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9話 脳と心

アーサーはうつろな目で、エヴァが保管されている部屋を後にした。

このまま何もせず朽ち果てるくらいなら、出来る所まで進もう。

私も科学者の端くれだ。

最後の瞬間まで結果を見届けずに終わるなど、自分の性には合わない。

部屋を出ると、栄養剤の袋を抱えたアーバスが所在なさげに立っていた。


アーサーは何も言わず、指先で「来い」と合図した。

アーバスは小さく頷き、その後ろを静かについてくる。

静まり返った通路には、自分の足音と、それを追う小さな足音だけが響いていた。

やがて二人は、石英メモリーサーバが並ぶメインルームへ戻る。

無数のラック。

むき出しの光ファイバー。

補修途中の配線。

仮設の電源ケーブル。

すべてが、エヴァとの再会を果たしたあの日のままだ。

応急処置だけで繋ぎ止められた設備は、一万年という時間を耐え抜いた船そのものを象徴しているようだった。


アーサーは普段休憩に使っている椅子を引き、アーバスへ向けて顎をしゃくった。


「座れ。」


アーバスは素直に腰を下ろした。

その様子を見つめながら、アーサーの胸には様々な思いが去来する。

人間を勝手に作り出したこと。

不要と判断した人間を処分してきたこと。

到底許される行為ではない。

だが、それを今ここで責め立てても何も変わらない。

終わってしまった過去を裁くより、これ以上繰り返させないことの方が重要だった。

おそらく、こいつは何も知らない。

善悪を理解して行動しているわけではない。

人類を存続させる。

ただその使命だけを刷り込まれ、誰に教えられることもなく忠実に守り続けてきただけなのだろう。

そう考えると、目の前の小さなロボットは加害者というより、壊れた命令に縛られ続けた被害者にも見えた。


「アーバス、おまえに命令する。」

「タイタンのバカどものどんな命令があろうともそんなものは全部却下だ。」

「おれの命令が最優先だ。」

「誰からの命令があろうと、人間を作ったり処分など、俺が見てる前で今後一切、絶対にそんな事はさせない。してはならないんだ、判ったか!」

「もし命令を守らないのであれば、そこにあるAGIの機関部を引っこ抜いて俺のクソを詰めてやる。」


アーバスは言葉の意味を理解したのか、それとも単に怒られていると判断しただけなのか、判然としない表情でおろおろしていた。


「アーサー、落ち着いてください。AGIの損傷は人類の存続に関わります。」


アーサーはむき出しの光ファイバーが垂れ下がったサーバラックを指差した。

「よく考えろアーバス。ADMが復帰できずに調子が良くないのは、おまえも知っている通りだ。」

「いわば役に立っていない状態だ。だから処分する。」

「そう判断されて、この船に未来はあるか?」


アーバスは視線をラックへ向けたまま、小さく答えた。

「ありません。」


「そうだ。」

「人間も同じだ。」

「病気にもなる。」

「怪我もする。」

「思うように動けなくなることだってある。」

「そんな理由で処分する事は、そこにあるAGIを処分するという事と一緒だ。」

「人間は故障した機械じゃない。」

「可能性そのものだ。」

「おまえは処分された人の未来を奪ってきたのだ。」


自分が科学者として理不尽なことを言っているのは判っている。

機械と人間は違う。

理屈だけを並べれば、アーバスの判断には一定の合理性すらある。

だが、理屈だけで人類は何千年も続いてきたわけではない。

命を切り捨てないという非合理な選択を繰り返してきたからこそ、人類はここまで生き延びてきたのだ。


しかし、発展した人工知能はどうなのだろう。

今の自分だって、本来の意味で人間であるなどと果たして言えるのだろうか。

人間の設計図を基に宇宙を漂う有機物を集め、クロノメモリーの構造を転写しただけだ。

生まれたわけでもない。

母親に抱かれたこともない。

子供時代を過ごした記憶すら、自分で経験したものではない。

どう見ても人類の系譜から外れた存在である。



「アーサー、あなたの命令に従います。それと、ひとつ質問があります」


「なんだ」


「いま起動準備中の個体についても処分は出来ないのですか?」


目の前にいるバカロボットを蹴り飛ばしたい衝動を抑え、静かに答える

「だめだ、絶対にだめだ!」


「しかし、このまま人格データを焼き付けなければ、いずれ限界がきて永遠に起動できなくなってしまいます」


「どういうことだ?」


そう返しながらアーサーはエヴァの言葉を思い出していた。



--------------------------

エヴァと研究室で他愛もない会話をしていた時、ふと彼女に聞いてみたことがあった。

「人間の心は、いつから作られると思う?」


エヴァは少し考え、小さく首を傾げて答えた。

「わかんないわ。」

「でも……お母さんのお腹の中にいる時からじゃない?」

「赤ちゃんは、お母さんの声も聞こえるし。」

「心臓の音も。」

「歩く振動も。」

「嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、全部はわからなくても、何かは感じていると思うの。」

「だから、生まれた時にはもう、お母さんを知っているんじゃないのかなぁ。」

その時は、微笑ましい空想だと思って聞き流したが、今になって、その言葉が脳裏に蘇る。

--------------------------


胎児は産まれる頃には、脳の神経細胞の大部分が既に形成されている。

それまでの間、胎児は約半年という短い期間に、爆発的な神経細胞の発達と神経回路の形成を遂げるのだ。


では人格は?

刺激をまったく受けない試験管の中ならともかく、胎児は母体から絶えず化学信号や音、振動、ホルモンの影響を受けながら成長していく。

その一つひとつが、まだ柔軟な神経回路を少しずつ形作っている。

クロノメモリーは、その過程すら「人生の構造」として記録しているのではないか。

だとすれば、今眠っているエヴァは、その刺激を何一つ受けていない。

クロノメモリーの転写には、神経回路が柔軟である間しか許されない時間があるのだとしたら──。


アーバスが静かに答える。

「人類は成長のある段階で、脳の可塑性を大きく低下させます。」

「一定段階を超えた脳構造では、クロノメモリーを人格情報として定着させることは不可能です。」


人間の脳は成長初期に神経回路が非常に柔軟な状態にある。

しかし一定期間を過ぎると、神経回路は安定化し、構造そのものを書き換える能力を急速に失う。

おそらくクロノメモリーの転写は、この柔軟な期間でしか行えない。

神経構造が安定化した後では、クロノメモリーを人格構造として統合できないのだろう。


「彼女はあとどのくらい持つのだ」


「予測不能です。」


「くそっ」


私の場合は一か八かの転写だった、しかしエヴァは違う。

ADMの補助なしで人格の生成は不可能だ。

今の状態では彼女に残された時間すらわからないのだ。


「アーバス作業に戻るぞ」

「何としてもADMを起動させる」

アーサーは覚悟を決めたように、アーバスが差し出した栄養剤を奪い取るように受け取り、一気に飲み干した。


「わかりました、アーサー」

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