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静かな世界  作者: 水素
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第二話 世界の輪郭

それは、選ばれた英雄の誕生などでは決してなかった。

あるいは、突如として地球を襲った、ただの天変地異の類でもない。

始まりは、あまりにも唐突で、理不尽で、そして普遍的な日常の決壊だった。




大西洋を望むアメリカ東海岸の高層オフィスビル。

連日の徹夜と上司からの容赦のない怒号に、三十代のシステムエンジニアの男は、頭の芯が沸騰するような激しい怒りを覚えた。男の脳内で、何かがパチンと弾ける。

「――うるさい、消えろ!」

男が叫び、デスクを叩いた瞬間、彼の全身から青白いプラズマが爆発的に吹き出した。

閃光。そして、鼓膜を破るほどの放電音。

凄まじい電圧の奔流はビルの送電線を一瞬で伝い、近隣の変電所を瞬時にショートさせた。数秒前まで光り輝いていた摩天楼は、たった一人の男の「怒り」によって、一瞬にして広大な闇の底へと突き落とされる。




海から遠く離れた、大陸の内陸部に位置する盆地都市。

長年勤めた工場を解雇され、家族にも見捨てられた初老の男が、泥酔した状態でアスファルトに這いつくばっていた。

「全部、めちゃくちゃになっちまえばいいんだ」

心の中に淀んだ絶望が、彼の限界(臨界点)を突破する。

その瞬間、彼が触れていた地面の裂け目から、信じられないほどの量の「冷たい激流」が湧き出し始めた。水などどこにもないはずの乾いた街に、怒涛の濁流が渦巻く。水は見る間に水量を増し、巨大な津波となって家々を呑み込み、わずか数時間のうちに、一つの地方都市を完全に不透明な湖の底へと沈めてしまった。


世界中で、同じような「異変」が同時多発的に火を噴いた。


焦って家を飛び出した女子学生の足が、突如として音速を超え、衝撃波で周囲の民家のガラスをすべて叩き割った。

強盗に襲われ、恐怖で身を硬くした通行人の皮膚が、本物の鋼鉄へと変貌して銃弾を弾き返した。


現代社会が長い時間をかけて築き上げてきた法律、警察、軍隊、あるいは物理法則。

それらすべてが、個人の「性格」や「その瞬間の心境」という、ひどく曖昧で、脆くて、けれど強力な感情の爆発によって、紙クズのように破綻していく。


地球そのもののルールが、完全に書き換わってしまった瞬間だった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



静岡県。夜、静まり返った一室。


「……繋がらない」


薄暗い部屋のベッドの上で、(しずか)は膝を抱えたまま、スマホの画面を見つめて呟いた。部屋の明かりをつける気力も起きなかった。


画面に表示されているのは、兄・ハルトとのメッセージのやり取り画面。

何通送っても、画面の端に「既読」の二文字がつくことはない。

通話ボタンを何度押しても、呼び出し音すら鳴らず、ただ不気味な無音の後に「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――」という機械的な音声アナウンスが冷たく流れるだけだった。


東京で一人暮らしをしながら、必死に働いていたお兄ちゃん。

真面目で、優しくて、でも昔から他人に弱音を吐くのが致命的に下手だったお兄ちゃん。

静かの前ではいつだって「立派な兄」でいようと笑ってくれていた。けれど、最後に電話で話したとき、お兄ちゃんの声は少しだけ掠れていて、まるで息をするだけでも精一杯なのを必死に隠しているようだった。


「お兄ちゃん、今どこにいるの……?」


静の胸の奥を、形のない嫌な予感がじわじわと侵食していく。


ふと、外の通りから、異様な騒がしさが聞こえてきた。

ドン、と何かが激しく衝突する鈍い音。続いて、ガシャァンとガードレールがひしゃげる金属音が響く。さらに、何台もの車のブレーキの金切り音と、主を失って「プーーーッ」と鳴り響き続ける無機質なクラクションの音が重なっていく。

ただ事ではない騒がしさに、静はベッドから足を下ろし、窓辺へと歩み寄ってカーテンを開けた。


「え……?」


窓から見下ろした街は、異様な光景に包まれていた。

帰路につく普通のサラリーマンや近所の人たちが、路上で足を止め、言葉にならない困惑の叫び声を上げている。


よく見ると、口喧嘩をしているらしい高校生の指先から、バチバチと小さな火花が散っていた。本人が自分の手を見て腰を抜かしている。

駅の方へ慌てて走っていくサラリーマンの足元からは、不自然なほどの突風が吹き荒れ、周囲の看板をなぎ倒している。

スーパーの駐車場では、泣きじゃくる子供の足元を中心に、小さな水たまりが急速に広がっていた。


大爆発が起きているわけではない。

けれど、街ゆく普通の人間たちが、自分の意思とは無関係に、しかし確実に異常な『力』を発現させて困惑していた。


「なんなの、これ……みんな、どうしちゃったの……?」


静は背筋が凍りつくのを感じながら、一歩、窓から後ずさった。

世界が、自分の知っている世界ではなくなっていくような、圧倒的な不気味さ。

震える手でスマホを掴み直し、情報を取り込もうとSNSのタイムラインを開く。画面はすでに、世界中から投稿されたパニック動画と悲鳴のような言葉で埋め尽くされていた。


その狂乱のスクロールの中で、静の指が、ある公的機関が発信した「公式発表」の文字でピタリと止まった。


そこには、信じられないような『世界のルール』が、短く、冷徹に綴られていた。


『【速報】世界規模の超常現象が発生中。個人の性格や精神状態の傾きが、そのまま独自の物理現象(能力)として体外に具現化している模様。現在、世界中で同時多発的なパニックが起きています。国民の皆様は落ち着いて行動してください』


「精神状態の、傾きが……能力になる……?」


静はスマホの文字を、声に出してなぞった。

心臓が、ドクンと大きく波打つ。


性格や感情が、そのまま現実の力になる。

気が強くて怒りっぽい人は火を出し、焦りやすい人は速度を得て、悲しみに暮れる人は水を呼ぶ。

もし、それが本当なのだとしたら。

もし、人間の心がそのまま世界を書き換えるシステムに変わってしまったのだとしたら――。


静の視線が、スマホの画面をさらに下へと滑る。

そのニュースの末尾には、現在の「日本の状況」が、たった一文で付け加えられていた。


『なお、日本の首都・東京エリアにおいては、本日二十一時頃、千代田区の日比谷公園周辺を中心としたエリアが突如として原因不明の暴風雪により凍結。現在、通信を含むすべてのライフラインが沈黙し、現在、進入不可能なブラックアウト状態に陥っています。この凍結エリアは現在も周囲に向けて徐々に拡大し続けている模様で、政府は周辺住民に対し、日比谷公園を中心とした「半径十キロメートル圏内」からの速やかな避難を呼びかけています』

『――繰り返しお伝えします。現在、千代田区の日比谷周辺を中心に、新宿、渋谷、池袋、品川、秋葉原といった主要エリアを含む半径約十キロメートル圏内に、進入不可能なほどの激しい暴風雪が吹き荒れています。該当地域にお住まいの方は、直ちに圏外へ避難を――』


テレビの向こうでアナウンサーが悲痛な声を張り上げ、画面の端には「避難勧告」の赤い文字が点滅している。

「新宿も、渋谷も……秋葉原も……?」


静は、めまぐるしく流れるニュースの地名を呆然と見つめた。

誰もが知っている、あの大都会のきらびやかな街たちが、たった一瞬で、丸ごと白い嵐の中に消えてしまった。


「……お兄ちゃん?」


静の口から、掠れた声が漏れた。

自分を心配させないために、お兄ちゃんは何も言わなかった。

でも、あの優しくて真面目なお兄ちゃんが、もしも誰にも言えない絶望を心の奥底に、限界まで溜め込んでいたのだとしたら。


すべてを拒絶し、すべてを止めてしまいたいと願うような、深い絶望――。

あの東京の中心を埋め尽くす『冷たい暴風雪』は、あまりにもお兄ちゃんの「すり減り」に似すぎていた。



そのとき、再び窓の外からベキベキと何かが激しくひしゃげる音が聞こえ、静はハッとして視線を戻した。


街灯に照らされた道路の真ん中で、一台のセダンが奇怪な姿で停止している。

事故ではない。その車のフロントガラスは、内側から突き破るようにして急成長した「どす黒い植物の太い根」によってバキバキに破壊され、車体全体が生き物のようなツルに締め上げられて歪んでいく。

運転席から転がり出てきたドライバーが、自分の両手を見つめながら腰を抜かしたように叫んでいた。

東京の大災害だけじゃない。

ニュースにはまだ映っていない何かが、この普通の街でも、人間の身に直接起き始めている。



ドサリ、とベッドの上にスマホが落ちた。

静は自分の両手をそっと見つめた。

世界中の人たちに、それぞれの心に応じた力が発現しているという。

目の前の道路では、誰かの能力のせいで車から植物が噴出していた。

じゃあ、私は?

お兄ちゃんを心配して、こんなに心臓が張り裂けそうなほどバクバクと鳴っている私は、どうなのだろう。静は、そっと自分の胸に手を当て、息を吸い込んでみる。

しかし、指先から火花が散ることもなければ、足元から突風が吹き抜けることもない。

身体のどこをどう見回しても、彼女の身には、世界を騒がせている『超常能力』の兆候なんて、これっぽっちも現れていなかった。


(私は……何も変わらない。普通の、ただの静のままだ)


どこかホッとしたような、同時に、あまりの無力さに置いてけぼりを食らったような、奇妙な焦燥感が這い上がってくる。

世界がこんなにも一瞬で狂ってしまったのに、自分だけが取り残されている。

もしあの東京の氷がお兄ちゃんなのだとしたら、お兄ちゃんは今、あの誰の手も届かない極寒の嵐の真ん中で、一人きりで震えているはずなのに。


「お兄ちゃん……」


窓の外からは、変わらず主を失った車のクラクションが、夜の街を呪うかのように「プーーーッ」と低く鳴り続け、遠くの街の方からは人々の小さなどよめきが地鳴りのように響いている。

日常は、もう戻らない。

これから世界がどうなっていくのか、この小さな部屋にいる静には、何一つ予測がつかなかった。

けれど、ただ一つだけ、暗闇の中で確かな熱を持って灯った決意があった。


(確かめなきゃ)


この目で見るしかない。テレビのニュースが流す遠い世界の出来事としてではなく、あの大嵐の東京の中心へ行って、自分の目で、耳で、お兄ちゃんの安否を確かめる。

もし、本当にあの大災害がお兄ちゃんの心の叫びなのだとしたら、妹である自分が、その凍りついた心を溶かしに行かなければならない。


静は、ベッドの上に落ちていたスマホを強く握りしめた。

画面には、今なお範囲を拡大し続ける「半径十キロメートルの凍結エリア」の文字が、明滅している。


まだ、自分の力が何なのかすら理解していない。

もしかしたら能力が発現しない人もいて、自分がその一人なのかもしれない。そんな不安が胸をかすめる。

怖い。どうしたらいいのか、何も分からない。

それでも、暗い部屋の中で一人きりで震えていることなんて、どうしてもできなかった。

静は震える手で、部屋の明かりのスイッチをパチリと押し込んだ。


これが、すべての物語が動き出す、崩壊の夜の始まりだった。

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