10話 私が、叩き起こしてやる!
石英メモリ群の復旧は、表面上は順調に進んでいた。
だが──その裏で、アーサーは胸の奥に重い石を抱え続けていた。
船のADMシステムを起動するには、最低限の「基底演算域」が必要になる。
AGIが最初に自己展開を行うための、ごく小さな演算領域。
それだけあれば、眠っているADMは目を覚ます。
本来なら、それは問題にならない。
この船の演算資源は、ADM一基を起動する程度では使い切れないほど広大だった。
だが今は違う。
ADMは自ら劣化が進む石英メモリのほぼすべてをDNAメモリへ退避させ、その際、基底演算域を保護状態へ封印していた。
データを守るため。
船を守るため。
そして人類を再生させるため
その判断が、今になって自らの首を絞めていた。
ADMは眠っている。
起こすには演算域がいる。
だが、その演算域を管理しているのもADMだった。
まるで、自分で鍵を掛けた金庫の中に鍵を閉じ込めたような状態だった。
石英メモリはからっぽだが、DNAメモリからすべてを再構築できる。
船は蘇る。
だが──
その最初の一歩だけが、どうしても踏み出せない。
「アーバス。ADMのブートシーケンスを空回ししてみろ。」
アーバスは短く応答した。
「了解。」
船内の空気がわずかに変化する。
船体各所に分散配置された記憶領域が、順次再接続されていく。
直後──
システムが無機質な声で告げた。
「ADMブートシーケンス、テストモードで開始。」
「基底演算域……存在確認しましたが、閾値を下回っています。」
「自己展開プロセスを継続できません。」
「ブートストラップを中断します。」
「ADM起動失敗しました。」
「……やっぱり、そこか。」
アーサーは黙ってケーブルを束ねながら落胆する。
どれだけ作業を続けているのか、自分でも思い出せない。
床には空になった栄養パックが何十枚も散乱している。
「……あと少しだ。」
「もう少し。」
「この程度の苦労なんて、何度も乗り越えてきただろう。」
誰に言うでもなく、自分へ言い聞かせながら、ふと、昔の自分を思い出す。
研究室に閉じこもり、時間も食事も忘れていた頃。
「また寝てないでしょう」
呆れたように笑う声。
「少しは自分の身体を大事にして」
少し怒ったような声。
思い出すのは、研究のことではなかった。
浮かぶのは、いつも彼女の姿ばかりだった。
とうに疲労は限界を越えているはずなのに、不思議と身体は動いていた。
まるで、あの頃と同じように。
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「エヴァ・・・・エヴァ! 行くな! 待ってくれ!」
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「アーサー、起動してください」
気づけば、気絶するように眠っていたらしい。
栄養剤の袋を持ったアーバスが覗き込む。
「アーサー、起動しないので心配していました」
「あぁ……」
背中が痛む。
──そんな未来を、一緒に作ることはできないの・・・・
夢の残滓が胸に貼りついている。
「エヴァ……」
別れの言葉。
呼び止めようとした自分。
あの過去は、もう戻らない。
「アーサー、待機しています。どうしたらいいですか」
「……寝言だよ、アーバス。待ってくれと言ったが、それはもういい」
──アーサーはADMをどう起動させるか、何度も可能性を探っていた。
完全復旧を待たず、不完全な状態で立ち上げる。
その方法なら可能性はある。
しかし、試験起動で確認された結果は明白だった。
ADMは起動できないのではない。
起動するための最初の瞬間だけが、足りない。
少しずつ復旧する方法もある。
だが、エヴァに残された時間は限られていた。
脳の生命維持だけなら、いくらでも可能だろう。
問題はそこではない。
人格形成に必要な神経可塑性が維持される期間には限界がある。
ここでモタモタしている時間は無い。
何としても固定化が始まる前にADMを起動しなければ、エヴァの未来は閉ざされる。
あの状態で長期間維持できているだけでも、アーサーが研究していた時代より技術がはるかに進歩している証拠だった。
それでも、限界はもうすぐそこまで来ているはずだ。
アーサーはアーバスが用意した灰色の栄養食の袋を吸いながら、ぼそぼそとつぶやく。
「処理する場所さえあれば……」
そうつぶやきながら、隣に座るロボットをぼんやりと見つめる。
アーバスはアーサーの視線に気づいたように、静かに答えた。
「DNAメモリーは、読み出し自体は難しくありません。」
「ただし──処理する能力が、私には足りません。」
「知ってるさ。」
アーサーは小さく息を吐く。
「お前は船の演算域から切り離された……」
そこまで言って、アーサーは黙り込んだ。
胸の奥で、ひとつの方法がゆっくりと形を成す。
「……出来る」
「アーバス、出来るぞ」
アーバスは一瞬だけ沈黙し、答えた。
「条件を満たす演算領域は存在しません。」
アーサーはゆっくりと息を吸い、自分のこめかみをトントンと指さした。
「我々は、今あるもので戦うしかないだろう」
その声は震えていない。
ただ、静かに、決まっていた。
「船のAGIを起動し、私を NCIで直結する。」
「目覚めるための最初の演算領域──それを、私が提供する」
「ADMシステムを基底演算域から引き上げる。」
「禁忌なんて知ったことか!──私が、たたき起こしてやる!」




