第38話 狭心痛と片想い
おかえり、なんて、いつぶりに口にしただろう。ガキの頃、母親に……言ったことあったっけかな。こんなにこそばゆいもんだっけか。
多分俺は今情けない顔をしているから、くるりとアナベルに背中を向け、リビングに向けて歩き出す。
「まー、なんだ。積もる話もあるだろ、茶でも淹れて――」
「ん、アルフ、怪我してるな?」
「ぅえ?」
「歩き方がおかしい! 背中、庇ってるだろう。あと、ちょっと痩せてる」
「気のせいじゃね」
「……本当か?」
「~っいってえ!」
誤魔化そうとしたが、アナベルが背中をそっとつついたせいで痛みが誘発され、思わず情けない悲鳴を上げてしまった。
「ご、ごめん! でもほらやっぱり! ……あの時の傷だよね?」
「……」
そうだけど、そうだと言ったらこいつ気にするよなぁ。アナベルのせいじゃねえのに、難儀な奴だよ全く。かといって、否定しても余計に怒って泣く気がして、結局小さく頷くしかなかった。
「……気にすんな。飯食って身体強化してればそのうち治る」
「じゃあ大人しく寝ていてくれ。急いで消化に良いものを作るから」
「おぉ、じゃ、……頼むわ」
痩せ我慢のしどころを失って、俺は素直に自室へと足を向けた。階段に足をかけた所でクラクラと視界が回った。やべぇ……熱が上がってきやがったな……。
倒れないように手すりを握る手に力を込めたつもりだけれど思うように動かず、地面と激突することを予想して心の中だけで身構える。
「お……っと」
「……?」
しかし痛みは襲ってこず、代わりに右脇下に温かくて柔らかい支柱が出現して、体を支えてくれている。もちろん、アナベルだ。うわ、柔らか……。
「フラフラじゃないか! うわ、すごく体が熱い!」
「やめ、離せ……」
「嫌だろうけど、部屋まで付き添わせてもらうぞ!?」
「いい、て……1人で、昇れる……」
「1段目で墜落しようとしておいて、無謀なことを言わないでくれ。できるだけ触らないようにするし、部屋もジロジロ見たりはしないから! 嫌でもちょっとだけ我慢して」
「別にそれは、嫌じゃねえ……単に、危ねえだろ、お前小せえんだから……俺と一緒に、落ちるかも……」
「大丈夫、これでも力持ちだし、仮に落ちたって剣士たるものそうそう怪我なんてしないさ。今度は私がアルフを守るよ」
「……バカやろう……」
息が上がって、頭が痛くて、うまく思考と呂律が回らない。抵抗もろくにできない俺を半ば引き摺るように、アナベルは2階へ歩を進めた。
「はい、寝て……お布団は?」
「いる……寒……」
「温かいスープかお粥くらいなら食べられそう?」
「……頑張る」
アナベルはよろしい、と笑ってパタパタと階下に降りていった。と思ったら冷たい水とタオルを持って駆け上がってきて、俺の額に乗せ、またパタパタと居なくなる。数分後にはまた、水の入ったコップと丁寧に剥いたオレンジを枕元に置きに来て。
一方の俺は、冷やしタオルと水分のおかげて少し思考がクリアになった。オレンジを口に放り込み、まず1回目の身体強化。
「《Energie erzeugen》」
「どう? どう? 熱だけでも下がらないかなぁ」
「んー……完全に下げるにはもうちょいかかりそうだな。けどやっぱだいぶ楽だわ。サンキュ」
「どういたしまして。パン粥がもうすぐできるけど、持ってくる? よくわからないけど、魔術使うとお腹が減るんだろう? 」
「頼むわ。……けど、なあ、お前も少しは休めよ。帰ってきたばっかで疲れてるだろ」
「全然。馬車の中で寝てきたし」
「いや、でも……」
「アルフと違って、私は何の怪我もしてないんだぞ。今働かなくてどうするんだ」
怪我してねえのか。というか治ったのか。それ自体は良いことだし、アナベル自身は知る由もないが、あの瞬間は間違いなく俺よりずっと重症だったんだぞ。正真正銘、生死の境目だった。外傷性心室細動なら、別に後遺症なんてないだろうけど、あの時の背筋が凍る感覚がどうにも消えない。
「たまたま治せただけで、お前数日前に心臓も息の根も止まってんだぞ」
「えっ!」
「だから、頼むから無理すんな」
「わ、わかった……ええ、心臓止まってたのか、私……」
「そりゃもうピタッと」
ドン引きの様相でアナベルは胸を抑える。怖えだろ。怖えよな。俺はものすごく怖かった。思い出したくねえぐらい。
暫し胸に手を当てて考え込んでいたアナベルが、徐ろにこちらを向いて、首を傾げた。
「心臓や呼吸が止まったら、治癒魔法でも上級ポーションでも治らないんだってな」
「あー、そうなのか」
「なら私はどうやって生き返ったんだ?」
「ぐふっ」
――やぶ蛇だ。
いや、誓って下心などない、清廉潔白なBLSなんだけれども! でも、その概念のないこの世界の住人から見れば、俺がやったことって。
ひとつ、服をはだける。
ひとつ、胸に触る。
ひとつ、唇を奪う。
「アウトだ……!」
「何が!?」
「聞くな……! いつか話すから、今は許せ!!」
「わ、わかった、わかったから落ち着いて、安静にしてくれ、アルフ!」
いつか話せる、のだろうか、俺は。横っ面引っぱたかれても文句は言えないし甘んじて受ける。が、そのまま口を聞いてくれなくなったらどうしよう。そんな人だと思わなかったー、なんて、出ていかれでもしたら。
「ぐっ……!」
「アルフ!? 胸か!? 胸が痛いのか!?」
またあの胸痛だ。この歳で狭心症とかやめてほしい。カテーテルも抗血小板薬もないこの世界じゃあ座して死を待つしかねえじゃねえか。
――なんてな。さすがにもうわかってる。認めてる。
この恋ってやつはこんな感じに、痛くて苦くて……
「アルフ……?」
「悪い、取り乱した。何ともない」
「本当か? 無理しないで。何かあったら困る」
「家なし職なしになるもんな」
「そんなのはどうでも良い。アルフの体が心配なだけだ」
「うっ」
ついでにすごく優しく甘い。
実る前からこんなにも、五感を振り回すものだったなんて。もしもいつか実ったなら、この矢印がアナベルからも向けられたなら、一体俺はどうなってしまうのか。
「早く治してね」
「わかってるよ。――なあ、治ったらどっか行こうぜ」
「どっか?」
「良い店で美味いものでも食って、白いストール……は、季節遅れか。じゃあ服? 買ってやるわ」
「え、ええ!? 悪いよそんなの」
「俺が行きてえし買いてえの」
「でも……」
「着てくんないわけ」
「! そういう訳じゃ……! う、嬉しいんだよ、でもそういうのってなんだかまるで、恋人にやるみたいな……」
「はぁ!? ちげえよ!」
まただ! またこいつは、情緒も何もなく直球勝負を仕掛けてくる。皆まで言うなよ、そういうこと。たかが飯と買い物に誘っただけのことなのに、ぽわんと頬を赤く染めて。
……かく言う俺も、きっと人の事を言えない顔色になってるんだろうけども。
「そ、そそそうだよね。ごめん変なこと言って」
「まだな」
「?」
わざと小さな早口で零した言葉は、アナベルの鼓膜にはキャッチされなかったようだ。狙い通り。いや、残念? でも、面と向かって言うのは、まだまだ俺のレベルじゃあ耐えられそうにない。覚悟も経験値も足りなさすぎる。
そして、たぶん受け取るアナベルも。
暫くは、じっくりゆっくり、片想いとやらを楽しんでやろうじゃねえか。




