11話 10秒の人生(前編)
アーサーはNCIバンドを首筋へ固定し、ゆっくりと息を吐く。
NCI――神経接続インターフェース。
脳内を流れる微弱な活動電位を読み取り、逆に外部から神経回路へ直接情報を書き込む技術。
視覚も聴覚も言語も介さず、神経そのものを通信路とするため、接続中は脳と機械の境界は曖昧となる。いや、境界は消失するのだ。
理論上は、人間は船そのものを「自分の身体」として認識することさえ可能だった。
そして、同じことはAGIにも当てはまる。AGIは自らの接続領域として人の脳に直接介入する。
自我の崩壊、人格汚染、記憶の混線など数え切れない危険性が報告されている。
通常運用では、人間の自我を保ったまま船のAGIへ直接接続するモードは存在しない。
脳科学者であればその危険性は十分に知っているし、事実身を持って体験した事がある。
以前、アーバスの管理権限を剥奪された際に用いた安全システムの要であるニューロ・チャッキを人為的にロックしNCIを介して接続するいわゆる禁忌の方法だ。
正常に帰還できる保証はない。
実行設定を入力しながらアーサーは静かに目を閉じる。
「アーバス。」
<はい。>
「お前に伝えておく。」
わずかな沈黙。
「ADMが起動した後、私、あるいは船に異常が発生した場合は迷うな。」
アーサーはまっすぐ前を見据えた。
「私の機能を即時停止させろ。方法は任せる。」
アーバスは数秒間、返答しなかった。
その沈黙は、命令内容を検証しているためなのか、それとも何か別の理由なのか、アーサーには分からない。
やがて、静かな声が返ってきた。
<了解しました。>
それだけだった。
アーサーは小さく頷くと実行ボタンを勢い良く叩いた。
船内へ制御シーケンスが送信される。
『ADM起動シーケンスを開始します。』
『外部制御権をADM起動シーケンスへ移譲。』
『チャッキ……解除。』
『神経ゲート……ロック。』
『基底演算領域……外部供給待機。』
『演算資源同期……待機。』
『神経同期率……確認。』
『全システム、ADM起動シーケンスへ移譲完了。』
『NCIリンク待機。』
『制御権はADM起動シーケンスへ移譲されます。』
ゆっくりと装置が目を覚ましていく。
淡い光が床を走り、休眠していた演算ユニットが一つ、また一つと起動する。
その光景を見届けるように、アーバスは一歩下がる。。
<これより本機はスタンドアロンモードへ移行します。>
<サブシステムとの全通信を遮断。 本機は独立監視モードへ移行しました。>
アーバスの額から、船内ネットワークを示す淡い光が消える。
『接続まで三十秒。』
静かなカウントが始まる。
船内は驚くほど静かだった。
アーサーはゆっくりと横へ目を向ける。
スタンドアロンとなったアーバスは、ただ静かに立っている。
普段なら何かとうるさいこいつも、必要最小限の言葉しか発しない。
その姿は、どこか人間らしかった。
「アーバス。」
<はい。>
「……エヴァを頼む。」
一拍だけ間が空く。
<うん。>
それだけだった。
余計な言葉はない。
励ましも、別れの言葉も。
ただ、命令を受け入れたという事実だけがそこにあった。
ピッ
『接続まで5秒。』
ピッ
『4』
ピピッ
『3』
ピピッ
『2』
ピピッ
『1』
ピピッ
『NCIリンク開始。』
瞬間――
脳を貫くような衝撃が走った。
頭蓋の奥で白い閃光が弾け、視界が消える。
全身の神経が一本の導線へ変わったかのように、頭部から脊髄、そして指先まで凄まじい電流が駆け抜けた。
「ぐぁっ!」
痛みとも違う。
熱とも違う。
自分という輪郭そのものが、一瞬で情報へ分解されていく感覚。
意識が落ちる。
ピピッ
・
・
ピピッ
・
・
ピピッ
規則正しく。電子音が鳴っている。
ピピッ
ピピッ
耳障りなほど聞き慣れたアラーム、アーサーはゆっくりと瞼を開く。
見慣れた天井。枕元で鳴り続ける目覚まし。胸の奥に、説明のできない焦燥だけが残っている。
何か、とても長い夢を見ていた気がする。
だが、その内容だけが思い出せない。
「……エヴァ。」
名前が自然と口をついた。
胸騒ぎが消えない。
アーサーは身体を起こし、まだ半ば寝ぼけたまま呟く。
「アーバス、起動。」
短い起動音。
「……エヴァは?」
<おはようございます、アダムス博士。>
聞き慣れた声だった。
<現在時刻、七時〇〇分。本日の予定は九時より神経再統合療法研究チームとの定例会議、その後、時間軸制御記憶抽出実験が予定されています。>
柔らかな朝日が窓から差し込み、白いカーテンを淡く照らしていた。
<奥様はご在宅中です。お呼びしますか?>
一瞬だけ、胸の奥がざわつく。
「……いや、いい。」
そう答えて身体を起こす。
記憶抽出実験の翌朝に感じるような軽い浮遊感だけが残っていた。
昔から自身を被験者にして主観記録の抽出実験を繰り返してきた。
抽出した記憶へ深く没入すれば、現実との境界が曖昧になることは珍しくない。
だから今回も、その程度のことだ。
寝室の扉が静かに開く。
「アーサー、起きた?」
柔らかな声とともに、一人の女性がひょいと顔をのぞかせる。
「おはよう、エヴァ。」
「おはよう……って、その顔。」
エヴァは眉をひそめた。
「どうしたのひどい顔よ?」
「いや、心配ない、大丈夫だか……」
最後まで言わせてもらえなかった。
「じっとして。」
両手で頭をがっちり固定される。
「ちょ、エヴァ。」
「瞳孔。」
彼女は迷いなく左右の瞳を観察し、指先をゆっくり動かした。
「この指を見て。」
「だから大丈夫だって。」
「左右追従……正常。焦点反応……正常。」
今度は頬を軽く押さえられ、顔を左右へ向けられる。
「少し動いて。」
「検査は研究所でやればいいだろ。」
「患者はみんなそう言うの。」
「僕は患者じゃない。」
「そう思ってるのはあなただけ。」
エヴァはため息をつきながらも、どこか安心したように微笑んだ。
「この前も子供の頃に溺れた記憶を追体験して、大騒ぎだったでしょう?」
「あれはちょっとしたトラブル、時間軸制御設定が甘かっただけだし。」
「三日間、水を見るだけで固まってた人が何言ってるの。」
アーサーは肩をすくめる。
「子供の頃の失敗なんて誰にでもあるさ。」
「そんなトラウマより、もっとひどい経験だって追体験してきた。」
エヴァが興味深そうに首を傾げる。
「へぇ。例えば?」
「そうだな……実験では色々あったよ。」
自然と言葉がこぼれる。
「アーバスに怒られて、研究者権限を剥奪されて、おまけに君に――」
エヴァがきょとんとした表情を浮かべた。
「私?」
「そう……君に……」
その先が出てこない。
何を言おうとしていた。
何を思い出しかけた。
喉元まで浮かんでいたはずの記憶が、水面に落ちた文字のように輪郭を失っていく。
「……あれ。」
思い出そうとするほど、その部分だけが崩れ、手の中からこぼれ落ちていく。
エヴァが心配そうに顔をのぞき込む。
「アーサー?」
「未来を、一緒に……」
「アーサー?」
「アーサーどうしたの? こっちの準備は大丈夫なんだけど……」
アーサーは一瞬、何をしていたのかを思い出そうとした。
……そうだった。
二人で初めての長期記憶抽出実験へ向けた最終調整を続けていた。
今回の目的は、単なる短期間の記憶再生ではない。
人間が生涯で積み重ねる膨大な経験。
その時間そのものを、どこまで正確に抽出し、保存し、再構成できるのか。
それは脳科学における、ひとつの到達点だった。
少し不安そうなアーサーを見て、エヴァは笑顔を見せる
「自信をもって、アーサー。あなたの研究は素晴らしいものだわ。」
「シュミレートは何度もやってるし大丈夫なのは判ってるよ、ただね、不安が無いと言えば噓になるかな……」
「だったら、なおさら私が見ていないと駄目ね。」
エヴァは端末を確認しながら、淡々と準備を進める。
「神経負荷監視、生命維持系、記憶同期率監視。全部私が確認する。」
今こうして彼女が隣に立ってくれていることが、アーサーには何よりも心強かった。
「大丈夫。」
エヴァは優しく微笑む。
「何かあったら、私が戻すから。」
「……頼もしいね。」
「あなたは昔から無茶ばかりするから。」
「そんなに?」
「そんなに。」
二人は笑った。
そして実験開始時刻を迎える。
静かな研究室。
神経接続装置が低い駆動音を響かせる。
『長期記憶抽出シーケンス開始。』
『対象記録期間、一年間。』
『神経同期率、安定。』
アーサーはゆっくりと目を閉じた。
意識が沈んでいく。
音が消える。
光が消える。
そして、暗闇。




