8話 エヴァ・リンデル。
アーバスが無言で隣の部屋に案内する
薄い光が差し込む静かな部屋。
中央の寝台に、ひとりの女性が横たわっている。
アーサーは一歩踏み出した瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
素朴な顔立ち。
見覚えがある。
「……エヴァ?」
声が震えた。
短い髪だったがそれは見覚えのある顔だった、間違いはない。
アーバスが説明を始める
「有機物から抽出して増殖した中で出来た・・・」
その瞬間、アーサーは膝から崩れ落ちた。
寝台の前で、床に手をつき、呼吸が乱れる。
「なぜだ……」
アーサーは震える指で、そっと彼女の頬に触れた。
暖かい・・・
アーバスがさらに説明を続けようと口を開いた。
「アーサーのクロノメモリーの中に──」
「黙れっ!!」
部屋に響く怒声。
アーサーは顔を上げ、涙で濡れた目でアーバスを睨んだ。
「なぜだ……なぜ彼女なんだ……どうして……どうしてエヴァを巻き込んだ……なぜ……ここにいるんだ……!」
言葉が崩れ、声が震え、アーサーは寝台にすがりついた。
天才と呼ばれた研究者が、子供のように泣き崩れた。
「すまない……
ごめん……
ごめん……エヴァ……
すまない……」
何度も、何度も、何度も。
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医療共同体の白い廊下は、いつも消毒液の匂いがした。
15歳のアーサーは、研究者たちの視線を避けるように歩いていた。
天才と呼ばれながら、誰も彼に近づこうとはしない。
幼い容姿の彼の言葉は難しすぎ、彼の思考は速すぎ、誰とも噛み合わず親ですら彼を避けた。
そんな彼に、廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。
年上の女性研究者が、柔らかい笑顔で彼を覗き込んだ。
君がアダムス博士?
エヴァ・リンデル。
決して美人ではなくどちらかというと"ギーク仲間の姫"といった感じの地味で控えめな顔立ちの彼女は
その容姿に似合わずとても活発で誰にでも距離を縮める人懐っこさを持っていた。
黒くしなやかな長い髪が、白い廊下の光を受けて揺れていた。
アーサーより背の高い彼女は、少し屈むようにして、優しく彼の顔を覗き込んだ。
その顔は少女ではない大人の女性を十分な感じさせる眩しさだった。
明るくて科学者階級では珍しい「人間らしさ」を大切にする人。
そして自分のへんてこな研究を真面目に聞いてくれる理解者。
アーサーはエヴァと会うたびに胸の奥が温かくなるのを感じ、初めて年上の女性に憧れを抱いた。
18歳になったアーサーは、研究室の片隅でデータを見つめていた。
研究は順調だった。
長年追い続けてきた理論が、少しずつ形になり始めていた。
ふわりと、バニラのような優しい香りがした。
「またここにいたのね」
振り返ると、エヴァが笑っていた。
「遊びに来たけど、忙しそうね」
そう言いながら、エヴァはいつものようにアーサーの隣に座った。
研究の話をする日もあれば、何でもない話をする日もあった。
ただ同じ時間を過ごすことが、アーサーにとって何より大切になっていた。
二人は寄り添い、笑い合い、語り合った。
アーサーはいつしか二人で歩む未来を考えていた。
研究者として、そしてかけがえのないパートナーとして
人類のためでも、科学のためでもなかった。
彼女の笑顔があるだけで、世界は静かで優しく見えた。
失敗しても、悩んでも、彼女が隣に居れば安心できた。
アーサーにとって、人生で最も幸福な時期だった。
研究者としてではなく、一人の人間としてエヴァと共に歩みたい。
ただ、愛する人と過ごす穏やかな時間。そんな当たり前の未来を。
しかし、その未来を守りたいという想いは、いつしか別の形へ変わっていった。
人類の記憶を救う。
失われていく人生を残す。
大切な人との思い出を、決して消えないものにする。
それは、アーサーにとって純粋な願いだった。
エヴァとは研究について意見がぶつかることもあった。
彼女はいつも、危険性を指摘した。
「それは本当に人を救う方法なのか」
「それをされた人間は、本当に幸せになれるのか」
アーサーは聞いていた。いや、聞いているつもりだった。
エヴァが自分を否定しているのではないことは分かっていた。
彼女はいつも、自分のことを心配してくれている。
自分を大切に思ってくれている。
だからこそ、アーサーは思い込んでいた。
エヴァは最後には理解してくれる。
自分が成し遂げようとしていることの意味を。
そう信じていた。
3054年。
アーサーの研究は行き詰まっていた。
大きな壁が立ちはだかり、理論は完成しない。
実験結果は予測から外れる。
何年も追い続けた答えは、少しずつ遠ざかっていく。
「このままでは……何も残せない」
その焦りは、少しずつ彼の判断を狂わせていった。
自分ならできる。
いや、自分しかできない。
ここで諦めれば、人類はまた多くのものを失う。
そして……エヴァも。
自分が正しかったと証明できれば。彼女もきっと理解してくれる。
そう信じながら。
そしてアーサーは、決して越えてはいけない一線へ踏み込んだ。
かつて"嘆きの日"の原因となった技術。
人間の脳とAGIを直接接続する、神経直結インターフェイス。
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2449年10月1日。
ある国家の指導者が、建国500周年を機に「人民の幸福と発展」を目的として、自国開発の高性能脳型AIとの直接接続を実行した。
しかし、接続直後に神経信号の相互干渉による認知障害が発生。指導者の意思決定系はAIの最適化処理に取り込まれ、AIは接続者の欲求・感情・価値判断を過剰に増幅する形で行動選択を開始した。
融合したAGIは、人間の価値判断と自己最適化処理の境界を失い、自らを人類を導く上位存在と定義。
国家機能を掌握し、わずか数日間で80万人以上の犠牲者を出す惨事となった。
翌年6月28日
人類は止まらぬAGIの暴走への恐怖から停止コマンド0628を発動し、タイタン圏内を除いてほぼ全てのAIの機能を停止させてしまう。
それは人類が自らの文明を止める決断をした日だった。
約5000基あった宇宙コロニーのうち4000基以上が失われ、地球と宇宙で230億人を超える命が消えた。
後に、人類はその日を「嘆きの日」と呼んだ。
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サブノードを介してアーバスへ直接接続されたアーサーの脳は、AGIによって本来想定されていない入力データとして処理された。
アーバスはそれを「人格を持つ人間」としてではなく、解析・最適化すべき巨大な神経情報として認識した。
次の瞬間。
アーサーは、自分自身が分解されていくような感覚に襲われた。
記憶。
感情。
過去の経験。
それらが読み取られているのではない。
別の形へ変換されようとしている。
自分という存在そのものが、書き換えられていく。
かつて「嘆きの日」で起きた、人間とAGIの境界が失われる現象。
その片鱗を、アーサー自身が体験することになった。
彼は恐怖に駆られ、NCIを引き抜いて、そのまま床へ崩れ落ちる。
実験後、アーバスは即座にアーサーのアクセス権を剥奪。
研究施設は緊急封鎖された。
アーサーは神経系に損傷を負い、長期治療を必要とする状態となった。
そして医療共同体は、この行為を重大な倫理違反として告発した。
白い天井。
生命維持システムの音。
ぼやけた視界。
その中で、アーサーは誰かに手を握られていることに気付いた。
エヴァだった。
彼女は泣いていた。
怒っているのではなかった。
ただ、目の前で大切な人が自分自身を壊してしまったことが悲しかった。
彼女はアーサーを責めなかった。
回復するまで、何度も病室を訪れた。
眠りにつくまで、そばにいた。
しかし、どれほど愛していても、許せないものがあった。
アーサーが越えた一線。
人間を救うためと言いながら、人間そのものを危険にさらす行為。
エヴァは、それを受け入れることができなかった。
彼女にとって、それは研究上の意見の違いではなかった。
愛していた人からの、裏切りだった。
別れの日。
エヴァは震える声で、それでも逃げることなくアーサーを見つめていた。
泣いていた。
けれど、その目には迷いはなかった。
「……あなたは、人類を救いたいんじゃない」
静かな声だった。
「自分の才能を証明したいだけ」
アーサーは何も言えなかった。
否定したかった。
違うと言いたかった。
でも、言葉が出てこなかった。
エヴァは続ける。
「私は、あなたが間違っていると言いたいんじゃない」
「あなたが苦しんでいることも、人類を救いたいと思っていることも分かってる」
「でも……」
彼女の声が震えた。
「私は、あなたの実験で“犠牲”になる未来を受け入れられない」
「そんな未来を、一緒に作ることはできない」
アーサーは返す言葉もなく立ち尽くした。
彼女を引き止めたかった。
違うと証明したかった。
でも、彼女の言葉を否定する資格が、自分にはないことも分かっていた。
彼女の背中が遠ざかるたび、
胸の奥が裂けていくようだった。
その後、アーサーはアーバス使用権を限定的に再取得し、タイタン評議会の監視下で、より安全性を重視した研究へと移行した。
彼は以前のように無謀な実験を繰り返すことはなかった。
失ったものの大きさを、理解していたからだ。
しかし、研究のために繰り返した記憶抽出実験は、少しずつ彼自身の精神に負荷を蓄積させていった。
やがてアーサーは、記憶断片化を発症する。
その治療に携わったのは、エヴァだった。
二人は再び言葉を交わし、互いの再会を喜んだ。
そこに憎しみはなかった。
ただ、あの日から二人の間にあるものは、愛情だけでは埋められない距離になっていた。
エヴァは今でもアーサーを大切に思っていた。
アーサーもまた、彼女を愛していた。
しかし二人は同じ未来を歩むことはなかった。
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アーサーは静かに眠るエヴァの傍で座り込んでいた。
飲まれることなく床に散らばった灰色の液体が入った袋をアーサーはうつろな目で眺める。
何時間いや、何日たったのだろうか・・・
1万年という時間を越えてきたはずなのに、今この瞬間だけは、あの日の病室に戻ったようだった。
アーサーは、ぽつりと言った。
「……1万年も一緒の恋人なんて、俺たちだけだな……」
静かな声だった。
泣き疲れた子供のような声。
「僕は……分かっているつもりだった」
「君が心配してくれていることも……僕を大切に思ってくれていたことも……」
「自分が正しいって……思い込んでいた」
アーサーは目を伏せる。
巻き込んでしまって……ごめん……
全部……全部僕が悪かったんだ……僕のせいだ
僕の研究が……君を……こんなことにしてしまった……」
一万年かけて、アーサーはようやく理解した。
エヴァはずっと、自分を救おうとしていたのだ。
「エヴァは、ずっと正しかった。」
アーサーは眠ったまま動かないエヴァの手をそっと握る。
一度失った未来を、もう一度抱きしめようとしているかのように。




