第3話 沈黙の証明
本作品には、暴力的な表現や、精神的な苦痛を伴う描写が含まれます。
本作はR-15指定相当の描写を含んでおりますので、お読みいただく際はご自身の判断にてお楽しみください。
日本橋。日本の心臓部とも呼べるこの界隈は、今や地図からその存在を抹消されたかのような、白銀の空白地帯へと変貌していた。街を覆うのは、冬の訪れなどという生易しいものではない。それは、この世のあらゆる営みを根底から否定するような、無機質な「絶対零度のカーテン」だった。
自宅へ一度帰るも電波も全てつながらない陸の孤島。大きな建物であればまだインフラも生きているかもしれないと思い自身の働く会社のビルへと戻った。
街全体を飲み込む異常なまでの冷気と先ほど見た人が凍る現象にとてつもない悪寒が走ったため、誰かがいる温もりが欲しかったのかもしれない。
彼はビルの二十階まで、エレベーターを使わずに歩いて上がった。階段の踊り場にも、廊下にも、そこかしこに誰かが立ち尽くしている。
このビルで働いていたのか、あるいはハルトと同じように街の冷たさを避けて逃げ込んできたのかは分からない。そこにいた人々は皆、時間が凍結したかのような姿勢で立ち止まっている。給湯室でカップを握ったままの女性、机の下に隠れるのは同期の社員だ。誰も動かない。誰も、彼に声をかけない。
その完璧なまでの静寂が、皮肉にも今のハルトには、耐え難い安らぎをもたらしていた。
(……これで、いいんだ。もう、何も考えなくていい)
ハルトは、共有ラウンジのフロアで、自分の席である窓際のデスクに力なく腰を下ろした。
不思議なことに、ビル内を支配する極寒の空気が、ハルトには少しも苦にならなかった。むしろ、自分の周りにだけ、心地よい「凪」が広がっているような感覚がある。
ふと、窓際にある観葉植物が目に留まった。葉の先までが、真っ白な氷のヴェールに包まれている。まるで、最初から氷で作られた工芸品のようだ。ハルトは、自分の指先でその葉を軽く撫でた。
カチ、と小気味よい音がして、氷の結晶がキラキラと光を放ちながら砕け散った。
「……あれ?」
ハルトは小さく首を傾げた。
自分の指先に触れた場所から、氷が急激に成長していく。周囲の机も、置いてあった書類の束も、みるみるうちに白く染まり、動かなくなった。
なぜ、自分には寒くないのだろう。なぜ、自分の指が触れる場所だけが、こうして静かに眠りについてしまうのだろう。
ハルトは、近くのデスクで凍りついたままの同僚の肩に、そっと手を当てた。同僚の顔は苦しそうに歪んだままだ。ハルトは、その冷たくなった頬を、まるで寝ている子供をあやすように優しく拭った。男を壊したいわけじゃない。ただ、あまりにも冷え切った彼を、少しでもいたわってやりたかったのだ。
恐怖よりも先に、深い困惑と、それ以上に抗いがたい「安堵」が胸を満たす。
自分の心臓が刻む鼓動と同じリズムで、世界が鎮まっていくような錯覚。
かつての黒髪は細く弱々しくなり、栄養不足でパサついている。鏡の中に映る自分を見ても、もはや「悲しい」とか「惨めだ」といった感情すら湧いてこない。ただ、摩耗しきった人間という記号が、透明なガラス細工へと作り変えられていくのを、他人事のように眺めているだけだった。
(この場所は、僕が僕でいられる場所だったのかな)
自分で探して、応募して、就職氷河期と呼ばれる世代の人間ではあったが何とか見つけた職場。
当然最初は叱られることもあったが社会のイロハを教えてもらい、社訓にある「人のため」という言葉の意味が情報ではなく芯として理解できたと感じられるようになった。
小さな仕事からだが任せてことが増え、大きな仕事になるにつれ大変な事も増えていった。
時間にかかわらずかかってくる電話、面倒なクレーム対応もした。今のプロジェクトに参加して上司が変わったことや少し面倒な部下を持った事も睡眠不足の原因かもしれない。
ハルトは、デスクの上にあったペンを手に取った。
その瞬間、指先から溢れ出す冷気が、ペンを白く硬質な氷の棒へと変えていく。以前までなら、この現象に悲鳴を上げていたかもしれない。しかし、今のハルトには、それがまるで自分の意思に世界が応えてくれているように感じられた。
「……やっと、静かになったな。ずっと、ずっと……これが欲しかったんだ」
独りごちた声は枯れ、震えている。
上司の容赦のない怒号も、クライアントからの理不尽な要求も、実家にいる妹からの無言の優しさが突き刺さる自責の念も、すべてがこの凍てついた空気の中に埋もれていく。自分を縛り付けていた日常という名の鎖が、冷たさによって脆く砕け散っていくような心地よさ。
自分にとって、この絶望的な凍結はこれまで生きた中で唯一、何もしなくていい「救い」のように感じられていた。
睡眠障害や適応障害を患い、脳の回路が焼き切れる寸前まで張り詰めていた彼にとって、この凍結世界は、自分を責める外部からの刺激をすべて遮断してくれる聖域だった。
(もう、進捗を報告しなくていい。もう、誰の顔色も伺わなくていい)
以前までなら、この状況を「異常」だと判断したはずだ。しかし、思考は霧の中に霞むようにぼんやりとして、ただ「目の前のものが眠るように止まっていく」という光景に、得も言われぬ幸福感を覚える。
ハルトは、凍りついたフロアをゆっくりと歩いた。彼が通るたびに、床は白く霜が降り、世界はより静寂を増していく。窓の外では、東京の摩天楼が灰色の空に溶け込んでいる。雪はもう降っていない。ただ、すべてが凍りついたまま、時を止めているだけだ。
この場所が、自分の巨大な氷の棺桶であれ。
そう願うほどに、彼の周囲の冷気は密度を増し、より深い静寂を求めて、ビルの外側へとじわじわと侵食を始めていった。今の彼には、静岡で妹が必死にアクセルを踏み込んでいることも、世界がどうなろうとしているかも関係ない。
この静かさが、永遠に続けばいい。
それだけを願い、ハルトはデスクに戻り窓の外を見た。
遠く、灰色の空に溶け込んでいく東京の摩天楼。
かつてあれほど必死にしがみついていた場所が、今はただの巨大な氷の置物に見える。
あの時、誰かのためにと汗を流した自分も、やりがいを感じていた瞬間も、すべてはただの疲労が生んだ幻覚だったのか。だとしたら、あまりに滑稽で、あまりに静かだ。
最後にもう一度だけ見ようとしたはずの景色は、驚くほど何も語りかけてこない。
小さく息を吐き、そのまま窓から視線を外して、ゆっくりと目を閉じた。意識が、氷の結晶のように透明な脆さを帯びて、意識の彼方へと溶け出していく。
冷たい安らぎの中に満ちていたのは、かつての自分を優しく笑って否定する、透明な静寂だけだった。
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静岡から東名高速を車でひた走る静の視界は、季節を置き去りにした雪と暴風、そして凍結した風景。異常気象などという言葉では片付けられない、世界が物理法則を失い、何か別のものに書き換えられているような圧倒的な白銀の世界。
静は、ハンドルを握る指先が白くなるほど力を込めていた。スマートフォンは圏外表示のまま、ピクリとも動かない。
昨日の夜、最後に交わした会話が脳裏をよぎる。東京で一人暮らしをする兄・ハルトの声は、普段通りだった。けれど、いつもその奥に潜む隠しきれない疲労の色に、静は胸を締め付けられていた。
「お兄ちゃん、大丈夫? 無理しないでね」
そう呼びかけた時、電話の向こうの兄は優しく笑ったがその笑い声はどこか遠くで鳴っているようで、今すぐ駆けつけなければならないという予感が、彼女を家から飛び出させた。
今は市ヶ尾付近まで来ることができた。
近づくごとに時折見える反対車線の車は、まるで巨大な氷の彫像のように放置され、寂れた墓標となって連なっていた。中に人影のある車も多くあったがそれも少なくなってきた。
これ以上車で近づけない可能性がよぎった瞬間。突然、車のどこかから「パキリ」という乾いた音が響いた。
ルームミラー越しに見えた後方の車体が、蜘蛛の巣のような氷の紋様で急速に浸食されていく。パキパキ、と硬質な音がフロントガラスを伝い、車内にまで響いてくる。
「嘘、なにこれ……凍ってる!?」
冷気は金属を突き抜け、シートを伝って背骨にまで到達した。車体が氷漬けの標本のように固定されようとしている。このまま閉じ込められれば、兄のもとへたどり着くことはできない。恐怖が静を突き動かした。彼女はドアを力任せに開け、外の世界へ飛び出した。
吐き出す息は白く凍りつく。静は、兄がいるはずの都心の高層ビルを冷たい銀色の霧の向こうに見据えた。
あそこに行かなきゃ。お兄ちゃんが、一人でこんな場所にいるなんて。
自分は無力だ。免許を取ったばかりで、こんな得体の知れない現象に直面して。東京で必死に頑張っていた兄を、私は何も理解してあげられていなかった。肺が焼けるように感じるのは寒さなのかその悔しさ故なのか。自分の足で、自分の力で、お兄ちゃんの元へ行く。助けられる可能性があるのはおそらく自分だけと自分を奮い立たせる。
憤怒と、兄への慈しみが混ざり合い、静の拳が震える。
「どうして……どうして、お兄ちゃんに会いに行かなきゃいけないのに!」
やり場のない感情をぶつけるように、静は車のボンネットを殴りつけた。
ドォォォォォン!!
金属の咆哮。殴ったはずの拳に痛みはなくボンネットがひしゃげ、その衝撃は目に見える波紋となって周囲の「静寂」を粉砕した。地面の氷には亀裂が走り、空気の密度が変わり、氷の霧が彼女を中心に渦を巻いて弾け飛ぶ。
これが、私の力?
指先から溢れ出すのは、兄の気配とは真逆の、荒々しいまでの「熱」だった。自分の拳の中に、世界を動かすための小さな爆発が宿っているような不思議な感覚。
その時、氷の霧の向こうから、荒い足音が近づいてきた。避難していた車から人々を助け出そうとしていたのであろう、金色の光を纏った男が、驚愕の表情でこちらを凝視している。
「……なんて熱い魂だ!」
男の声が凍てつく空気を震わせ、その熱気が冷え切った視界を塗り替える。男は、氷に閉ざされたアスファルトを力強く踏み抜き、迷いのない足取りで静の前に降り立った。
(この人、誰……?)
男は静の前で立ち止まると、薄く笑みを浮かべ、毅然と胸を張った。
「俺はレオ。レオナルド・ボーズマン。……この地獄で、そんなに燃えるような力を持ったヤツに出会えるなんてな」
レオと名乗った男は、まだ震えが止まらない静の瞳を真っ直ぐに見つめ、語りかける。
「ガール、名前は? ……少し、話をしないか」
……この人は、何なんだろう。
戸惑いながらも、しずかは男の纏う黄金の光から目を逸らせなかった。自分の拳に宿る、この暴力的で熱い衝動。そして、目の前で冬を切り裂く男の熱気。
自分の中の「何か」が、今、音を立てて変わり始めている。兄の元へ辿り着くため、凍える指先を握りしめて言葉を探した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作に登場するハルトという人物について、少しだけ補足させていただきます。
物語の中で彼は自身の状態を「適応障害」と認識していますが、彼がその診断を受けたのは実に三年前のことです。それから時を経て、現在の彼はより深い「うつ病」という海の中を漂っています。
彼が感じている「何もしなくていい」という安らぎや、現実を突き放す冷徹な思考は、回復の道を探すための闘いではなく、終わりのない暗闇でようやく手にした、歪な救済の形でした。
彼がかつて必死に積み上げようとしたものが、何であったのか。
そして、今この氷の世界で彼が何を見ているのか。
彼の壊れゆく意識の先にあるものを、引き続き見守っていただければ幸いです。




