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薄明の丘 ※挿絵


 はらはら、と花弁が空を舞う。暖かい風に包まれた桜色の木漏れ火が、まるで誰かを祝うように、はらはらと舞っている。

 手を広げたその指先に、花弁が落ちて来た。はらはら、はらはら……。


 目を閉じると、彼女が笑う。耳を澄ますと、彼が呼ぶ。

 逝く私を呼ぶ声に応えるように、私は上へ上へ昇っていく。地面は一面桜色。青い空は一面桜色。ただ時折風に揺られて、その髪束から青を覗かせる。

 

 綺麗な青。―――いつの日か、わたしが愛したその色は輝きを取り戻した。いや、私では無いのか?いいえ、わたしであろうとも。認める。肯定する。確かに、わたしが、私が、愛していたのだ。両手を広げて、思いっきり空気を吸い込んだ。嗚呼、暖かい。嗚呼、良い香り。嗚呼、生きている、世界が生きている!!

 瞳が潤むほど、嬉しかった。真実、嬉しかった。この肺を侵す温もりであろうとも、私はそれを守りたかったんだから。これから抱きしめる世界が、私を脅かすことそれ事態は、良い。良いの。私はただ、それを抱いていくだけ。

 少しの寂寞を心の内に隠し込んで、私は森を抜けた。視界を一瞬、白一面に変える光が差し込む。くらりと細めた瞼の裏に、銀色の長い髪が、揺れた。


「―――っ、あ……」


 思わず駆け出した。視界が取り戻せないなかで、駆け出して、躓いてしまう。私が地に手を付くと、膝を突くと、意図せず千切れた花弁が宙を舞った。生花のもぎ取られた命の香りに包まれて、私は行く先を探した。銀色の髪を、探した。橙の瞳を、探した。


 もういない、あの人を、探した。


 唇を強く噛み締める。微かに残る私の灯が、最期の強さと輝きを以て、燃え盛る。受け皿を無くした、項垂れた蛇口。流れる水は、止められない。


 ねえ、私。

 ねえ、上山泉(わたし)……。まだ、好きなんだよね。今でも尚、……愛して、いるの?


 炎が燃える。残り僅かな蝋を使う速度を速めて、燃えている。


「そう……ほんと、……馬鹿なんだから……」


 立ち上がって、あの光景を思い出しながら歩を進めた。

 落ちるように見た夢の中で、とある男の悲鳴を聞いた。丘にだけ掛かる目に痛い赤と、それを覆い尽くそうとする青、それが混ざり合う金色の中で、その銀の男は震えていた。今でさえ鮮やかに思い出せる。そう、そこに、ここに、あなたは立っていた。

 枯れた花園を愛おし気に見つめて、私を見つめた。捕らわれていたの。あの日から、私は……。


「スワード……」


 名前をなぞり、気づいてしまった。嗚呼、嗚呼、貴方は最初から、私なんて、見てなかったね。そうだ、そうだ、ね。だって貴方は、貴方があの騎士のようになってしまったのは、全て―――エリーシアの、ためだった。


 いいの、いいんだよ、だってそれが貴方なんでしょう?それならば、貴方が貴方らしくそうなってしまったのなら、私はそれを否定しない。結末は哀しいけれど、私はそれを否定しません。だから、どうか許して。この想いを断ち切れない私を、このまま天へ上げてください。人間であるこの心を、否定しないで、くれますか……?


 たとえそれが偽りから始まった恋だとしても、もはやそれは恋以外の何者でも無く。恋以外に形容できる言葉が見つからない。

 以前に、他の誰かに仄かな想いを抱いていた気がするけれど、それはもう見えない。視界を覆った指の隙間から見えて気がしたけれど、いつの間にかこの両手の鮮血しか見えなくなってしまったの。


 あの日と変わらない黄昏が、私の紅の瞳を覆う。銀の影を追う私の肩に、温もりを感じた。


 嗚呼、そこに、いたの?


 花が、風に乗って戯れるように舞う。視界をはらはらと、嬉しそうに微笑んでいる。

 風が頬を撫でてくる。僅かに擽ったいその触り方に文句を言ってやろうかと振り返ると、そこには息を切らせた艶やかな黒髪を持つ少女が、身体を苦しそうに曲げながら立っていた。驚いたのは、少女が手に持つ大きな色彩の花束。何故、そんなものを……。


「はぁ、はぁ、はぁ……‼なんっですか、あの坂は!全く、きついったら、もう!」


「鏡子ちゃん……!?」


 まさか人が来るなんて、そしてそのまさか鏡子ちゃんが現れるなんて!


 驚きにたじろいだ足が一歩後退し、あまりにもぜえぜえと肩で息をする鏡子ちゃんに足が一歩前進した。勝った意志は後者で、私は小走りに彼女の傍へ行く。

 膝に手を当てるせいで落ちる髪の間、その肩に手を置いて私がその顔を覗き込もうとした瞬間、鏡子ちゃんの手が襲い掛かる。視界外から迫り来る手と、鏡子ちゃんの黒曜石の瞳が煌めいて――――。


「上山さん‼‼」


「は、はい!」


「鏡子が選んで鏡子がわざわざ持ってきてさし上げたこの花束の方が美しいとは思いませんか!?」


 と、顔面に花束の包みを押し付けられた。


「うっ、ちょ、まっ、うっっ‼」


 答える隙間も無く、私の顔面にぐいぐいと花を押し付けた鏡子ちゃんは、やっと自由になった片手を腰に当て、もう一方の手で頬に触れながら周りを一瞥する。少しよろめいた私は両手に花束を抱え、「ふう」と汗を拭う動作をした鏡子ちゃんを、少し恨めしそうな目をして見つめた。


「な」


「なにしにきたの、という言葉は要りません」


「……」


 開いた口を閉じてもう一度恨めしそうな目をしてやった!!してやったからね、私は!!

 当の本人は髪束を手の甲に一房乗せて遊ばせると、その瞳を僅かに細めて笑った。


「愚問というもの、と……何度上山さんに言えばいいのでしょう。この安倍鏡子、何時如何なる時でも必要とあらば現れるものでありまして」


「はあ……」


「たとえ入山を唯人に禁じた聖域であろうとも、この鏡子を拒めるものでは無いのです」


「は、はあ……」


 私のへなへな返答がお気に召さなかったのか、髪を甲で払い除けることなくそのままのポーズで私をじとりと睨みつけた。う、と言葉に詰まり花束を鏡子ちゃんの冷ややかな視線ビームへの盾とし、私はじりじりと鏡子ちゃんから距離を取る。


「ですから!鏡子を拒むことが出来る者は、およそ!この世界には存在しない!!」


 髪束をさらりと翻したその手のひらが、私を射抜く様な形に代わり差し示された。私の足は何者の拘束も受けていないのに、固まり動けなくなる。引ける腰とみっともない声が鏡子ちゃんに届くと、鏡子ちゃんは鋭く光らせた瞳に涙を浮かべてお腹を抱えながら弾かれた様に笑った。


「あははははは!あはははは……!あははは、お礼を申し上げますわ、あははは!苦しい、苦しい、あははは……‼」


「む、むう。今回だけだよ!これからは、こういうこと、出来なくなるんだから……!」


 少し恥ずかしさが表に出て来た。体感する温度の上昇を右手で押さえて、私は頬を膨らませながら鏡子ちゃんを見る。鏡子ちゃんは涙を拭って、きょとん、と首を傾げた。


「どうして、出来なくなるのでしょう」


「……上山泉は今日が終われば、居なくなる。だから、上山泉として鏡子ちゃんに接してあげられるのは、今日が最後だよ。わかってるから……少し無理をして、山を登って追いかけてきてくれたんだよね」


 鏡子ちゃんは尚、目を丸めていた。

 間が生まれる。そのまま、鏡子ちゃんの髪が風に遊ばれている。


「えっと……鏡子、ちゃん?」


 なんと不可解な間。私は耐えられなくて、声を出した。


「……――本当に、馬鹿な人だこと」


 面を喰らったのは、私だ。

 思わず己の耳を疑った。身体が固まった。瞳が、彼女の笑みから動かせなくなる。


「上山さん、また……いいえ、まだ、天(そら)のことを考えていらっしゃるの?」


 あ、嗚呼……。

 口角が、不自然に上がる心地がする。花を抱き上げて、私は肩を竦めた。


「おかしなことを言うね。……それで、鏡子ちゃん。これ、どうしたの?」


「上山さんが必要だろうと思って、用意させたんです」


「わざわざ!?」


「ええ」


 用意させた、と言ったということは由緒正しき安倍家のお手伝いさん、もしくは……従者が由緒正しい場所から買い付けた、ということだろう。ぎょ、と腕に抱える花束を見ると白を基調とした華美過ぎない、しかし明らかに美しい花達が悲しみに寄り添う様に添えられている。


「用意させた、と言いましたが花を選んだのは鏡子なんです。……上山さんなら、安藤さん、佐倉くんにどのような花を贈るだろうか、と考えて選びました。……お聞きになりますか?」


「うん。聞かせて」


 迷わず頷いた。鏡子ちゃんは少し上を向いて、息を吸う。


「まず、基調とした白は……見ておわかりですね。菊の花です。菊は高潔、という花言葉がありますので、それを。……鏡子はあまりお二人とは触れ合う機会がありませんでしたが、どうでしょう?」


「……良いと思う」


「それはよかった。では、次。添えた色の一つである青は……桔梗、です。桔梗の花言葉は沢山ありました。どの意味を込めようか迷いましたが……彼女には、変わらぬ心、というフレーズがしっくりときましたので、その意味を込めましたわ」


 彼女、と言った鏡子ちゃんの顔を上目で見つめると、口元を息遣いの中に緩める。ふわふわとした印象が強いあの子の芯は、清廉としていた。まさに、彼の青と寸分たがわぬ様子で。……私は、鏡子ちゃんのイメージに賛同する。


「もう一つ。添えた色の……緑は、実は、紫陽花、なんです」


「紫陽花?それなら有名だよね。ええっと……移ろいやすい、とか、なんとか」


 彼が鏡子ちゃんの後ろで抗議しているような光景が目に浮かんだ。と、同時にそんな想像を咄嗟に浮かべてしまった自分に恥ずかしさを感じる。花を抱く力を強めて、加えて目も空に泳がせて私はその気配が鏡子ちゃんに悟られない様に身体を動かしていた。


「ひたむきな……想い、という言葉を選んでみました」


「ひたむきな想い……」


 ふと、舌で転がした言葉にしょっぱい味を見る。彼が私を見つめていた幼き日から今までを懐古して、胸に熱い波が込み上げた。


「彼らの遺体は安倍家が預からせて頂いておりますが、心は上山さんの傍にあります。だから、上山さんがもしよろしければ……鏡子と一緒に、その花を捧げましょう」


 唇を噛む。揺らいだ瞳が、僅かに下を向いた。

 彼らの心が、私に寄り添っていると。本当にそうだろうか?もしそうだだったとしても、私は世界の首に手を掛けた人間だ。彼らが私に失望している可能性だって十分にある。私は彼らが愛おしくて、会いたくてたまらないけれど……こんな私を、彼らが、望むのだろうか。


「実花と湊は……本当にそれを、望むと思う?」


「上山さんが嫌でしたら、鏡子はその意志を尊重致しますわ」


「――違う!そうじゃないの……。逆だよ。湊と実花が、この私からの花を、望むかな?」


 咄嗟に口を開いた。鏡子ちゃんの身を引いた考えを否定した。

 私のその言葉に、鏡子ちゃんが強くゆっくりと首肯する。少し圧される胸に、私は花を見た。


「私は……エリーシアを、選んだのに……」


「それでも彼らは、あなたと共にあります」


「誰もそれを、証明できないのに?」


「いいえ。鏡子が、それを証明できますとも」


 それはあまりにも、あまりにも虚を纏いすぎた言い分だ。あまりの思いやりの強さを感じて、私は弱く笑うしか応える仕草を持ち得なかった。


「上山さんが……深い絶望に呑まれ、深い深い海の底に居たあの時間……上山さんは、本当なら、とっくの前に戻れない所まで沈んでいてもよかったんです。鏡子といえど、あの神の領域に深々と入り込むのは悔しいですけれど、難しかった。上山さんがあそこで微睡んでいたから、鏡子は見つけることが出来たのです」


「……覚えてるよ。でも、あそこが底のような感じを……まだ、覚えてるよ?」


「そうでしょうとも。上山さんを其処に留めていたのが、彼らだったのですから」


「―――え」


 空白が落ちる。心の音が、一瞬にして止む。


「私達は干渉できないと、上山さんを頼むと、そう言われました。確か……一人別の少女もいましたけれど、あの者は……。兎に角、遺体を確認してあの空間の中で見た二人が、安藤実花と佐倉湊だとその二人であることは確信の域に至りました。佐倉湊に関しては、少しの間でしたが言葉を交わしたことがありますので……。二人とも、上山さんを心配していましたよ。自分の手で救い出せないのが悔しいとも、申しておりました」


 震えを感じて、花束を抱いた。――あの時、絶望の余り目を閉じた私の髪を撫ででいたのは。あの時、意識を引きずられる感覚を生んでいたのは、もしかして。


「いつでも傍で守っていると――――そう、仰っていました。さあ、上山さん。お二人に捧げる花束に、鏡子の手を添えても構いませんか?」


「うん……」


 声が上擦る。震える私の肩を抱いて、鏡子ちゃんが手の上から手を重ねた。


「魂は輪廻するのが世の理ですわ。何時までも同じ場所に留まっていると、それは妖へと転じてしまう。……お二人を送り出す練習をしましょう。離れ難い今は、練習として。上山さんがもう少し元気になったら、鏡子の本邸で安倍家の総力を挙げて送り出して差し上げましょう!!」


 風が強く私を目掛けて上流気流を生み出した。鏡子ちゃんによって掲げられた花束を救い取って、空へ、上へ上へ舞い上げていく。その中に舞う花弁が、白と青と緑の花束が、レースの様に編み込まれて黄昏の空へ飾り付けられている。

 青と緑が混ざり合う。二人手を取り合って、微笑んでいくような、そんな情景が浮かぶ。本来ならば、そうやって微笑んで、大人になって、共に先を歩むはずだった可能性があった二人が。

 その中に私も混ぜて欲しい。天へ逝く二人の傍に、居たいと強く願うから。


「鏡子ちゃん。白い花は、私?」


 何気なく横に顔を少しだけ向けて尋ねた。しかし、返る言葉の短さに私は固まってしまう。


「いいえ。まさか」


 鏡子ちゃんは陽を頬に受けながら、笑わずに、


「白は追悼の気持ちですわ」


 そう、はっきりと私を突き落とす様に言った。


「え、じゃあ……それじゃあ……」


 私は、どうなるの?

 揺らがない瞳に、揺らぐ紅の目。救いを求めた丘に、雲が掛かる。それは地上の温度を瞬く間に奪い去って、雪を降らすだろう。


「全身黒を身に纏って花を捧げる。その行為の対象を、今を生きる人間に宛がうわけがありません」


 嗚呼、と理解が降ってくる。

 彼女には、はっきりと言葉で伝えてなかったか、と冷静に事を受け入れられた。そうか、そうであるならば、仕方がないと俯いていた瞳が上がっていく。


「鏡子ちゃん。……上山泉は、今日をもって、死ぬんだよ。お葬式だって今してもらってる。この身体が動いてるとか、動いてないとか、そんなの関係ない。――みんなの認識の中で、確かに、私は死ぬんだ」


 鏡子ちゃんはじ、と私の言葉を聞いていた。


「私は今日が終わると、――支配者(ミストレス)へと完全に移行する。どうして鏡子ちゃんが此処にの昇れたのか……わかんないけど……こうやって直接言葉を交えることも、無くなると思うの。鏡子ちゃん、ありがとね」


 花が舞う様を見つめて、ようやく穏やかな笑みを容取ることが出来た。どうだろうか、綺麗に笑えているであろうか。冷えた心の隅で、目覚めた私が笑う。人から剥された或いは、眠っていたわたしの本性か。


「そう。ずっと、私として伝えなくちゃって思ってた。今までなあなあにしてきて、ごめんね。……私を、上山泉を、ずっと護ってくれて本当にありがとうございました。気味悪い私をそれでもずっと、ずっと気にかけて、護ってくれてた。……鏡子ちゃんこそ、護られる人だったのに」


 地球に、日本に戻って来てから驚いたことがある。その一つは、鏡子ちゃんに飛びついた人の多さ。鏡子ちゃんは自らの次期当主、だとか安倍晴明の――だとか言っていた。その真偽を疑ったことは無かったが、其の有体を様々と見せられて実感した。

 失わなくて、よかった。鏡子ちゃんだけでも、私に纏わりつく死に溺れさせなくて本当によかった。

 従者と思われる幾人が、鏡子ちゃんの帰りを待っていた。焦燥した者、呆然とする者、涙を流す者、――そして、私を責める者。

 皆が皆、安倍鏡子という唯一の喪失を恐れていたんだ。地球という箱庭で消えるはずもない存在の喪失を感じた彼らは、事例の無いことに手を尽くして、尽くし終えて、ただ帰りを祈るしかなかった。途絶える前の記録として、私の名が挙がる。他者修正機関との衝突の末、どうにもならないことを痛感し、祈り、祈る。失われし神の名と、伝説すら残らなかった天上の国。常人とは外れた世界に住んでいる彼らすら図り得ぬ未開の地に赴く主の帰還を、絶望と共に祈っていた。

 だからこその、私への糾弾の激しさ。人の殻を纏い、黒に染め上げる髪を見て、彼らの一人が声をあげた。波紋の様に広がる嵐の音。私が顔をあげ、彼らを見ると――――静寂が夜の帳の如く覆いかぶさってしまう。

 紅の瞳が、その証左。人でないと、静かに語る。

 力ある者は、私へ深く叩頭するしか術は無く。力なき者は、その仕草に従う他に術は無い。後に戸を破る他者修正機関がその光景を見、同じように跪いた瞬間に、怪異を覗く彼らもまた理解した。

 人に非ざる者。妖に非ざる者。それならば―――残るは。


 糾弾の声は瞬く間に祝福の声へと変わる。

 鏡子ちゃんはその光景に目を細めていた。何も語らず、ただ静かに壁を隔てていた。彼女がどのようにして安倍鏡子になったのか、その一端を垣間見た気がした。強い光だけを彼女に見出していたけれど……――いや、邪推は止そう。私は、安倍鏡子がこうであると語ることが出来る程、彼女と時を重ねていなかった。その事実が、痛かった。


「十二神将は、……出て来てくれないか。彼らにも、お礼と謝罪をします。鏡子ちゃんを危険な目に遭わせて……ごめんなさい。それと、沢山守ってくれて本当にありがとうございました」


 頭を下げる。鏡子ちゃんは口を閉ざしたままだった。それでいいと思う。彼女を傷つけてでも、私はお別れを言わなくちゃ駄目なんだから。死ねないとわかっていても、死にたいの。禊として、心の問題として、私は眠りたい。

 この丘で、湊と実花と共に眠る。


「……十二神将達は、嗚呼、玄武は……終わりよければ全てよし、と言っております」


 顔を上げた。風に揺れる景色の中で、鏡子ちゃんだけが止まって見えた。一人だけが独立した存在であるかの様に、私を同じ目線で見ている。

 玄武、とはあの少年のことか。久しく会っていない感傷の中でも、不思議と笑みが零れた。


「だからこそ―――上山さんは、生きなければなりません。終わりに最善であったと、笑うために」


「鏡子ちゃん……‼」


 噴き出る想いを拳で握り留めても、私の瞳は心を映す。動じない鏡子ちゃんに、足が一歩前に歩み出る。


「たとえ……」


 その時、動く景色の中で一つだけ動かなかった彼女が、その瞳が、確かに動いた。


「例え、全世界の人々が上山さんを死んだと思い、上山さんをエリーシアと呼んでも……鏡子だけは!鏡子だけは、絶対に上山さんと呼ばせて頂きます!!上山さんが拒んでも、鏡子のこの目の前にいる人間は、上山泉なのだと、愚図で阿呆な貴方にわかるように呼び続けて差し上げる!!」


 氷結を溶かす光は、何であればいい?


「だから……私は死ぬんだよ!!実花と湊と一緒に、眠るの!!ちゃんと役目を果たす、仕事はする!!だから、せめて、せめて上山泉として、死なせてよ!!」


 拒絶を示す吹雪が、氷の層を厚くしても、


「上山泉として最期まで役目を果たしてこそ、貴方は生かされたと言えるのです!!生きてください!どんなに辛くても、苦しくても、生きてください!!貴方の魂が受けた名で、貴方の身体を表す名で!!」


 息が、悲鳴のような、音を生んだ。


 ……探しても、探しても、見つからない。手から、指先から、ふとした弾みで落としたもの。透明で、キラキラしている、綺麗な落としもの。向こうの景色を映すほど綺麗だから、落としてしまえばもう終わり。そんな予感をひしひしと感じて、眉を顰めて屈んで見た。目を凝らして落としたと思われる所をずっと見ていた。


 見つからない。


 無いものを見つけることは出来ない。焦燥感が肩に伝わって、胸が苦しい。見つけられない自分の愚かさに腹が立って駄々を捏ねても、他の人は困惑した顔を浮かべるだけだ。


 ―――貴方が落としたのだ。よく、思い出して。それでも見つからないのなら、それは……。


「上山泉として、もう、私は表舞台には立たない!!けど、けど生きている!そのことが、どうしても辛いの!!生きていると、失ったものが嫌に目についてしまう。だけど、失ったものは、もうこの手には戻らないから……痛い、痛いよ!!心(ここ)が、どうしても痛いの!私は、上山泉(わたし)じゃ……この痛みには耐えられない!だから、想いだけでも湊と実花と一緒に逝きたい。傍で、安らかにと願われた眠りに就きたい……。―――否定しなくてもいいじゃない!そうなんだ、って思ってくれるだけでいいの!否定も、まして肯定なんて望んじゃいない!!」


「それでも」


 はっきりとした声。それに付随する、くっきりとした言葉。形となって入り込む。


「それでも、上山さんは生きていくのでしょう」


「……――いくら鏡子ちゃんでも、そろそろ許容できない。私はエリーシアだ。何人もわたしに否を唱えることは許されない」


「……ふふっ、ふふふふ。へえ、何人も……ですか?」


 青い炎を揺らした私の目の前で、鏡子ちゃんは右手の袖を捲る。高く掲げ、陽に翳す表情の艶やかさの理由は、何?


「大体のことは、呑み込めたつもりです。エリーシアが神々を統べる王であること。上山さんが、その半身であること。……それが、何です?だから上山さんがエリーシア、と?うふふっ、それはそれはあまりにも詭弁というものですわ。鏡子が鏡子以外の何者でもないように、上山さんは上山さん自身以外の何者でもありはしない!!」


 突然、視界左下から赤い光が湧いた。驚いて其方を追いかけると、左手首の袖から光が漏れている。また同じように、鏡子ちゃんが掲げた右手首に……鎖のような、赤い、螺旋が。

 咄嗟に左手首の袖を捲った。同じような赤い螺旋が、私の左手首に刻まれている。驚きをもって鏡子ちゃんを見ると、彼女はただ悠然と笑うだけ。


「神に鎖は繋げることは出来ましょう。しかし、天に鎖を掛けることは出来ない。では、これは?これは、何でしょうか?……わからないのなら、身をもって教えて差し上げましょう――――我が十二天に加わりし者よ、誓約を示せ」


「……あ……え……?」


 身体が、勝手に、動く。

 敵意に近い眼差しを湛えた瞳が、彼女を捉えられなくなり。対峙した二つの足が、膝を曲げ、地に落ちる。両の手が、目の先に添えられて、地面が―――――。


「それで結構」


 解放された。頭を下げたくなかった。心の声が、頭痛となって響いている。

 脂汗の浮かぶ額をそのままに、鏡子ちゃんを見上げた。


「な、何を……」


「上山さんは、鏡子と契約をしているんですよ。嗚呼、知りませんでしたか?」


 ぽかん、と口を開けた。にっこりと、微笑んでいる、彼女。

 左手首を見た。右手首を此方に差し出した。

 対と成る、鎖の―――――。


「は、はあああああああああ!?!?な、な、なにして、え!?!?わ、私、言うなれば最高神だよ!?!?自分で言うのなんかアレだけど、最高神だよ!?!?!?なにしてんの!?!?」


「まっさかー、いくら安倍晴明の生まれ変わりであると噂される鏡子でも、最高神とは契れませんわー」


「いやいやいやいやいや!!見てよ!!この目!!紅いじゃん!!これ、証なんだって!‼!」


「ふむ、……その瞳が最高神であるとの証明?」


 なんて可愛く首を傾げているんだこの、このとんでも娘は!!


「そう!!です!!」


「じゃあ、これが貴方が上山泉であるとの証明ですわ」


 そして、にっこりと己の右手首を指した。


「最高神とは契れませんが、貴方と鏡子は主従の理。……上山さん。ねえ、上山さん。『それでは自分はエリーシアでも無いのか』とは、思わないで下さい。前提に、自分を見失っては……折角、ここまで美しく護られてきたのに……」


 微笑んだ彼女が、私に近づいた。私の高さに合わせて、彼女が膝を曲げる。顔を上げるしか出来ない私の頬を、暖かい掌が包み込んだ。


「証拠なら、ここに。在処なら、ここに。上山泉の魂は、安倍鏡子が確かにここに繋ぎ止めました。だから――貴方は、契約の下、死ねません。契約の下、鏡子から離れられません。……ご理解、頂けまして?」


 氷結を溶かす光は、こ、れ?

 拒絶を示す吹雪が、氷の層を厚くしても、閉ざせない熱源がそこに漂うならば。


「辛いでしょう、苦しいでしょう―――ねえ、鏡子には分けて下さいませんの?鏡子は、上山さんのこと……友達だと、思っているのに。上山さんが語る世界に、鏡子はいませんね」


 目を、開いた。

 揺れる黒曜石が、艶やかな湿り気を帯びている。


「これからは……鏡子を、そちら側へ入れてくださいませんか。安倍鏡子として、そして、陰陽師家の当主として。鏡子ならば、どちらにも立っていけます。上山さんが辿るこれからの道を、共に歩めます。だから、生きましょう。生の苦しみを、生の痛みを、共に人間らしく汚らしく受けて生きて生き抜いていきましょう。……上山さん、これからは鏡子がその命尽きるまで、傍に居ます」


 瞳の中で凍り付いた心が、溶けていく。

 陶器の心に流す水源が無く、氷結した心を溶かす熱源は無い――――はずだったのに。あまりにも眩い、光が。あまりにも暖かな、光が、私の返事無く包むものだから。

 ああ、ああ……―――。


 嗚咽が、涙が、止まらない。


 形をくれた。目に見えるものとして。感じられるものとして、私に理由をくれた。優しい、優しいあなた……。鏡子ちゃんの前でだけ、生きているのも良いのかもしれない、な……。


「さあ、上山さん」


「……うん」


 涙を拭い取った手が、空を指す。黄昏が、痛いほど目に焼き付いていた赤が、青に溶けあって、――引いていく。これは、夜になるのではなく朝を迎える色合いだと直感した。

 私は指差す手を包んで、鏡子ちゃんを見た。少し驚いた瞳と瞳を交じり合わせた。


「鏡子ちゃんは、私より先に居なくならない?」


「ええ、確実に」


「鏡子ちゃんは、……私を優先しない?」


「ええ。この世で最も優先されるべきは、鏡子ですもの。さあ、――上山さん」


 首を振った。頬を濡らすまま、私は声をあげる。


「ねえ、そろそろ泉って、呼んでくれない?」


「……まあ。でしたら泉も、ちゃん付けをやめてくださいね」


「―――うん!」


 久しぶりに、思い切り笑った様に思う。止まらない心の雪解けが、嬉しくて、嬉しくて。


 ――ごめんね。まだ、そちらには行けないみたい。本当は今すぐにでも行くつもりだったんだけど、もう少しだけ……この世界で、頑張ってみようって思うの。二人が命を賭して繋げてくれた私を、少しでも長く生きてみる。生きて、生きて、生き抜いて……やるべきことを全てこなして、もういいよって、この身体でやるべきことが終わった時に、傍に行きます。どんなんだろ。実花と湊は、輪廻の輪に乗るのかな。それとももう、乗った後?それならそれで、いいんだよ。私が守る世界で、次こそ幸せに生きて欲しいから。その為に私は、頑張るんだし。でも、もし、もし二人が……私を待っててくれるなら。ここで、待っていてほしい。ここから私の行き様を、見ていてほしい。二人が望んだものとは、恐らく違うね。怒るかな、……怒るだろうなあ。でも、でも、また会えたら、嗚呼、うん。どちらでもいいな。私、必ずここに帰ってくるから。また会えたら、これまでのこと……沢山、話そうね。

 だから、それまで、もし、もしだよ?もし、冥府にいるという王様が許してくれるなら、ここで待っていて。



 この、薄明の丘で!



挿絵(By みてみん)

次のページは、あとがきとお知らせです。

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