第8話 玉ねぎと胸腔穿刺③
飛び交う拳と魔術の合間に思案を巡らせる。思考能力まで上がるのが身体強化魔術の利点だな。
さて、このまま殴り続けて意識なり戦意を喪失させるか? それとも、優勢のうちに、ロイを抱えて逃げ切ろうか?
否。
中途半端な敗北は、ディックの敵愾心を煽るのみ。真正面から再戦を申し込まれればまだ良いが、闇に紛れて背後から電撃を打ち込まれたらどうしようもない。
それに――
ちらり、ディックの巨体の向こうに目をやる。
元々はばあさんが横たわっていたはずのそこには、もう焦げ跡しか残っていない。そこから炭を引き摺ったような太い線が、少し離れた建物の陰まで続いていた。
——ロイだな。
俺達の殴り合いに、ばあさんの遺体を巻き込ませないための心遣いだろう。
これが、十歳そこそこの子供にやらせることか。
そういえば、こうして襲われている俺だって、まだ十歳のガキだ。それも、今回に関しては、何も罪など犯していない。
——本当に、クソッタレな世界だ。
それでも俺はもう、ここで生きると決めたのだ。
怒りで冷え切った頭の中から、前世の価値観が、甘さがするりと抜け落ちる。
俺はもう、他人を救う者ではない。
反撃を試みたディックが左手を大きく振りかぶる。それをひらりと躱す。
一瞬の、強化中の俺にとっては数秒に思える隙が生まれる。急所を探す。
警戒されている以上、胸や腹のど真ん中に致命傷をのは難しそうだ。かといって、一番狙いたい頸動脈は筋肉だるまの僧帽筋と胸鎖乳突筋に埋もれている。
ならば、代わりに。
俺は一つ深く息を吐き、持ち歩いていた鈍らのナイフを、ディックの右あばら骨の間に突き立てた。
「ぐ、おおおおおおおお!?」
街中だからだろうか、防具をつけていなかったから。肋骨の下縁に沿ってさっくりと。肺に刃先が届くように深々と。
ディックは悲鳴を上げてその場に蹲った。
「て、めぇ、カハッ、何、し、やがった、ゴボッ」
正に息も絶え絶えで、時折水っぽい咳をしながら、ディックは俺を見上げるように睨みつける。
「わかりやすい急所は庇っていたようだったから、肋間動脈を狙った。あばら骨の下を走る動脈だ。細いが傷つければまずまず大量に出血する。ついでに肺にも穴を空けた」
「てめ、そんな技、どうやって……ガハッ」
「こう見えて他人の胸を刺した経験なら何十回もあるからな。あくまで、胸腔穿刺という医療行為としてだが。肋骨上縁に沿って、肺に到達しないように針を慎重に進める。それら注意点をすべて無視してやれば、もれなく合併症——血胸と気胸の出来上がりだ」
折角種明かしをしてやったのに、ディックからの返事はなかった。ヒューヒューと音はしているから、まだ生きてはいるが、話す余裕はなくなったのだろう。当然自力で動くのも難しいはずだ。
今すぐに誰かに肩でも借りて教会に駆け込めば助かるかもしれない。
それでも、魔術師に、この悪党に、善良な市民は決して近づかない。こいつは、今までの人生の集大成として、ここで孤独に死んでいく。
俺はディックに背を向けた。 さすがに死に様を観察する趣味はない。
ディックの呼吸音は尻すぼみに小さくなり、やがて聞こえなくなった。
あたりが静寂に包まれた頃、ようやく衛兵たちが駆けつけてきた。
悪党ディックが暴れている、と聞いたからだろう、10人単位の大所帯だ。
「ディックは……いや、これは一体どういうことだ」
隊長らしき老練の兵がこと切れたディックに近づき、驚きの声を漏らす。
「これは、君が? いや、まさかな」
衛兵たちが驚嘆のまま俺を取り囲む。
それもそのはずだ。仮にこの衛兵10人がかりでディックと戦ったとしても、無事で帰れる者がいるかどうか。魔術師とはそういう存在なのだ。
「俺がやった。正当防衛だ。
ただ歩いているところを襲われて、殺されかけたから、返り討ちにした」
「武器も持たない子供が……? 信じられん」
「本当だよ。アルフは魔術師なんだ。魔術師同士の諍いで、アルフの方が勝っただけさ」
いつの間にやら、物陰からロイが出てきて口添えしてくれた。その手には、焦げ付いたばあさんの服の切れ端が握られていた。
「今日は俺達、何も盗んでないよ。メアリばあさんが親切に食糧くれたし……。でも、そのばあさんを、アイツがいいがかりつけて、雷で、黒焦げにしちゃって……っあっちにばあさんを寝かせてあるから、衛兵さんたち、どうにかしてやってよ……」
「っおい、見てこい!」
「はっ! ……これは、なんと非道な……」
ばあさんの遺体を確認した兵士が、その変わり果てた姿に言葉を詰まらせる。それほどまでに残酷なことをされた。させてしまった。
知らず噛みしめていた唇をなんとかこじ開けて、俺はできるだけ淡々と衛兵たちに言った。
「ロイが説明した通りだ。証言が他にも必要なら、そこらへんの大人にでも聞いてくれ」
孤児の言葉だけなら、まともに取り合ってはもらえなかったかもしれない。
でも純然たる事実として転がっている二人分の遺体が、俺を見る周囲の市民たちの目線に含まれた畏怖が、雄弁に事実を物語っていた。
「――わかった。これは魔術師同士の衝突で、善良な市民が一人巻き込まれ、間違いなく君は被害者だ」
「……ああ」
「アルフ君と言ったか。相当な腕前のようだが、まだあまり名を売っていないな?」
「なんとも幸運なことに、昨日魔術を使えるようになったんだ。ギルドへの登録もこれからだ」
「そうか。――君を捕らえる日が来ないことを祈っている」
「どうなるかね。……ロイ、行こうぜ」
「お、おお……」
日本の警察ではあり得ないであろう簡素な取り調べが終わり、俺たちはその場を後にした。
魔術師はこの世の理の外の存在。化け物が犯した罪には深入りしない。被害者まで同じ化け物なのならば、尚更。
皮肉にも今日、この国の暗黙のルールの恩恵を初めて受けた。




