メンフィス、テネシー…4
US-78を北西に飛ばし、ダウンタウンを右に流して『ピラミッド』を回り込み、ウルフ・リヴァー・ハーバーを渡ってマド・アイランドに降りた。
車を降りてドアを閉め、シリンダーに鍵を差そうとして、ふと後部座席が気にかかり、なんだろうと思って窓の反射の向こうに目を凝らした。翳る車内に帯状の光を受けてひっそりと転がっていたのは、ナッシュヴィルの楽器店でエルが買った、ナチュラル・カラーのアクースティック・ギターだった。なんだアイツ、忘れていきやがったのか。昨日あれだけ楽しそうに選んでいやがったのによ。そんなことを思いながら鍵を回し、手を止めて少し考え、再びロックを外し、後部ドアを開けてシートに膝をつき、軽いボディを引き寄せた。
右手にネックを握り、左手をポケットに突っ込み、唇を少し歪めて尖らせ、ぼんやりと地面を眺めながら、俯きがちにビリーは歩いた。上流のタイド・アーチ・ブリッジをトレイラーが通り過ぎていった。木々には数千匹の蝉たちが鳴いていた。赤いモノレイルが静かにすれ違い、橋脚を抜けて駅舎へと消えていった。クレイプ・マートルの花が揺れていた。遠くで水遊びの子どもの声がした。ブーツにぶつかった小石がちきりと音を立て、灼けた舗道を転がった。午後の短い影が落ちていた。
葉を透かす光をくぐり、噴水の冷涼な空気を感じて過ぎ、しばらく歩いてビリーはふと顔を上げ、風と眩しさに目を細めた。川を渡る風と、水面に散らばる太陽のきらめきだった。ミシシッピ川だ。
芝生の斜面に腰を下ろし、ギターを脇に横たえた。川に向かって脚を伸ばし、右腕を枕にして、ゆっくりと上体を倒した。腰骨と背中にひんやり湿った地面と自分の身体の重みを感じた。呼吸をすれば、川と草と土の匂いが鼻腔の奥に入り込んできた。左手の下に、呼吸に上下する自分の腹を感じた。風が吹き、前腕の毛を抜けて彼方に過ぎた。額と頬と鼻筋に、ひりひり灼ける陽射しの熱を感じた。瞼は開けられなかった。太陽が眩しすぎたからだ。
しばらくぼんやりと瞼の裏を眺めたあと、立てていた左膝が熱くなってきたので、ビリーは腕をほどき、腹筋に力を入れて上体を起こし、脚を組み替えた。熱くなった頬に川風が涼しかった。汗ばんだ胸と背中を掻き、爪についた垢をなんとなく見てから視線を遠くにやり、視線を下ろして草を這う蟻をぼんやりと眺めた。それから思い出したようにギターを掴み上げ、太腿の上に構え、親指の腹でスティールの弦に触れて、一弦ずつゆっくりと弾き下ろしていった。E、A、D、G、B、E。弦が震え、胴の鳴りが肋骨に響いた。チューニングは少し狂っていた。
ペグを回しながら、ああ、カポがねぇな、と思い、気がついてふっと笑った。そうだ、カポなんてもんが、この世にはありやがったな。
いくつかの和音を鳴らし、もう一度チューニングを整えた。三弦四フレット、二弦開放。二弦五フレット、一弦開放。基準音と響きは脳が覚えていた。コードの形は指が覚えていた。音が整い、右手の親指と人差し指をピックの形にして、思い出すままにギターを鳴らした。
硬くぎこちなくなっていた右手首もやがてほぐれ、四小節ほどオープン・ポジションのAコードを鳴らしているときに、ふと頭をよぎる感覚があった。なんだろうな、と不思議に思いながら感覚のままにメロディーを口ずさみ、和声を動かした。何度か失敗しているうちに、歌詞も和声も確かなものになってきた。なんだっけか、この曲、確かに知っちゃいるんだが、と思いながらしばらく歌い、思い出した。『マイ・ホームタウン』、ブルース・スプリングスティーンだ。
なんで俺はこんな曲を知っているんだろうな、と思いながら弦を弾き、粗くざらついて尖り掠れた、それでも柔らかな響きと澄んだ芯のある声で、ゆっくりと歌った。いくつかのイメージが頭をよぎり、時と場所の幽かな匂いを脳の奥にくゆらせ、それから消えていった。夕暮れのエリー湖、錆びた給水塔、石造りの灯台、バッファローの工場群。そんな風景が心のどこかに残っていたことが、ビリーには不思議だった。窓からの斜光、幼児の玩具、オイルの匂い、ひんやりした外気、汚れた作業着、ゴツゴツした大きな手。
思い出した。父親がよく歌っていた曲だ。
ぼうっと汽笛が鳴り、一艘のスティームボートが航跡を描いてゆっくりと上流へ向かっていった。ニューオーリンズから昇ってきた船だった。二基のファナルが空に突き出していた。幾旒もの星条旗が甲板にはためいていた。船尾には赤いパドルウィールが回り、泥色の水を掻いて川波を岸へと広げていた。船からは遠い音楽が聞こえていた。ダブルベース、ウォッシュボード、バンジョー、ピアノ、チューバ、トロンボーン、クラリネット、コルネット。ジャズだ。
雲が太陽を隠し、ふっと涼しくなった。ビリーはいつしかエルのことを考え始めていた。今ごろはどこかのミュージアムで、似合わない眼鏡をかけて真剣な表情で几帳面なノートをつけているのだろう。それともこぢんまりとした店のこぢんまりとしたテーブルで、こぢんまりとしたカップケイクでも口に運んでいるのだろうか。あるいはまた道に迷い、うろうろきょろきょろ通りを彷徨っているのかもしれない。どこでなにをしているのであれ、意外なほど鮮明にエルの姿をイメージできるようになっていることに、ビリーは気がついた。
それから、いくつかの光景が思い出された。口元に伸びたチーズを掬う手。とんとんと小橋を渡る軽い足音。バブル・ブロウワーの先を見つめるひたむきな眼差しと、顎を突き出してそうっと息を吹く唇。川沿いのレイリングにぽつねんともたれてぷらぷらさせている脚。シェヴィの右隣にごそごそと乗り込んできてシートベルトをはめ込むときの眉骨と、丸みのある鼻の頭。夕暮れの草原の匂いの中で、額に指をかざして瞼を細める横顔の輪郭。一日の終わりにランプを点して、日記を書き込む前屈みの背中と真っ直ぐな肩。よくわからない流れで共に旅をすることになった、よくわからない少女だった。よくわからなかったが、嫌いではなかった。決して嫌いではなかった。エルが悲しそうな顔をするのは、厭だなと思った。
そして、ここまでの道程を思った。コロンバス・アヴェニュー、リンカン・タナル、リバティ・ステイト・パーク。フィラデルフィア、アナポリス、DC、ボルティモア。ピッツバーグ、レクシントン、ルイヴィル、バーズタウン、昨夜のナッシュヴィル。五〇ガロンのガスを燃やし、一三〇〇マイルの道程を走り、そして今、メンフィスにいた。不思議なもんだぜ、とビリーは思った。まったく、不思議なもんだ。
雲が過ぎ、陽射しが戻った。鳥が一声鳴いて、川の向こうへと飛び去った。ビリーはギターを置き、もう一度芝生の上に寝っ転がった。閉じた瞼の上には、高くて青い夏の空が広がっていた。




