第7話 白銀の墓標
【R-15】
本エピソードには、一部残酷な描写や、精神的な苦痛を伴う表現が含まれます。あらかじめご了承の上、お読みください。
アパートへと続く道は、不気味なほどに静まり返っていた。
俺の意識はどこか遠い場所にあるようだった。脳髄を鉛で詰め込まれたような鬱屈、身体の端々から生気が少しずつ、着実に吸い出されていくような底なしの倦怠感。
仕事の重圧や、終わりの見えない雑事。何もかもが整理できず、思考は霧の中を彷徨うばかりだった。全てを放り出して眠ってしまいたいという願望と、それでも明日を生きなければならないという強迫観念が、俺の中で泥のように混ざり合っていた。
アパートの入り口が見えた時、俺の意識はその霧の中から不意に引きずり出された。
そこに、二つの影があった。
一人は、黄金の光をぼんやりと纏った大柄な男。
そしてもう一人は、黒髪を風になびかせて立っている、妹の静だ。
「……静!」
(……なんで、こんなところにいるんだ?)
驚きというよりは、単純な疑問だった。あいつがこんな夜中に、何かの勧誘か、それとも近所の溜まり場か。いずれにせよ、早く中に入って、適当に晩飯の残りで済ませて寝たかった。そんな、ごくありふれた日常の続きとして、俺は歩み寄った。
「おーい、何してんだよ」
そう声をかけようと、俺は軽く駆け足で距離を詰めた。早く帰って、明日の準備もしないといけない。それが俺にとっての、守るべき生活のサイクルだった。
だが、三歩、四歩と踏み出したところで、世界がその本性を現した。
アスファルトが粘土のように足裏にまとわりつき、空気がゼリーのように密度を増していく。駆け足で進もうとする俺の身体は、意志とは裏腹に、まるで厚い水底へと沈み込むかのように鈍くなっていく。
それと同時に、俺の視界の端から、街の風景が「停止」を始めた。
空を流れる雲が、まるで絵画のように固定され、風に乗って舞うはずの埃が、空中で静止した粒となって散らばる。まるで世界そのものが、俺の歩みに合わせて息を止めているかのように。
そして、その異変の中心に、彼女はいた。
静が、凍てついていた。
手を伸ばし、何かを叫ぼうとして、そのまま空中で結晶化したような無機質な姿勢。かつて太陽のように笑っていた彼女の面影は、あまりにも脆く、あまりにも冷たい氷像になってそこにいた。その瞳には、俺を助けようとしたのだろうか、それともただ驚愕が宿っているのか、人間としての意思の残滓すら見えない。
おかしい。
おかしいはずなのに、視界の隅に映る彼女の姿が、あまりにも無機質で、静止していて、俺の思考は「異常」という結論を出すことを拒絶していた。
「……シズカの。お兄ちゃんの。ハルトだよな。俺はレオ。」
ふいに、声がした。
黄金の光を纏った男が、今にも崩れ落ちそうな足取りでそこに立っていた。黒檀のような肌には灰白い霜がびっしりとこびりつき、彼の誇りであるはずの黄金の炎は、今や風前の灯火のように頼りなく明滅している。
彼は俺の視線が静から離れないのを知ってか、少しだけ悲しそうに、それでも優しく目を細めた。
「今日からな。この世界中で。人の感情がそのままおかしな能力になるってルールに変わっちまったんだ。みんなヒーローみたいな凄い力を得た。だがな、お前が今感じているその絶望もまた。能力となって世界を塗りつぶしちまったのさ…。」
自身の心に、レオの言葉が反響し、嫌な熱を帯びてくる
俺の、能力?
この凍てつく世界は、俺の感情の結果だというのか。
「お前が凍らせたかったわけじゃないことは分かっている。だが、シズカはお兄ちゃんを助けたくて、一人でこの地獄まで走ってきたんだ。彼女の想いは。最期まで…いや今も真っ直ぐだ。」
レオは死にゆく者のような顔で、それでも少年のような無邪気な笑みを浮かべた。
「この能力、お前自身のものだろ…?なら名前を付けよう。ここに来た時から考えてたんだ。……『凍結静寂』。ドイツ語で『シュティル』は静寂や停止。『シュネー』は雪のことさ。音が全部消えちまって。降る雪さえもその場で止まってしまう。お前の抱える。静かで。寂しい極寒の、世界……おしゃれで。ちょっと切ない名前だと思わないかい…?」
静の想い。俺自身の能力。
点と線が繋がり、俺の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
――世界中が、俺のせいで。
静だけじゃない。あの街ですれ違った人々、今日まで働いてきた同僚たち、ニュースで見た遠い国の誰か。その全てが、俺の抱えるこの鬱屈に巻き込まれ、今この瞬間も凍りついている。
その事実に気づいたとき、戦慄が走った。
……なんて恐ろしい能力だ。そして、なんて自分は最低な人間なんだ。
世界が氷に閉ざされているというのに、俺の脳内は、静が凍っているという事実だけで埋め尽くされている。他の数え切れないほどの命が失われたことよりも、自分の手が汚れたことや、静との時間が消えたことの方を嘆いている。
自分の身勝手な絶望が世界を壊したのに、その絶望の底でさえ、自分の大切なものしか見えていない。
救いようがない。俺という人間は、最初から最後まで、自分という檻から出られなかったんだ。
レオの言葉は、まるで遠い異国の言語のように響く。
「……ハルト。ヒーローはな。ピンチの時にそんな顔はしないぞ…!」
レオが最後の力を振り絞り、笑顔で黄金色のオーラを揺らめかせた。
「諦めないヒーロー像は、俺の人生のバイブルなんだ。……だから、最後まで、笑っていようぜ」
レオの体が、急速に色を失っていく。
黄金色の装甲が、あたたかな雰囲気が消えていく。俺の放つ停滞の領域は、レオの持つ「熱」を、完成された静寂を汚すノイズとして自動的に回収していく。
彼は何かを叫ぼうとしていたが、その表情は次の瞬間、穏やかな笑みを浮かべたまま、永遠の静止の中に固定された。
最後の一人が、消えた。
レオというノイズが失われた瞬間、俺を繋ぎ止めていた理性が、完全に霧散した。
抑え込んでいた鬱、自責、絶望。それらすべてが、一つの巨大な奔流となって、俺の内側から世界を塗りつぶしていく。――謝らなければ。
脳のどこかでそんな警報が鳴った。凍りついた街の先々で、俺のせいで人生を止められた人たちがいる。同僚も、友人も、見知らぬ誰かも。
「ごめん」と、言葉にしようとした。
でも、その言葉は喉のところで霧のように消えてしまった。
謝ったところで、どうなる? 謝ったところで、彼らは明日を迎えられるのか?
いや、違う。今の俺には、彼らの顔すら思い出せないんだ。俺の頭の中にあるのは、静の凍った指先と、自分の醜い自責だけ。
なんてひどい人間だ。俺は、世界を壊しておきながら、最後まで自分の痛みしか見えていない。
(だからもう、いいや)
考えるのは、終わりだ。言葉も、罪も、明日も。全部、この白銀の中に置いていこう。
ああ、やっと。
やっと、何も考えなくて済む。
俺の視界が、一気に真っ白に染まる。
静の凍った指先も。
この閉ざされた空間も。
そして、遠い街の向こう側の、誰かの生活さえも。
すべての分子が、その場で凍結する。
世界が、完全に、永遠の澱みの中へと沈んでいった。
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――観測。
それは、宇宙という広大なキャンバスにおいて、一つの瞬きのような出来事だった。
ある一つの惑星が、生命の鼓動を完全に停止させた。
大気は対流を忘れ、雲は空中でその姿を変えることを放棄し、星の巡りさえもが、刹那の均衡の中で時の流れを失い始めた。
そこには、かつて「人間」と呼ばれた者たちが抱いた、愛や悲しみ、あるいは絶望という名の熱源はもう存在しない。
あるのは、完璧なまでに冷たく、完璧なまでに美しい、一つの氷の結晶体だけだ。
神々の箱庭からも切り離され、誰にも語られることのない静寂の中で、その星はただ、宇宙の暗闇に漂い続ける。
二度と、春が訪れることはない。
二度と、誰かが名前を呼ぶこともない。
全てはどこまでも、緩やかに。それが、一人の青年が最後に選んだ、究極の救済の形であった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作『白銀の墓標』は、今回で完結となります。




