第一話 息をするだけ
※本作には、現代社会における強いストレスや精神的負荷の描写が含まれます。あらかじめご留意ください。
何かを諦めることには、それなりのエネルギーが必要だ。
漠然としていてもいいから「何かを変えたい」と思う事や諦念の感情から「もういいや」と投げ出す瞬間には、まだ自分の意志という火種が残っている。だが、本当の限界というものは、諦めることも、自身が疲れている事すら自覚できないほど、頭の芯がじっとりと濁っていく感覚のことを言うのだろう。
退勤中、今日は少し残業したため座席に座ることができた、そんな中俺はスマートフォンの画面を眺めていた。
画面の隅に表示された日付は、四月半ばを指している。本来なら桜の季節が終わり、新緑の匂いが街を包み始めている頃だ。それなのに、車内にいる周囲の人間は妙に重ね着をして、身をすくめている人ばかりだ。
――それなのに、俺だけが、この寒さをどこか他人事のように感じている。皮膚の感覚が麻痺しているのか、それとも頭が働いていないだけなのか。
心だけでなく身体も壊れては流石にダメだと、頭では理解しているつもりなのに。
心療内科で「適応障害」と告げられたのは、確か一年以上も前のことだ。
あの時、医師は優しく休職を勧めてくれたし、いくつかの薬も処方された。だけど、俺は笑ってその診断書を鞄の奥に隠し、通院もやめてしまった。
独身の一人暮らしだが育った家庭は至って普通。妹とも仲が良い。だからこそ、心配をかけたくない。勿論心配はされるのだがいつも決まって「俺は大丈夫だからね」と返す。仕送りなどはしなくても問題ないと両親から断られたが「兄として、ちゃんとした大人として、普通に働いている姿を見せなきゃいけない」という兄としての自意識が俺を縛っている。
デカい夢や野心があるわけではない。ただ、目の前の仕事を断れず、真面目に、必死に期待に応えようとしていたら、いつの間にかそうなっていた。自分が周りに迷惑をかけない事は当たり前だと思っているから、遅刻も欠勤もしていない。嫌いな人間はほとんどいないが苦手に感じる相手はいる。それが一時的に職場の周りに多いだけだと思うようにしている。
だがここ一年、まともな睡眠をとった記憶がない。少量ではあるものの毎日のように寝る前に酒を飲み、ようやく意識を失うように眠れても、一、二時間ほどで目が覚める。そして連絡が気になり再度寝ることはできずもし見てしまうと返信を考えているうちに一時間位が平気で経過してしまい、目が冴えてしまう。
生活リズムが崩れると途端にすべてがうまくいかなくなる。だから休日はほとんど寝て過ごしている。
度重なるストレスと栄養不足のせいか、鏡を見るたびに髪のボリュームが減り、全体がパサついているのが分かった。眉は常に辛そうに中央に歪み、目の下には消えない隈が刻まれている。顔色は病的に白く、鏡を見るたび、自省の念に駆られる為、酒を断ち、綺麗な部屋・生活環境を保って、生活リズムを直そうなどと考えはするも実現には至らない。
ガタガタと震える車両の振動に耐えながら、俺は冷え切った指先でスマートフォンを操作し、家族のグループLINEを開いた。生存報告。これをしないと、過保護な妹がすぐに騒ぎ出すからだ。
『ハルト:今日の仕事も無事終わったよ。東京は異常気象なのか冷え込んでいたけどそっちは大丈夫?』
送信ボタンを押して数秒もしないうちに、既読がついた。
『しずか:こっちは全然平気!っていうかお兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてる!?前にそっちに遊びに行った時も思ったけど、顔色悪い時はすぐに分かるんだから無理しちゃダメだよ!』
妹の静からの返信だった。画面越しでも伝わってくるような、エネルギーに満ち溢れた文字。
二十歳になる静は、昔から熱血で、とにかく行動力が高くて真っ直ぐな頑張り屋さんだった。スポーツを本格的にやっていて、根性と生命力の塊みたいな奴だ。「しずか」という静寂を連想させる名前に反して、あいつの周りだけはいつも太陽のような熱が満ちていた。
『ハルト:大丈夫だよ。ちゃんと食べてる。しずかも大学頑張ってね』
『しずか:うん!お兄ちゃんが頑張ってるんだから、私も負けないよ!またすぐにそっちに遊びに行くからね!』
その言葉に、俺は笑みを浮かべて「待ってる」とだけ返し、スマートフォンをポケットにしまい込んだ。
遊びに来るといっても仕事でいない俺の家でご飯を作ってくれるのだ。何度も止めてはいるが両親から合鍵を預かっているため唐突に来訪してくる。両親も俺のことを心配しているから止める様子はない。気づけば定例となってしまったがこのくらいはいいかと思うようにしている。
静はいつだって、テレビに出てくるヒーローみたいに真っ直ぐだった。そんな彼女にとって、俺はいつまでも「優しくて頼れるお兄ちゃん」でいなければならなかった。
電車が駅に滑り込み、ドアが開く。
ホームに降り立つと、地上の階段から吹き下ろしてくる風の冷たさには、流石に思わず身震いした。
「……ん?」
階段を上り、駅の外へ出た瞬間、視界に白いものが飛び込んできた。
ひらひらと、空から粉雪が舞い散っている。
四月中旬の雪。珍しいこともあるものだ、と最初は思った。季節外れのなごり雪か、あるいは異常気象の類だろう、と。
だが、それはあまりにも異常なスピードで、世界を侵食し始めた。
数歩進むごとに、視界が急速に白く染まっていく。
おかしい。ただの雪じゃない。
アスファルトが、踏みしめる先からパキパキと音を立てて白く凍りついていく。ビル群の隙間から吹き付ける風は、一瞬で皮膚の感覚を奪い去るほどの極寒へと変わり、猛烈な吹雪となって視界を遮った。
寒さに息を呑もうとしたが、吸い込んだ空気が冷えすぎていたのか肺が痛い。吐き出した息は、他の誰のものよりも、圧倒的に白く、濃く、まるで煙のように空間に滞留した。
駅から家まで、徒歩二十分のルーティン。 何千回と繰り返したはずのこの道が、今日はやけに遠く感じる。
街の音は、さっきから壊れたスピーカーみたいに解像度を失っていた。 行き交う車の音も、どこかの店のBGMも、フィルターをかけられたように輪郭がぼやけて、やがて消える。
「雪が積もるのはいやだなあ...。」
街は無音だった。 自分の一言がやけに耳に触るように感じた。
降り積もる雪のせいで音が吸い込まれているのだと、俺は勝手に納得していた。
信号待ちで並んでいる人々も、みんな自分と同じように疲れ果て、俯いて、動く気力を失っているのだと思っていた。
「あぁ、みんな俺と同じなんだな。静かでいい……」
頭の中で、絶え間なく鳴り響く雑音――締め切り、売上、叱責、義務、責任。それらの言葉が頭の中で渦巻くたびに、脳が悲鳴を上げる。もう何も考えたくない。何も感じたくない。ただ、静かな場所で、誰にも邪魔されずに眠りたい。
周囲の全てを、動くものを、語るものを、すべてその場で凍りつかせて、音のない世界にしてしまいたい。
自分の心の中の、泥のように濁った鬱屈が極限に達した、その瞬間だった。
耳の奥が痛くなるほどの、高音の軋み。それが街のあちこちから響き渡った。
すべての動くものが息の根を止められるような、冷たい静寂の音。
次の瞬間、視界のすべてを、災害と呼ぶべき暴風雪が埋め尽くした。
だが、猛烈に吹き荒れているはずのその雪は、今の自分には恐ろしいほど無音だった。
ほんの数分の間に、東京の街並みはすべての色彩を失い、完全な白銀の世界へと塗りつぶされていく。街頭の電光掲示板がバチバチと火花を散らして消灯し、周囲の喧騒が、まるで音量を急激に絞られたかのように消えていく。
「なにが……起きて……っ」
あまりの寒さと、目の前で起きている現実離れした光景に、自分は家へと急ぐ足を止め、近くの小さな公園へと逃げ込むように飛び込んだ。
視界が悪い。寒さで涙が凍りつきそうだ。誰か、誰か人はいないのか。助けを求めようと、目を凝らして公園の奥を見つめる。
ベンチの近くに、人影があった。
サラリーマンらしき男と、買い出しの帰りだったのか、買い物袋を下げた主婦らしき後ろ姿。
「あの、すいません……!」
声をかけながら、自分は歩み寄る。
だが、二人はこちらを振り返らない。それどころか、微動だにしない。吹雪が激しく吹き付けているというのに、彼らの衣服の裾さえ、一ミリも揺れていなかった。
おかしい。
心臓がドクンと大きく跳ね上がる。
恐る恐る、サラリーマンの男の正面へと回り込み、その顔を覗き込んだ。
「……え...?」
男は、目を見開いたまま、何かを叫ぼうとして口を半開きにした形のまま、静止していた。
その肌は病的なまでに白く透き通り、全身がぶ厚い氷の膜で完全に覆われている。まるで、精巧に作られた人間大の氷細工のようだった。
主婦の方も同じだ。買い物袋から覗く大根も、それを握る指先も、すべてがカチコチのガラスのように凍りつき、完全に「停止」していた。
吹き付ける雪の音だけが響く静寂の公園で、自分の血の気が一気に引いていく。
自分の身体が、ガタガタと震え出した。
「え……?」
それが、恐怖によるものなのか、それとも、自分の内側から溢れ出ようとしている「冷気」のせいなのか、今の俺には知る由もなかった。
初投稿です。
少しでもハルトの心の温度を感じていただけたら幸いです。
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