第6話 止まった秒針と、解けない後悔
【R-15】
本エピソードには、一部残酷な描写や、精神的な苦痛を伴う表現が含まれます。あらかじめご了承の上、お読みください。
レオが立ち止まり、凍りついたショーウィンドウのガラス面に指先を軽く当てる。表面に浮かぶのは、美しい幾何学模様を描いて固定された氷の結晶だ。レオの指先から黄金色の火花が飛び散るが、それは氷を溶かすどころか、表面で無力に明滅し、すぐに光を失う。
「……なんだ、これは。溶けるとか、そういう問題じゃねえな。すべてを弾いていやがる…。おそらくだが長い時間かけてもこの氷が解けるきがしねぇ。まるで分子レベルで『停止』を強制されているような…。あまりに完璧で、あまりに冷たい硬度だぜ」
レオの表情から、先ほどまでの少年のような無邪気さは消え失せていた。彼の額には薄く冷や汗が浮かんでいる。この異常な静寂とが「完璧」と言わしめるほどの、物理法則を超えた断絶であることを直感していたのだ。
「……繊細だ。あまりにも繊細で、それゆえに、誰にも触れられたくなかったような寂しい力だ」
深呼吸をしてから、レオは独り言を発しながら氷に触れた。
「いっった…!」
「レオ!?大丈夫!?」
「F○○K…!!ああ、だが気をつけろ。絶対に直接触るなよ。…なんというか熱が全部吸われるような感じがした…。」
レオが指を引いた瞬間、しずかは彼の指先に目が釘付けになった。
黄金色のオーラを纏っているはずのその指先に、微細な霜がこびりついている。さらに恐ろしかったのは、霜の下にある彼の肌の色だ。
いつもは力強い生命力に満ちた黒檀のような肌が、まるでペンキを塗りつぶしたかのように灰白く濁り、血の通った温もりが完全に吸い出されている。
「レオ……その指、色が」
「ああ。……感覚がない。熱を伝えてるはずなのに、俺の肉体そのものが、この停滞に食われてるみたいだ」
静はハッとして顔を上げた。兄の力――この世界を白く塗りつぶす絶望的な静止が、かつて優しく微笑んでくれた兄の心そのものなのだと理解した瞬間、静の胸の奥に、見えない氷の楔が突き刺さった。思考よりも先に、肺が冷え切り、息が喉に詰まる。
二人はハルトが一人暮らしをしているアパートに着くことができた。しかし、静の『運動エネルギーの増幅』を以てしても、足元は雪ではないのにも関わらず、まるで泥沼の中を歩くような重苦しさがあった。ハルトの抱える澱んだ感情が、物理的な圧力となって二人を押し潰そうとする。空気が重く、粘度を増していくとてつもない力。
「はぁ、はぁ……っ」
階段で静が膝をつきそうになった。全身の細胞が、ハルトの「停止」の圏内に飲み込まれ、生命活動そのものを拒絶されているかのようだ。吐き出す息すらも、白い霧となって形を変える前に凍りつき、まるで小さな針となって肺を刺す。
「……おいおい、こんなところで膝をつくなよ! あと少しで家には着くんだ!」
レオが迷わず、自分の手のひらから『擬似太陽』を解放した。黄金色の熱の塊が、冷え切った空間にぽっかりと穴を開けるように浮かび上がる。
「悪い、少し油断してた。……ここから先はずっとこれを出しておく。俺の近くから離れるなよ、相棒」
レオの放つ黄金の熱が、少しだけ空間に「時間」を取り戻す。
凍りついた建物だがハルトの部屋には鍵がかかっておらず、レオの持つ鉄の棒で開けることができた。
玄関の扉が音もなく開くと、静は息を呑んだ。そこは空気が重いなどという生易しいものではなかった。かつてここにあったはずの生活の気配――古びた洗剤の残り香も、兄が最後に淹れたであろうコーヒーの微かな酸味も、すべてがその場に封じ込められ、拡散することさえ許されていない。鼻腔を抜けるのは、清潔というよりも、死に近いほどの無機質な冷たさだけだ。
ホコリの一粒さえも空中で静止し、湿度はゼロ。兄の生活の残滓が、まるで博物館の展示物のように、歪みなく凍てついた空間に閉じ込められている。その異常なまでに完成された「静寂」を前に、二人は息をのんだ。
「……お兄ちゃんは、いないみたい」
静が零した呟きを合図にするように、脳裏で数年前の記憶がフラッシュバックする。
兄が上京してすぐの頃、この狭いアパートを初めて訪ねた時のことだ。
当時の兄は、新しい仕事の激務と慣れない環境に押しつぶされそうになっていたはずだ。それでも兄は、無理をして作った夕飯を出しながら、今のこの静寂とどこか似通った、薄氷を張ったようなぎこちない笑顔を浮かべていた。
『仕事、大変だけど頑張ってるよ。……心配かけてごめんな。でも大丈夫、静に心配されないようにもっと頑張るから…!』
あの時の兄の目元にはまだ隈こそなかったが苦労していることがはっきりとわかる表情をしていた。周囲の期待に応えようと、家族に迷惑をかけまいと、自分をすり減らして必死に立っていた兄の姿。
「……お兄ちゃんは、昔からこうだった。自分を殺して、誰かのために笑おうとするんだ。少しでも助けたくてたまーにアポなしで来てご飯作ったりもしたよ。でも…」
静は力なく立ち尽くしたまま、ただ大粒の涙を零した。こらえようと噛み締めた奥歯が震え、そこから漏れ出した嗚咽が、凍てついた空気に混じる。レオの黄金の光が、静寂の世界に削り取られ、少しずつ白く濁っていくのを視界の端に捉えながら、彼女は途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「あの頃から、ううん。ずっと前から全部抱え込みすぎてた。私はそれを見て、頑張ってるねって言ったけど、あれは……『頑張りすぎだよ』って『もう頑張らなくていい』って、言ってあげるべきだったのかなぁ…!今のこの景色、お兄ちゃんが心の底でずっと望んでいた『すべてから解放された場所』なんじゃないかって、そう思うと……!」
「……かもしれないな。だがな、静。お兄さんが追い詰められていたのは事実だとしても、俺たちは今、最高の『助っ人』としてここに来たんだ。彼が一人で抱え込んでしまったこの重苦しい静寂の中に、俺たちの熱を叩き込んでやる」
レオは立ち止まり、自分の右手を両手でギュッと握りしめた。彼の黄金のオーラは今や、薄い膜のように心もとない。しかし、その眼差しには揺らぎがない。
「俺たちはお兄さんを救うヒーローになるんだ。お兄さんの『頑張り』を肯定してやる。それが、俺たちがここまで来た意味だろ?」
「……うん。そうだね、レオ」
階段の段差を降りるたび、二人の足元で氷が鋭く軋む。レオの黄金の光は小さく揺らぎ、そのたびに彼の黒檀の肌に灰白い斑点が増えていく。レオは自身の指先が動かなくなっているのを悟られないよう、わざと大げさに肩を叩き、静を励ますように力強く笑ってみせた。静に背負わせるのは、絶望ではなく「お兄さんを助ける」という希望だけだ。
しかし疑似太陽も少し小さくなっており限界に近付いているのは誰の目から見ても明らかだった。それでも、少し引きつった笑顔を浮かべて言った。
「ヒーローは、ピンチになってからが本番だろ!」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
レオの防御の『陽光装甲』が、まるで硬質なガラスのようにヒビ割れる音を立てる。パキィ、という乾いた音が、この無音の世界に響く。
次の瞬間、もはや存在そのものを「ゼロ」に上書きするような、圧倒的な停滞の奔流。
それは、レオが放っていた『擬似太陽』の黄金の輝きを、抵抗することさえ許さずに一瞬で「無色」へと変えた。熱源そのものが、物質としての熱を奪われ、凍結という名の停滞に回収されていく。
――静は見た。雪の向こうで、こちらに気づいて震える兄の姿を。
そこには、かつて実家で見た兄の面影も、上京したての必死な兄の姿もなかった。ただ、すべてを諦め、灰色の静寂に埋もれようとする一人の青年の、あまりにも脆い魂があった。
「お兄――」
叫ぼうとした瞬間。
静が伸ばした手も、向かおうとした足も、その声や熱い祈りさえも、全てが届く前にこの深い孤独の中へ沈み込み、静止した。
静止した雪の粒が、光を乱反射し、皮肉なほど美しく輝いている。
静の表情は驚きと愛着を湛えたまま、微動だにしない。
世界が、完全に止まるまで…。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
凍りついた孤独の中で、二人が何を見、何を感じたのか。
ハルトの力は、周囲のあらゆる事象を分子レベルで「停滞」させる。ただそれだけのものです。
この結末を見届けていただければ幸いです。
次回へ続きます。




