほうに視線を送ってきた。
「失われてしまったものは多く、決して完全とは言えないが、サルベージは完了している」
何の……いや、この口ぶり、七瀬マネージャーの――七瀬楓の記憶データか。
ボクに埋め込まれていたのは一部だと聞いているけれど、まだほかにもデータ化できた記憶が存在していたのか。
「愛しているよ」
麻里さんの頬を一筋の涙が伝う。
「でも私はお前を、お前たちを愛しすぎてしまったのかもしれない……」
いったい何を言っているんだ?
「この許されざる所業を止めてほしいと思っているのかもしれない……。だが私は、この時のためにここまで生きてきた。あの人のいない絶望の世界の中で」
許されざる所業……?
麻里さんは何をしようとしているんだ?
「だから選んでほしい」
何を……ですか?
「これからお前に鍵を預ける。すべてを選ぶのは楓……七瀬楓さんよ」
そう言ってから麻里さんは、自身の頬を伝う涙を白衣の袖でぬぐった。




