永遠
聞こえたくない水音。
其れは、私がそこにいる証拠。嗚呼――――私に降り積もる黒いマリンスノウ……私の瞼に、触れないで。
「―――――ッ!‼!!」
突然後ろへと私は傲慢の手に抱えられ退けられた。飛び上る様にして、まるで逃げを表す速度と反射は今まで私がいた位置へ視線を誘導させる。
何かが現れたのだ。明らかな、膨大な熱量を伴って誰かがそこにやってきた。
一人!?いいや、―――違う!!
「ふふっ……ふふふふ!!」
それが誰かを認識したとき、私は自然と笑っていた。飛び去る宙の中で、危険域から安全圏へと逃げる最中で。……私は、あの叫びを思い出して笑ってしまった。
「これじゃまるで……私達が、悪者だね」
「ええ……」
エリーシアの前に立ち塞がる二人の男。
一人は藍色の髪を。
一人は白銀の髪を、揺らしていた。
傲慢の手から離れて、私はドレスの埃を払う。偽物でも、王を纏う自分の背を曲げる訳にはいかない。まして、この二人の前では私は―――――。
息を吸う。一つの覚悟の証として。
「ようこそ、善なる神たち!!悪なる人間の根城へと、のこのこ殺されに来てくれて嬉しい限りです」
ドレスの端を摘まんで、頭を僅かに下げた。
「王の盾であるスワード、王の剣であるシリウス……そして、死した女王であるエリーシア。――ようこそ、ようこそ!私の世界を蹂躙した、この世の神様達……‼」
頭を上げて、神話の再現を睨んだ。その間に、私の陰へ憤怒が帰還する。
私は手に握る縁を強く握りしめて、悟られない様口角をあげていた。……私はエリーシアが繋げた大罪の手綱を握っているんだよ。この手はいつでも、杭を抜ける。
「シリウス……スワード……どうして……!?」
瞳を過去の様に漲らせた者達に圧倒されたりなど、しない。
「――大罪は、僕にお任せください」
添えられた手を取り上げられても、この心はもう悲しんだりしない。
「……」
射抜く紅の瞳に、もう怯んだりしない。
むしろ、心が躍り出しそうだ!‼‼!うふ、ふふふ、そう、そうだよ。ここはね、ダンスホールなの。罪と罪が躍る大広間。どうぞ十二分に楽しんで欲しい。
そうして私に黒い部分を頂戴。
美味しく食べられるよ。きっと、どんな美食より脂がのっているもん。嗚呼、食べたい。早く、食べたい。食べたい、食べたい、食べたい…………‼
「……暴食が弱っております。あの子の為に、――調理を致しませんこと?」
「調理?」
傲慢の赤い唇が弧を描く。女狐にも似た笑みに、私はわくわくを隠しきれない。
傲慢の目線には三人の神様達。そして、その目は私の手を見た。
……そういうこと?……そういうことかあ。
「――いい考えだね。面白そう」
散々弄ばれたのだ。模範解答を見せてもらっても、いいでしょ?
この手であなた達の真実をこの空間に映させてもらう。きっとその絶望は、世界をこれに至らしめた欲望は、きっと暴食の餌となる。
嗚呼、そうか。人形である私が今この瞬間、こんなにお腹が空いているのはそういうことだったのか。それならば、早く調理してあげないといけないな。私の目的を果たす為の大罪に、もう犠牲は出せないから。
「ねえ、エリーシア」
「……」
私は笑顔で話しかける。彼女は緊張の面持ちを拭いきれない。
「あなたの意向には沿えないけれど、どうせなら楽しい事をしよう。悲しいだけの世界は、あなたも嫌だよね」
「……お前にとって、愉しいことをしたいのね」
口角があがる。醜悪な私が、口を大きく歪めている。
「勿論。私は悪だからね――――シリウス。無駄だよ。実花の身体を捨てるなんて、なんて愚かなことをしたのかな。どちらが愚者かわからないんだけど」
動こうとしたシリウスを言葉で制した。皇帝たる陰湿さを携えてもはや死がこの場の誰よりも近い身体で私に剣を向けようなど、笑う気も失せると言うものなんだけれど。
「まあ、いいか。……さあ、遊びましょう」
誘う様に手をエリーシアへ向けると、波のように黒い波動が女神に迫る。余りにも禍々しい負素に慄いた女神は、顔を顰めて一歩退いた。その眼前に立ちはだかる二人の男は、余裕とでも言いたげに負素を退けるが……。
「違うんだよねえ」
私が欲しいのは、エリーシアじゃないよ。ねえ、シリウス―――――。
「シリウス!?」
男の足元から突き上げて絡めとる。実に容易い。虫の息の神様。赤子の手を捻るよりも、お前の首をへし折る方が遥かに簡単なのではないか?
「さあ、見せて!!シリウス、あなたの、真実を!!」
深く深くに潜りこめ。何よりも深く、お前の心の深奥――――その黒に隠れた真実に今唇を這わせよう。さあ、さあ、さ、あ‼
楽しい上映会の始まりだよ。
『シリウス。わたしの愛の証明。……話があるの。心穏やかに聞いて欲しい、話があるの』
『……何でしょう。エリーシア様』
黄昏の丘。紅が蒼を覆い尽くす日暮れの丘に、二人は座っていた。
青金の髪に蒼天の髪。風に揺れても交じり合わずに、二人並んで腰を降ろす丘はただそこに在った。
『……今代のわたしが終わったら、もう……繰り返さないことに、したの』
……僕は、エリーシア様が何を仰ったかわかりたくなかった。言葉の意味はわかるけれど、飲み込みたくなかった。悲しくて、悲しくて、でも、僕が駄々を捏ねたらきっと貴女は困ってしまう。眉を下げて、ごめんなさいって言って、悲しそうに笑って行く。
だから僕は黙っていました。
ただ、口を噤んでいました。
『水が喉を通る時、……痛いわ。空気が肺を抜ける時、……苦しいわ。大地に立とうとする時、……眩暈がするわ。泣いている子達の下へ歩き出す時、……足が震えるの。……記憶だって、もう、曖昧で……』
口を、噤んでいました。
噛み締めて、噛み締めて、血の味を啜って、噛み締めて、ただ貴女が奪われていく様を、見ていました。
『これじゃあ、護れない。世界を、お前達を、あの子達を……守ってあげられない。だから、わたしは空へ行くわ。空へ溶けて、みんなを護り続けることにする』
い、や、だ。
『そうしたらきっと世界は今よりも良くなる!!ねえ、シリウス。わたしの愛の証明。お前にしか頼めないの―――。わたしが座らなくても世界は回るけれど、王がいなければ世界は回らない。シリウス、優しいわたしのシリウス』
聞きたくない聞かせないでその先は聞きたく、
『お前が、次の王へなりなさい。お願いね、シリウス―――』
どうして、そうなるんですか。
どうして、エリーシア様だけが―――――。
「―――――やめろ!‼‼‼‼‼‼‼‼‼!」
「……うっふふふ」
傲慢が悦に浸る声を出す。
エリーシアは、呆然としていた。猛る獣の様に吠え、自ら大罪の幻覚を打ち消したシリウスは負素の檻を破ろうとする勢いで此方を睨みつけている。
嗚呼、でも、収穫は十分だなあ。
―――だって、エリーシアへと繋がる縁が、あの女神の深淵に繋がれた縁が、今確かな強度で張ったから。
「いきましょう、……陛下」
「……うん。そうだ、ね!!」
ずるりと、鎖を引いた。
ぬめりとした感覚は、私とエリーシアが共有するもの。気持ち悪さは例え難く、エリーシアは嗚咽の様な悲鳴を上げて身体を屈折させた。ずるりずるりと引いていく。粘膜の様な音を上げて、それはエリーシアから這い出てくるよ。
「やめ、やめて、やめてぇ!!嫌なの、それは嫌!いやいやいやぁ!!お願い、お願い、うううっえええ、やめ、やめて……っ‼」
「ねえ、話をすればわかってもらえると思った!?一対一で真剣に懇願すれば、事態は丸く収まると思った!?甘い、甘いよあなたは!!――収まらなかったから、私はこうなったんじゃないか!!」
シリウスが檻を破る。その前に大罪をこちらへ呼び起こす。
あと少し、あと少しだ。興奮が渇きに勝る。今か今かと、世界崩落の音を待つ。
笑顔を、待っている。復讐が終わった先で、待つ笑顔を夢想して、這い上がってくる大罪の微笑みを夢想して、私は。
その場に佇んだ。
心が冷えていく。私に立ち塞がる銀が、橙の瞳が私の身体を冷やしていく。
エリーシアを背後に庇って、その男は私を見下ろしている。
「……わかりますか」
スワードは、静かに私に語り掛けた。
「祝福達を、目覚めさせました」
地が揺れている。いや――正確には、聖堂に作り出したこの空間を祝福達が壊している。
「……僕の、罪滅ぼしになるかはわかりません。ですが、逝くなら共に――逝きましょう」
空に穴が開いて、光が差した。その一筋の崩壊を機に、大罪の間は一斉に崩れ去る。
傲慢は悔しさに顔を歪めて私を見るけれど、スワードが近くにいるせいで近寄れないのだろう。
スワードの頬に光が差した。私の瞳に光が差した。
スワードは膝を折って、私の手を握る。
「泉……あなたのあの選択は……何一つ、間違ってはいなかったんですね。……すみませんでした」
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