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異 世界の約束


「今日は……いつもより退屈だったなぁ」


もう二人しか残っていない教室で、その一人である女子高生は、その愛らしい目に影を落としながら呟くように不満を口にした。

鈴の鳴る様な声――と形容したその人は、教室にはいない。


 傾く日が差し込む小金の教室。二人しか居ない、時間が止まったような空気がそこにある。


「部活でもしたらどーですかー」


もう一人である男子高生は、象徴であるはずの朗らかな笑顔を取り外して、椅子に寄りかかりながら言葉を拾い返した。

うるさい!と目を釣り上げて叱るその人は、もちろん教室にはいない。





遠くで生徒の声が聞こえる。野球か、サッカーかテニスか、それとも……。


「疲れた……」


椅子に深く腰掛け、深緑に染まった黒板を力なく見つめるその全てに、彼を――佐倉湊を形作るものは見えない。

外野の声など虫の羽音の様に、彼らの耳にはするりと通り抜けていくだけだ。


 二人しかいないのだから。己を形取る仮面は、今は机の上に置いて良いだろう?


「泉との時間が減るから部活なんてぜっったいしないもん!」


随分間があっての返答だ。そのおかげで、湊は女子高生の――安藤実花の言葉が返事だと気づくのに数秒かかってしまう。それでも彼らは、どこか気軽げな雰囲気を保持し続けていた。



ちょっとそれは重いんじゃねーの、実花。


そう言おうとした口を、欠伸で塞いだ。欠伸ざまにちらりと実花を見ると、彼女は上山泉とのお揃いのストラップを口を尖らせたまま弄っている。


湊は長年の疑問と少しの不愉快さに息を吐いた。


「なあー、実花さん。実花さーん」


「はぁーい、何ですかぁ?湊さん」


「実花さんって、本当に泉のことが大好きでございますよねー」


お互いがお互いの顔を一度も見ずに会話をする。

実花は、湊の口から出た言葉に咄嗟に湊の顔を見た。そして眉を寄せ、こてんと首を傾げてみせる。むむむ?と意図せず口から出てしまう言葉は、実花が湊の真意を測り得ない証拠だった。


「当たり前だよお?……湊くんは違うの?」


「…………まあ、俺も好きだよ。そりゃ、な」


嫌いになろうと思ってなれる相手ではないことは湊が一番よく理解している。生まれた頃からそのために泣き声を上げた湊には、その感情が親愛なのか、友愛なのか、それとも――男女のあれなのか、すでに混ざりすぎたものを定義づけることは不可能に近い。


実花でさえも、泉だけは無条件で手の内に大切に抱く人間なのだと認識していた。それが何故なのか、そこまではたどり着いてはいない。疑問にさえ思わない。思いの原因なんて知らなくていい。心に湧く感情が、全てなのだと思い込んでいるのだ。



湊は常々思っていた。安藤実花は幸せ者なのだ、と。忘却が幸福を招いた最たる例だ。忘れていてくれて、本当に助かった。


「実花はさ、もし……泉に彼氏が出来たらどうするんだよ」


「どうするって?どゆこと?」


丸い声だ。それなのに、実花の顔は困った様な、悲しい様な、そんな表情を作り出す。


「帰りとか、もう実花と一緒には帰れないとか言われたら?」


「それは仕方ないよね、泉がそうしたいなら、仕方ないよね……。ちゃんと駄々こねないで言う事聞けるよ。大丈夫だもん」


「ほんとかよ」


 溜息と共に乾いた声が笑う。湊も、酷な質問をしたものだと自分を嗤った。女である実花に、どうするのか?など――……。


 女である安藤実花は、その前の生で男であって、男である佐倉湊はその前の生で女であった。

 安藤実花は騎士として恋人として上山泉の横に立ち、その対には白い男が立っていた。湊は――その一歩後ろで、侍女として竜として上山泉を見守っていた。不満などその時は感じさえしなかった。その形が理想形で、完全体だったはずなのだ。


 まあ、それは全て不完全であったということだろうか?壊れてしまったのだから、無くしてしまったのだから――。


「湊くんは――……あたしが、泉に……その、なんていうの?男の人が持つような、恋……をしてるように、思うの?」


 湊はぎょ、として手を滑らせた。床に落ちる仕舞い忘れたシャーペンがその答えを高い音で知らせる。


「……」


「あたし、確かにこの学校は泉が行くから選んだよ。泉が部活に入らないっていうから、あたしも入ってないよ……。出来るなら大学だって泉と一緒がいい。……でもね、だからって泉と恋人に……なりたい、とか思ってないよ湊くん。だから、安心して?」


「あ、安心……はは。何を……」


「あたしは女で良かったって心から思ってるんだぁ。だってね、泉ととっても近いの。同性だからわかってあげられること、助けてあげられる事、守ってあげられる事――いっぱいあるんだぁ……」


 湊の目に映る実花がぶれている。影に確かに過去の男(シリウス)が潜んでいるのは明らかなのに、その口が紡ぐ言葉が俄には信じられない。


「流石に今回みたいな病気からは無理みたいだけど」


 実花は艶やかな動作で上山泉が座る席を見た。その席には今日一日誰も座って居ない。上山泉は、今日という日に一度も彼らの前に現れなかった。


 ――この心の隙間はなんだろう。この心を揺さぶる不安感は何だろう。どうしてこんなに怖いのだろう。たかが風邪を引いたくらいで、何でこんなにあたしの心を痛いほど締め上げるのだろう。


 実花は誰にも見せずに心を抱きしめていた。怖いと、恐ろしいと泣いた夜はいくつあっただろう。心を襲う理解不能な焦りは、その正体を明らかにしたことはない。


「……お前、さ。泉に近づく奴に牽制しすぎなんだよ。男なら別に俺も良いと思うんだけどよ……女子生徒までする必要、あんの」


「うん。あるからしてるの。あたし、泉には出来るだけ笑っていて欲しいから……」


 黄昏が照らす実花の笑顔に、湊は生唾を飲んだ。


 湊は知らないのだ。泉に近づく女子を実花が牽制する理由(わけ)を。だからこそ、その実花の笑顔が狂気を孕んだ様に見えてしまう。

 聞こえてしまった、探ってしまった、聞き出すことに成功した――醜い思い達。湊くんの幼馴染だからといい気になった女。特に取り柄もないくせに、贔屓されている女。けれどその女にだって利用価値はあるんじゃない?……そうよ、――架け橋じゃない、あの女は!


 安藤実花は佐倉湊からは死角になった机の下で、掌を握り締めた。思い出した汚い言葉をその手で握りつぶしている。そしてその汚れた手で、頬を摩った。


「きったないなぁ……」


「……同じ女だから……ってやつ?そこはわかるぜ、……ありがとな」


 実花はきょとんとして控えめに微笑(わら)う幼馴染を見た。わかってねぇなぁ、と湊はわざとらしく溜息を吐く。


「約束――守ってくれてるんだろ?」


「うん!あったりまえ!……でもさ、でもー、ちっちゃい頃の湊くんのその約束のせいであたしこんな女の子になっちゃった!剣道してるせいでちょっとムキムキなんだよーっ!」


「いやいやいや人の所為にしなーい!どうせ実花のおばさんとおじさんがやらせてたと思うね俺は。だって実花んち……」


「いやぁあー!言わないで言わないでー!いっつも似合わないって言われるんだもん!道場の娘には見えないって言われるんだもーん!」


 実花は涙目になりながら急いで湊の席へ向かった。湊はそれを面白そうに口角を歪めながら頭を掴み制した。


 ――いやあ、俺も成長したと思うね。エリーシアを殺した男と、ここまでじゃれあえるなんて、な。


 約束。幼い頃実花と湊が交わした約束は、湊から持ち掛けたもの。混在すると過去と現在と記憶が幼い湊を隔離しかけた時期のお互いの縛り。

 不思議と惹かれあった三人は、既に一緒に居た。その三人であるのが当たり前と言いたげな世界の思うまま、それが自然だと思う大人たちの思うまま。屈託ない笑顔で笑う二人を尻目に、一人苦しむ湊を傍目に、世界は――誰かは、その三人を傍に置き続けた。


 泉にとっては疑いようのない幸福の日々。

 実花にとっては心が満たされて仕方ない幼馴染の存在の日々。

 湊にとっては――、



 悪意が傍に居続ける恐怖と戦う日々。



 夢に現れる血塗れの女は、耐えず憎しみと呪いを繰り返す。その中に混ざる後悔がじわじわと幼い湊を蝕んでいく。それらが現実へ沁み込んだ時、湊の目にはっきりと映り込んだ、悪意の、凶器の対象。

 安藤実花。こいつが、いつか、上山泉を殺した。

 シリウスは、エリーシアを殺した。

 安藤実花は、泉を――殺す?



 唇を噛み締め、狂気に耐えた。否定を叫ぶ己と、肯定を叫ぶ女が心に居る。身体は一つであるのに、心が二つあってはどちらが死ぬか、どちらとも死ぬしか選択が無い。ああ、だぶる。ああ、重なる。実花が、実花に見えない――、けれど。


「けどさぁ、湊くん。あたしにばっかりそういうこと聞くけど、あたし的には湊くんの方が泉に恋してるんじゃないのー!?」


 泉を脅かす凶器は、何もこいつだけではない。

 幸いにも記憶はない。それならば、思い出す可能性がない限りこいつの刃は世界に向けることが出来る。


「ひえー、怖い事いうなよ!俺、実花に殺されんのかー!」


 俺が上手くやれるのならば、実花を排除する必要はない。俺が上手くこなせるのならば、実花はこの世界で唯一の泉を守る剣になるだろう。

 それならば――、その手を握り絡め、誓いを立てよう。








"『みか、なにもおぼえていないのか?』


『だからおぼえてないってば!湊くんがなに言ってるか、みか全然わかんない!』


『うそつくな!あんな、あんなこわいこと、なんでおぼえてないんだよ!』


 焦りと恐怖と苛立たしさ、感情に弄ばれる男の子は、女の子の肩を掴んで押した。幼子と言えども、男児と女児ではその力の差は歴然としている。しかし、その男の子はあの実花が――彼だった者が――この程度の力で真後ろに倒れるとは思わなかった。

 だから、その女の子は言ったのに。何もわからない、と。


『いった!……っ』


 女の子の顔が驚きからくしゃりと歪む。瞳に大粒の雫を湛えて、衝動のままその口はへにゃりと歪ませた。

 湊はしまった、と思ったがもう遅い、とも思った。泣いてしまう――その後に自分に降りかかる怒声も安易に想像出来てしまう。

 心に少しだけ諦めが落ちてきた。少しだけ心が冷静さを取り戻してきた。手を引ける、そう思って引こうとした矢先、今にも泣きだしそうな倒れた女の子は、その手を確かな力で握り引き留めたのだ。


『……みか』


『湊くんが!!みかに何をいってるのか、わかんないけど!わかることなら、あるの!それって、ぜんぶぜんぶ、泉に関係あることなんでしょ!?』


 そう、そうさ、そうだ!

 湊の瞳に歓喜の火花が迸り、その手を両の手で握り返した。

 強く、強く握り返される手。女の子は身体の中にある芯が震えたのを感じていた。


『うん!うん!そうだよ、泉をおれたちが守らなくちゃだめなんだ!』


『こわいことって、泉にとってこわいことなの?』


『そうだ!よくわかんないけど、泉をこわいことぜんぶから、おれたちで守るんだ!』


 何かを確信している男の子に、何もわからない女の子は頷いた。

 女の子には、それだけで良かった。この男の子が確信している、それだけでその言葉に頷くには十分すぎたのだから。

 幼い故に溢れる感情は、ただ純粋さだけを両の手に湛えている。


『みかも、まもりたい!泉からずっと守ってもらったから、みかもまもりたい!』


『守れ!みかは泉をぜったいに守れ!』


『まもるよ!みかだってこれからつよくなるもん!』


『ああ!だから――やくそくを、しようぜ』


 実花は起き上がった。

 二人向き合う黄昏の森の中。この景色には二人をおいて、誰もいない。


 幼い二人は向き合った。

 喧嘩した証拠に頬に擦り傷をお互いにつけ合って、砂まみれの服を着て鼻をすすりながら二人は己の小指を絡め合う。


 例えばそれは、幼き想いを約束し合う恋物語のような暖かさを傍からは見出せるだろう。しかし、真実は。

 この二人に、そんな真実は必要ない。


 傍に居ない一人の為に、二人だけの秘密をここに立てよう。


『ぜったいに、泉のそばから離れるな』


『うん』


 一つは、必ず傍にいる事。

 この約束は、進路を定めるもの。


『ぜったいに、つよくなれ!』


『……うん!』


 一つは、護れる強さを手に入れる事。

 この約束は、実花に竹刀を持たせることを決めさせたもの。


『……もし、おれたち二人のどちらかが泉と一緒にいられなくても……』


 これは、お互いを見捨てる覚悟を持たせるもの。

 一人が消えても、目的を失わぬように。その痛みに、彼女を見失わぬように。


『おれか、みかか!どっちかが死んでも、いずみから離れるな!』


『うん!ぜったいに、はなれない!』


 黄昏の中に月が昇っている。地上からは見えず、空からは彼らがよく見えていた。


 幼い二人の、二人だけの黄昏の約束。黄金の光が満たされた森の中、小さな諍いの後の仲直りの小指結びは、絶対的な意味を持ってその指と指を離れることになった。 "







――人は、原罪を抱えて生まれるのだと彼は知っている。


 その通りだと小さく笑いながら、彼は頬杖を付き静かに思い、過去の情景をそっと閉じた。すると実花が、頬を風船のように膨らませながら突進してくるではないか。


「うううう、湊くんも泉から離れちゃだーめー!」


「うるせぇな離れねぇよ!――あ、」


 実花はにんまりと笑うと、湊から離れ手を頬に当てた。そして――、


「ぷぷぷぷぷぷぷぷぷっ!やっぱり湊くんも、あたしと同じくらい泉のこと大好きなんだね!まあ、知ってたよぉ!うふふっ、知ってたよぉーっ!」


 高らかに笑う。

 顔を極限まで赤らめた湊は反抗の声をあげた。そのお陰でようやく、湊は頭の中から異なる自分を追い出せた。力が抜けたように笑う湊と、何も不安はないように頬をゆるめる実花。その穏やかな光景に一人足りない……。


 二人は特にその事に対して何も言わずに、自然と教室を出た。二人の足が向かうのは、言わなくても解かり合う。二人は三人でいるのが普通なのだから、その一人の元へお土産でも買って行こうか。


「ねえ……湊くん。あのね、もし泉が……あたしのこと重いって言ったら教えて?」


「んあー?」


 お土産の果物を袋にぶら下げて、実花が俯き加減で言う。湊はアイスを咥えた儘、落ちていく太陽を細目に返事をした。


「お願い……」


「……ふぁい」


 負担になりたくない。迷惑をかけたくない。でも、何を思われても泉が一番好き。

 でも、それをあからさまに面に出して、嫌われたくはない……。


 実花は、この気持ちは恋ではないとはっきりと断言することはできる。では、何か?それは、それはきっと――。


「愛……とか?――なんちゃって」


 ほろりと、涙が出そう。実花は、自分の思いに気付いている。語ることの出来ない思い。打ち明けることの出来ない思い。普通を基準として掲げることが決められている世の中にとって、自分の思いはイレギュラー。

 それでも好きだった。それでも愛しているの。もっと違う所で、もっと奥の深い所で。



 あたしが、女の子で良かった。

 それは、実花の本当の思いだ。きっと、自分がそう願っている。けど、思わずにはいられない。もし、もし――、と。


 実花は色づき始めた月を見上げた。涙を呑んで、上を向いた。きっとこの愛(おもい)は語れないから、好きを多く語ろう。好きをもっと形にしよう。そうしたら、きっと泉の苦しみもいつか喜びに変わるはずだから。



 二人は今日、道を急ぐ。その影に――異なる影が映るのは当然と言えば、当然なのだ。幾度も幾度も繰り返した同じ光景なのだから。



 姿形は変わっても在り方は変えられなかった。



 人の二人は笑い合う。そして、影の二人も笑い合う。

 まるで――あの日のように。









 心の奥底で、懐かしんでいた風景がある。それを何か思い出すことは出来ない。いつか――いつか出来るのだろうか。心に宿る"あの日"を懐かしんで、微笑むことは出来るのだろうか。


 ――あなたと、いつまでも何度でも。








 男は女へ、女は男へ。

 その結果に、原因は必ずある。

ジブリ、ハウルの動く城から拝借しました。

これで、この章は終わり次から最終章へと突入します。この章は連載に一年以上を掛ける……というなんっったる亀っぷり!私は丑年です!つまり牛歩!仕方ないとしか言えない!


とまあ、明るくしてみましたが泉にとっては今からが正念場です。彼女がどこに辿りつくのか、見届けてくだされば幸いです。

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