第35話 人口呼吸と痩せ我慢
人口呼吸の概念がない獣人は、またも小馬鹿にして笑っている。うるせえなぁ。人命がかかってんだぞ。それに、あぁもう、こんな時でなきゃ俺だってもっと。
「ぅお!? ははっはー、いいねえ、覚悟を決めたってヤツか! いいぜ、仲良くあの世に送ってやるよ!」
遠くで獣人が地面を踏み込む音が聴こえた。
――あー、防御してる余裕なんてねえし、あの馬鹿力を真っ向から受け止めねえとなのか、俺。
……ま、仕方ねぇわな。ていうか、アナベルが居なくなるかもしれないと、そう思ったら、なんか知らねえけど胸がクソ痛えんだわ。これに比べたら、猫パンチくらい大したことねえだろうよ。
さ、集中、集中。
とっくに捨てた医者としての矜持と、持ってることも知らなかった男としての本能が、獣人を俺の意識の外へ追いやっていく。
目に映る全てはアナベル。
背中に激痛が走る。どうでもいい。人工呼吸を続ける。
頬に血飛沫がかかる。どうでもいい。
頭を抉られた感覚。どうでもいい。
視界がぼやける。あと少しでいい。
ぐらり、体を支えきれず、アナベルの上に無様に潰れ落ちる。あと少し、なのに――。
脱力して倒れた俺を死んだと思ったのか、獣人は攻撃を辞めて数歩離れた。
チャンスだ。今のうちに。そう思うのに、体が動かない。動かせない。この女を治すまで、あとほんの少しでいいのに。
「……《Energie erzeugen》……」
薄れゆく意識のなか、半分無意識で唱えた身体強化。ほんの少しでも回復して、アナベルの治療をする時間を稼ぎたくて。
重なった唇の端から零れた詠唱は、何の抵抗もなくアナベルの体内に吸い込まれた。
「え」
そして突如、腕の中、アナベルの体に起きた異変。
くたりとした肢体に力が宿る。肩や頬の傷が塞がっていく。心音が力強く響き、――至近距離の小さな唇から、吐息が漏れた。
恐る恐る呼びかける。
「アナ、ベル」
果たして瞼が薄ら持ち上がり、金色と目線がぶつかった。
「う……ん…………?」
「戻った、か。よかった…… ばかやろう……」
「何、今、何が起きて……アルフ?」
「なんでも、ねえよ……」
もう少し持ち堪えろ、俺。今これ以上こいつを動揺させるわけにはいかねえだろ。地面に横たわったアナベルには、背中と後頭部に集中した俺の怪我は見えてねえはずだから。
辛うじて耐えている俺の耳を、獣人のダミ声が汚す。
「何ィ、女、てめえ生きてたのかよ! はっはー、儲けもんだ! んじゃあもう1回オネンネしてな!」
「っ!」
アナベルは先程叩きつけられた際に剣を手放している。素手で獣人の攻撃は防げない。今の体勢からでは避けるのも間に合わない。
篭手で精一杯の防御を図っただろうアナベルに、獣人の拳が及ぶことはなかった。
「アルフ…!?」
「がっ……」
無理矢理体立ち上がった俺が、拳を受け止めたからだ。なけなしの身体強化を回復でなく筋力に回して。 あー、もう、本当に馬鹿だわ、俺。
力んだことで、後頭部と背中の傷から血が噴き出す。たぶんアナベルに掛かってんな。もうあの白いストールは使い物にならねえだろうな。
生きて帰れたら、また買ってやるんだけど。
……無理かもしれねえなぁ。全身漏れなく痛えわ。やっぱ、前衛なんて、やるもんじゃねえな……。
眼前に獣人の牙が迫る。
しかし、俺の喉笛を食い破ろうとした獣人の臭い舌を、次の瞬間アナベルの切っ先が切り刻んだ。
「ぐぎゃあ!?」
「ごめん、アルフ! もう戦える!」
剣の根本へと視線を滑らせれば、ふたつの金色を力強く輝かせて、アナベルが隣に立っていた。
「嘘だろ!? 生きてて儲けもんくらいの……死に損ないの重症だったはずだ! 立てるわけねえ!」
「私が1人ならそうだったけどな」
「っまさか野郎、そのナリで聖職者かよ!? んな上位の回復魔法を使えるなんて」
聞いてねえぞ、獣人が言い切る前に、アナベルの剣が弧を描く。
「んなわけねぇだろ。火事場の馬鹿力ってやつだ」
たぶん俺の呟きも、奴には届かなかっただろう。
ごとり、鬣のすぐ下で胴体とお別れした首が転がり落ちた。
***
部屋の中が静まり返る。こうなると俺の息遣いが一番うるさいな。ゼェゼェと無様なことだ。深呼吸を繰り返し、多少なりとも呼吸を整える。ぎりぎりのところで戦いが終わったおかげで、身体強化が命を繋いでくれた。
「はー……おい、お前大丈夫か」
アナベルを振り返ると、俯いてプルプルしていた。え、さっきまであんなに気丈に立ってたくせに、どっか悪いのか。心肺停止から回復したばかりなのだから無理ねえな。
「お、おいどこが痛えんだ。たぶんもう1回くらい強化使えるから、遠慮なく……」
大盤振る舞いの俺の提案にもアナベルは言葉を返すことなく、下を向いたままツカツカと距離を詰めてきた。
ポスッ。
やがて俺の胸にぶつかり、そのまま頭を埋める。
!?!?!?
え、何これどうすれば? 抱きしめていいやつ? どういう感情?
「アルフ……っ。ご、ごめん、なさい、私の、せいで、こ、こんな、大怪我……っ!」
「あーーーいいいいいい、気にすんな死にゃしねえから! そもそもお前のせいでもねえよ」
「でも! こんなに、背中と頭! ロイだって、あんな血まみれで!」
「あいつもあのくらいじゃまだ死なねえよ。お前が猫野郎の気をひいたおかげだ」
ぐすんぐすん止めどない涙と鼻水を袖で乱暴に拭いてやり、アナベルの肩を押して体を起こしてやる。
正直、少しでも腕を動かすと背中に激痛が走るし、視界はモノクロに霞んでるし、めまいは止まらねえ。でも、ここでは何だか痩せ我慢をしたくて、涼しい顔でアナベルを見下ろした。
「じゃあほら、《Energie erzeugen》。……な、だいたい治ったろ」
「……血は止まったけど、まだまだ残ってる」
「そりゃ、教会の上級回復魔法とは違うからな。あくまで回復力を上げてるだけだから、この後もう少し治っていくはずだ。そこらの魔術師としちゃあ中々だと思うんだが?」
「……痛みは?」
「大したことねえよ」
「そっか……」
痩せ我慢は露見せずに済んだらしい。ようやく笑ったアナベルは、また恥ずかしげもなく臭い台詞を口にする。
「……ふふ。また奇跡を貰っちゃったな」
「奇跡じゃなくて魔術な。んな善いもんじゃねえ」
「人のために、人を癒すために使ってくれたのに?」
「俺が俺の怪我を治しただけだろ」
「うん。アルフがアルフを――私の大事な人を、癒してくれた」
「は、っはぁ!? 」
一気に顔に熱が集まる。どういう意味で言ってんだ。どうしてこうもこいつは直線的なのか。こそばゆいような、ふわふわするような、居た堪れない感情のままに乱暴にそっぽを向こうとしたけれど、まっすぐこちらを向く金色があまりにも綺麗で、ついぞ目が離せなかった。
「アルフ――本当に、ありがとう。アルフがいなかったら、仇も取れず、弟も売られて、私は死んでた」
「……おう」
「関係ないのに巻き込んで、こんな危険な目に合わせて」
「いや、どの道、俺らに依頼が来ちまってたから」
「2人だけなら、もっと上手くやれたでしょう」
「まあ、……ここまでの大立ち回りはしなかったかもな。でもその甲斐あって、こいつらを突き出せば国からお尋ね者にならずに済む。Win-Winってやつだ」
ぽんと1回だけ、アナベルの頭に手を弾ませる。さっきの戦闘のせいで砂埃に塗れ、所々焦げて縮れた場所もあるくせに、妙に艶々と軟らかくて、碌に櫛も通していない俺の髪とは当たり前だがまるで違い、その差に妙にそわそわした。




