第1話 自分のために
——体が熱い。
節々が痛い。頭がガンガンして、胃液がせり上がってくる。このまま目を閉じていたいのに、何やら外が喧しい。雨の音と、雷の音。
諦めて瞼を持ち上げる。
ここはどこだ。俺の家だ。
俺って、誰だ?
俺は、どっちだ?
熱で朦朧とした頭で記憶をたぐり寄せる。
俺は貧乏な母子家庭に生まれ育った。母親はいつも、濃い酒と男の匂いを漂わせて、俺のことはほぼ無視。
気が向いた時だけ撫でるか殴るかされた。
殴られるのは痛かったし悲しかったが、今振り返れば、撫でられることの方がタチが悪かったと思う。
気まぐれに与えられる僅かな愛情と飯を糧に、自分で言うのも何だが、とても誠実な人間に育ってしまった。
食うに困った時でも、万引きの一つもしなかった。身なりを馬鹿にしてきた奴を殴ったこともない。
そして、これも手前味噌だが、所謂「地頭」が良かった。
家庭環境が俺に許したのは義務教育課程のみだったが、教科書を眺めているだけで公立中とは言え常に学年トップ。中学卒業後はついに家を追い出されたから、バイトをいくつか掛け持ちして、3年間ほど学費と生活費をを貯めつつ高認を取った。
頑張れたのは、夢があったから。
と言っても、大層なものではない。怪我した幼馴染に、「俺がお医者さんになって治してやるよ」なんて恰好つけてしまったのが始まりの、ありふれた将来の夢だ。
夢を追いかけて、そのままするっと国立大の医学部に進学した。バイト三昧のまま医学部の実習をこなすのはキツかったが、危なげなくストレートに卒業できた。もちろん国試だって一発合格だ。
医者になってからは、それこそ身を粉にして働いた。
当直だらけで丸2日寝ずの連続勤務は当たり前。それ以外にも、担当患者の看取りが近ければ何日でも無給で泊まり込んだし、学会発表の下準備、上級医の論文作成のお手伝い……。
早く一人前になりたい一心で、歯を食いしばってもがいて。
ここ暫く自宅のベッドで寝ていないなぁ、でも今日は珍しく日付が変わる前に帰宅できそうだなぁ。
……疲れたなぁ。
あの日は、そんなことを思いながら地下鉄の駅で電車を待っていた。
——という記憶を最後に、俺の前世は途切れた。
突然何らかの発作で倒れたのか、鬱で電車に飛び込んだのか、単純な寝不足でフラフラ線路に落下したのかは定かではない。
今の俺にわかるのは、ろくでもない最期だったということだけだ。
今の俺。
そうだ、俺は、アルフだ。
まだ10歳の脳味噌に、突然全く別人の成人男性の記憶が飛び込んできたから、一瞬我を見失った。
でも、俺は今、アルフだ。
確かめるように周りを見渡す。
俺は今、独りでスラムのあばら家に寝ている。
家というのも烏滸がましいような、隙間だらけの木製の壁に藁葺きの屋根。寝ているベッドは板にぼろ切れを敷いただけの暴力的な硬さ。ガラスも板も嵌まっていない枠だけの窓と玄関ドア故に、この上なく風通しが良好な、素敵なマイホームである。
風どころか雨も抵抗なく入れる構造の窓なので、今日のような日は床が水浸しだ。もはや水たまりができつつある床にぽつんと置かれている、水瓶代わりに使っている木桶をのろのろと覗き込む。水は残り少ないが、うっすら自分が映りこんだ。
黒目、黒髪なのは前世の俺と同じ。でも、以前より少し鼻が高くて、それでいてまだあどけなさの残る顔立ちだ。今世で見慣れた自分の顔。身なりと栄養状態を整えたらなかなか男前な造形だと思うのだが、残念ながら今の自分の目は落ち窪み、頬はげっそりとこけている。
母親がいた頃は、もう少しだけましな見た目だったかもしれない。しかし、前世のそれと同じく飲んだくれのあばずれだった母親らしき女は、安い娼館ではそこそこの売れっ子だったようだ。客にくっついてスラムを出ていってから、もう三年ほど姿を現していない。
独り取り残されたアルフは、このスラムに沢山いる同じような境遇の子供たちと持ちつ持たれつしながら、今日まで何とか生きてきた。
飯もない、医療設備もない、ご近所さんは荒くればかりなのに守ってくれる大人もいないという環境は大変過酷で、死ぬかも知れないと思ったことは、数限りなくある。
それでも辛うじて生にしがみついていられたのは、ただの幸運に過ぎない。
そして、今日こそはいよいよ駄目かもしれない。前世のものとはいえ走馬灯を見るほどの体調不良だ。
熱で意識が持っていかれそうだし、こうして前世と今世を語っている間にも3回は胃液を吐いている。猛烈に腹も痛い。
どうしてこんなことになったんだっけ。
アルフとしての記憶をたぐり寄せる。
……食あたり、だろうな。さすがに一昨日漁った残飯はダメだったか……。あの魚の頭、どう見ても腐ってたもんなぁ……。
感染性胃腸炎による発熱と下痢、それに伴う脱水。そしてこの強すぎる吐き気を鑑みるに、栄養不良による毒素の蓄積もあるかもしれない。この小さな身体では、放っておいたら長くとも数日中に死ぬだろう。
死ぬ。
また、死ぬ。
苦しんで、誰にも気にかけられることもなく、何を得ることもなく、死ぬ。
——ふざけるな!!!
前世の俺は、自他ともに認める誠実な人間だった。病院でも皆に頼りにされ、たぶん余計な仕事まで押し付けられた。
それでも良かった。底辺生まれ、底辺育ちの俺が、社会に認められ、役立っている。そのことに誇りすら持っていた。自らの幸運に感謝すらしていた。
そこまで他人のためにと文字通り命懸けで頑張り抜いて死んだのに、生まれ変わった先が同じようなクソッタレの家庭環境で、しかもまた死にかかってるだって!?
この世に神はいないのか。いねえな、こりゃ。
むしろいるなら出てきて欲しい。
あまり詳しくないが、異世界転生とやらをする時には、神のお言葉があったり、何やら特殊能力を与えたりするものではないのか?
いや、贅沢は言わない。超能力なんてくれなくていい。
一発殴らせろ。
信じてもいない存在に対してひと通り怒りを募らせてから、大きくため息を吐いた。
ここで死んでたまるか。
せっかく人生をやり直すチャンスなんだ。今度は、今度こそ、自分勝手に生きよう。他人の幸せなんてどうでもいい。たとえ犯罪に手を染めてでも、欲しいものを手に入れよう。
自分のために生きよう。
そういう人生を、生きてみよう。




