第2話 スラム生活と経口補水液
生きると決めたからには、まずこの体調をどうにかしなければなるまい。
今の自分は、先ほど考えた通り、胃腸炎による脱水症がメインと思われる。さらに、もう吐くものなんてないというのに、しつこく残るこの吐き気。この子どもの体格故、糖質不足による毒素の蓄積、すなわちケトン血性嘔吐症を併発しているかもしれない。
いずれにせよ、もしここが現代日本なら病院に行けばすぐ治るだろう、恐るるに足らないシンプルな病態だ。
が、この世界ではそうもいかない。
ここは前世を過ごした世界ではない。
だって、俺の父親、魔術師だったらしいもん。
ついでに言うと政治は王と貴族が担い、治安を守るのは騎士団と衛兵で、スラムに施しをするのは教会の聖職者たちだ。亜人の類もよく見かける。街の外にはモンスターも出るらしい。
所謂、剣と魔法の中世風の世界と思われる。
魔法に頼って発展してきた世界らしく、科学のレベルは高くない。
医学についても発展しておらず、基本は治癒魔法とポーションに頼ることになる。それらは教会の神父やシスターが習得や作成を請け負っていて、お布施の額に応じてどの程度のランクの魔術ないしポーションが与えられるかが決まる。
もちろんスラムの子どもには、お布施できる金などない。
したがって、アルフが今まで取れた選択肢は、自然治癒に頼るか、怪しげな民間療法に手を出すかの2択でしかなかった。ネズミの頭を軒先に吊るすとか、謎の雑草を枕の下に敷くとか。
こうして前世の記憶を取り戻した今なら、それが如何に意味のないことかわかる。民間療法は論外だ。
かといって、今の状態から何もしないで待っている訳にはいかない。この小さな体は、自然治癒する前に脱水と飢餓の限界を迎えるだろう。
つまり俺のやるべきことは、極めてシンプル。
経口補水液を作ろう。
贅沢を言えばキリがないが、現実問題、今できるベストな治療は水と電解質の補給である。
経口補水液の原材料は、基本は水と塩と砂糖だ。
塩だけはこのあばら家にも置いてあるから、それはクリア。
水については、水瓶の中身は衛生状態が信用できないから避けたいところだ。……が、折しも今日は強い雨。これを頂こう。雨水は自然界で手をかけずに得られる水の中では最も清潔と考えてよい。窓の外に小鍋を差し出し、しばし鍋肌をすすいでから窓枠に置いておく。
水が溜まるまでの間に、怠い体を引きずって家の裏に行く。
そこには大人の背丈ほどの木が茂っており、直径10㎝ほどの黄色い果実がいくつか生っていた。見た目も香りも前世で食べていたグレープフルーツに近いのだが、これは、ものすっごく酸っぱい。スラムの飢えた子供たちが残しているという事実からも、酸っぱさは折り紙付きだ。
普段なら見向きもしない無用の長物だが、今はこれでもないよりましだ。
どんなにまずくても果物は果物。カリウムの含有量は多いことだろう。下痢ではカリウムを失う。こいつの果汁を混ぜて多少なり補給しよう。
グレープフルーツもどきをいくつかもぎとり、なまくらのナイフで無理やり半分に切ったところで、小鍋の水がだいぶ溜まっていることに気づき回収する。
本当は煮沸できたらいいのだが、ここには燃料などないし、今きりもみ式に火を起こす余裕などない。採りたてほやほやの雨水に、塩と果汁を目分量で混ぜ合わせる。なに、多少塩が濃い分には構わない。
たったこれだけで経口補水液スラムバージョンの完成だ。
たぷん。
小鍋の中の雨水が輝いて見える。無意識に喉がごくりと鳴る。
乾ききった体がガブガブ飲みたがるところをなけなしの理性で抑えつけ、ほんの一口二口だけあおる。
――うまい。
体は求めていた水分と塩分を喜んで受け入れた。柑橘の爽やかな香りが、吐きすぎた口内を洗い流してさっぱりさせてくれる。
小鍋に一杯どころか樽で飲めそうな気分だが、焦りは禁物だ。ゆっくり摂取しなければ、吐いてしまって貴重な経口補水液が無駄になる。
理性を総動員して、体感で10分ほどかけて、カップ一杯の経口補水液を飲み干した。
少し水分が摂れたおかげか、怠さが減って、意識がはっきりしてきた。でも吐き気はまだしつこく主張する。
やはりこの吐き気を抑えるには、ブドウ糖、いやこの際贅沢は言わない。砂糖、ショ糖、なんでもいいから、糖質をとらないといけない。酸っぱすぎる柑橘の果糖では不十分だ。
でもこの家に甘いものなんて――
「おい、アルフ。まだ生きてるか? あれ、思ったより動けてるじゃないか」
突然、ノックもなしにずかずかと家に上がり込んできたのは、浮浪児仲間の少年だった。ドアなんてあってないようなものだから、ノックなんてしようがないわけだが。
「ロイか」
こいつは、今世でもっとも腐れ縁の浮浪児だ。
互いに自分の誕生日なんて知らないから、正確なところはわからないが、見た目はほとんど同い年。スラム、というか平民には珍しい金髪は、汚れでほとんど灰髪になっている。俺に比べて目つきが柔らかく、身なりを整えたら聖歌隊にでも入れそうな可愛らしい顔立ちだ。
「昨日までは死にそうな顔してたくせに、今日は喋れるのか。じゃあこれ、やるよ。今日臨時で施しがあってさ。多めに貰って来たんだ」
「!」
ロイが差し出したのは、片手に収まるくらい小さな布製の小袋だった。
それは、今世では何度もお世話になってきた、これがなければとっくに死んでいただろう、恩人ともいうべき代物。
教会の施しでスラムの子供たちに配られる、砂糖菓子だった。
この世界では砂糖はさほど高級品ではない。が、それでも当然スラムの子供は、甘いものになどありつけない。
哀れに思った教会のシスターたちが、生きる希望になればと浮浪児相手に配り始めたのが、この砂糖菓子だ。丸くて白っぽくて、ラムネと落雁の中間みたいな、素朴な菓子である。
ロイの手からひったくるように砂糖菓子を受け取り、いくつか小鍋に放り込む。すぐに菓子がほろほろ崩れだすので、乱暴にかき混ぜ、2口ほど煽った。
先ほど飲んだ経口補水液スラムバージョンよりも甘くてうまい。よし、飲める。
「ど、どうしたんだアルフ」
「寝る」
今は会話に使う体力すら惜しい。そんなものに割くエネルギーはない。
俺がするべきは、ちびちびと経口補水液スラムバージョン改を体に与え、十分な睡眠をとって、免疫細胞たちのサポートに勤しむことだけだ。
***
ちゅん、ちゅん、ぴぃーぴぴぴ。
鳥の鳴き声に起こされた。ガラスもカーテンもない窓から、直射で差し込む朝日に目を細める。
気分が良い。
腹痛も、頭痛も関節痛もないし、えずく感じも消えている。
立ち上がって水瓶のところまで歩いてみる。一昨日同じことをした時より、足取りが随分軽い。
水鏡に映る自分の顔は、相変わらず痩せこけているが、落ち武者よりも落ち窪んでいた目に、今は生への活力が宿っている。
「治った…!」
子供の生命力というのは本当にすごい。あれだけの症状だったのに、ほんの2日間だけ適切な処置をしてやればこの通りだ。ああ、世界が輝いて見える。生きられるって素晴らしい。
自らの生命力に感嘆していると、腹がぐうとひと鳴きした。
都合4日ほどほぼ絶食なのだ。元気になった胃が食い物を欲するのは妥当なところだろう。
その欲を満たしてやるために、俺は食糧調達に出かけることにした。




