異 夢の終わり
「実花!どうしたの?帰らなかったの?」
私は思わず腰を上げて実花へ一歩、近づいた。
影を落とす実花は僅かに顔をあげるけれど、その笑みを崩すことなく微笑んでいる。
「……実花?」
冷たい風が通り抜けた。
実花は佇んでいる。
私は実花が持つ不釣り合いな空気に僅かながら慄いてしまった。無意識に鏡子ちゃんを見ると、口を張った糸のように閉じたまま私を見つめ返す。
「……――ずっと」
静寂を破る鈴の音は、歪な和音を含んで放たれた。
首が落ちそうなノイズが走る中、実花はずっと微笑んでいる。
「此処にいないの?」
ノイズが指先に触れた。――痛みを感じた。
「進まないけど、戻りもしない。ずっとずっと、泉の幸せだけを私達も願ってる。この手を握る温度も、ここでは感じられるよ。……人間、なぜここに居る?」
ノイズが、腕に触れる。
鏡子ちゃんに向けられた敵意を持つ視線。鏡子ちゃんは臆せずに口を開く。
「大切なものを、取り戻しに参りました」
実花は微笑んでいる。風を髪に含ませて、微笑んでいる。
「二本の足で進むこと、失う温度に触れること、膜を破って光を見ること、全部、――全部全部痛みを伴う行為ということは鏡子もわかっております。……全て、鏡子は経験していることですから。上山さんがそれを嫌というのなら、鏡子が変わって差し上げたい。上山さんが嘆いて日々を呪う未来しかその光に残っていないなら、鏡子がそれを遮って差し上げたい。―――でも、鏡子、知っていましてよ」
「……」
「――――上山さんは、其れを望んでいないということを。目を塞ぎましたわね。耳を塞ぎましたわね。心を、怪異達が抱いていますね?微睡む人間の耳元で悦い言葉だけを吐いて、本人の思考が及ばない境界線でその身体を操っている……なんて下劣で、悪辣なのでしょう」
「……お前達だって、下劣で、悪辣だよ」
ノイズが、喉に触れて――――風景に、触れた。
歪みだす黄昏の公園。歪みだす、微笑の実花。
「私達が折角水底に沈めたモノに手を伸ばして、箱に詰めたよね。私達が抱いているのはその揺り籠……どうしても、泉の核に触れられない。剣……竜……欠片であった脆弱なる者のくせに、最後の最後まで邪魔をしてくれた」
「ええ。鏡子は彼らに頼まれたのですわ。だから、必ずや浮上致します」
「……あの世界で、起こしてしまうのは可哀想だよ。この世界は泉の為のものだ。この世界で永遠に暮らしている方だけでも、幸せになれるんだよ」
「だから世界を壊しても構わない、と?上山さんは二人いない、どちらかが幸せでどちらかが不幸だなんて絶対にありえない。幸せと不幸せ、――目にできるのは一つだけです」
「……違うなぁ、鏡子ちゃん。鏡子ちゃんは……あちらの泉も、見捨てられないんでしょう」
「……」
「ふふっ、ふふふふ……。ごめんね、泉。何のお話してるか泉の方がわからなくなっちゃったね。……どうせあたしはもう抵抗できないし、どうせ鏡子ちゃんには竜と剣の加護が付いてるし、どうにも出来ないや。でも、最後に選んでほしいの。その気があるなら、姉さまに意志を必ず伝えてあげる。さあ……選んで?泉。――アナタは、どちらの手を取るの?」
ノイズが、思考に触れた。
歪んだ実花を見て、光を持つ鏡子ちゃんを見た。鏡子ちゃんは眉を下げるけれど、私は首を振る。
「実花の……その手にあるものは、何?」
「……泉の記憶だよ。要らないモノだったから、預かっていたの」
私は一歩前に進み出た。
「上山さん‼」
「私の……世界は、この世界なんだ……鏡子ちゃん」
「っ……!」
歪む彼女の表情は、もはや読み取れない。
近づけば近づくほどに酷くなるモザイクは、まるで理解してはいけないものを隠しているよう。こんなに至近距離で見つめても、もはやこれが誰であるか――客観的には誰も判別できないだろう。
「この世界が私の世界だから、私は世界を続けなければならない。世界を護らなくちゃいけない。あの安倍家の当主様になる鏡子ちゃんなら、……私が言った意味、わかるよね?」
振り返ってみると、鏡子ちゃんは酷い顔をしていた。思わず吹き出しそうになるほどに、情けない顔をしている。次期当主がそんな顔していいんだろうか……と少し心配してしまった。
大丈夫。何も恐れなくていい。私は鏡子ちゃんを傷つけるつもりはないのだから。
「……教えて」
歪む女の手を取った。私に呼応して私に溶ける光は、絶叫を体中に響かせる。
唇を噛んで、耐えた。目を見張って、痙攣を耐えた。足を踏ん張って、地に立つ。
全部、全部、耐え抜いて!!
「私の実花を騙る、あなたは誰」
「――……大罪が一人、『嫉妬』と申します」
「……そう。ごくろうさま、……もう聞こえてないだろうけど」
後ろで鏡子ちゃんの悲鳴が上がる。
私が手を掴んだ直後、嫉妬は体中から血を噴き出して笑っていた。記憶が私に流れている途中に取れた酷いモザイクが、私に有様をそのまま伝えて来たけれどこの心は揺れ動かない。この瞳はずっとこの女を見ていた。女は笑って、血を流して、笑って――――倒れてしまった。
倒れてしまってから、世界を濁らせるノイズが止んだ様に思う。
私の隣で子犬の様に怒っている鏡子ちゃんを見ながら世界を見渡しても、どうやら嫉妬の死が元の世界に戻るための条件になっていないように思われた。
「あ、あ、ありえません!!有り得ませんわ!!上山さんのくせに、ただの雑魚のくせに、この鏡子を謀りましたわね‼‼!」
「ごめ、ごめんって鏡子ちゃん……‼あのね、なんかノイズ?が走ってから実花が実花じゃないってちゃんと気づいてたの!だからてっきり、鏡子ちゃんはわかってて付き合ってくれてるのかと……」
「ノイズ!?意味の分からない言葉を使っても許しませんわ!!もう、鏡子がどんな思いで危険を冒して上山さんの中に潜ったとお思いですか!?もう少し謝罪の意を込めても罰は当たりませんよ!!」
「ご、ごめんなさいーー‼」
頬を紅潮させながら鏡子ちゃんが怒るので、なだめるのに時間が掛った!!
ど、どうしてそんなに怒るんだろう。私があっち側に行くわけないじゃん……。それを知ってるから、鏡子ちゃんは私を起こそうとしてくれたんだよね?
「それにしても……一向に元の世界に戻る気配がないよ。ノイズも走ったままだし、何だか気持ち悪いな」
「ノイズ……?……あ、―――――……上山さん」
少しの間が空いた。鏡子ちゃんは静かに耳を傾けるように頷くと、真剣な面持ちで私に告げる。
「……先程別れた……佐倉湊が怪しいと、思いますわ」
「……うん、そうだね」
実花が倒れいく様を見ている時もそうだったけれど、私は案外落ち着ているらしい。らしい……って自分で言うには随分と他人行儀に感じるけれど、本当にさ、笑っちゃうくらい落ち着いているんだ。泣き腫らした後の様に、喚き散らして体力を失った後の様に。胸の内がすっきりとしていて、仮にこの手に剣を持っていたとしたら迷うことなく正解を選び過ちを切り捨てられる、という確信がある。それがどんなに手放したくないものであったとしても、正解を選び取れる自信がある。
長い夢から醒めたんだろう、私は。
やっと……やっと、私は目を開ける。随分と長くかかってしまった。随分と、迷惑を……かけてしまった。
背後が赤く染まっていることは知っている。敷いた絨毯の道が、酸素に触れて黒くなっていることも知っている。だからこそ、振り返ることはあっても触れることは無いだろう。もう必要のない……もう私には、要らない。
「走ろう!鏡子ちゃん!時間が多分無いと思うから!!」
「あっ――良いのですか!?少しくらい、落ち着く時間を作っても鏡子くらいしか文句は言いません!!」
「あははっ、いいんだよ!!……――優先すべきことを、優先しよう!」
耳に木霊する、私の悲鳴。心に落ちてくる、黒い雨。
飲み込まれそうな程に深い怨嗟の声は、泥沼の様に足を絡めとっていく。
嗚呼―――瞼に触れるマリンスノウが、泣いている。
私の目覚めを、待っている。
お、恐ろしいぜ!前回更新日から気づいたら一週間が過ぎようとしていた……時の流れが怖いぜ!そんなかんやで異が完全にシリアスに移行しました。つらたん……。




