23話 旅する命
『航行管理システム、全領域空間監視を再開』
『推進制御系および航行管理系、加速シークエンスを開始いたしました』
『SCD(空間圧縮ドライブ)、正転制御に移行』
船は、減速の時と同じように一切の微振動すらなく、静寂を保ったままなめらかに加速を開始した。
船体後部に配置された巨大な推進メイン機関が、ゆっくりと出力を上げていく。
ガス惑星で大量の資材を積み込んだことで、船体は以前よりも重くなっていた。その分だけ、巡航速度に到達するまでには予定していた3ヶ月よりも長い時間が必要になる。
それでも、フーキライト号にとっては、これまで繰り返してきた航行手順の1つに過ぎなかった。
少なくとも――アーサー自身は、そう思っていた。
――異変に気がついたのは、加速シークエンスを開始して間もない頃だった。
いつもなら船内を元気いっぱいに歩き回り、何か新しいものを見つけるたびにアーバスをしつこく困らせているはずのイブの姿が、どこにも見当たらなかった。
「アーバス、イブはどこにいる? まだ起きてこないのか?」
<現在、彼女は居住区の寝床から一切移動しておりません>
「まだ寝坊してるのか?」
<いいえ。睡眠状態ではありません。生体バイタルデータに明確な異常が検知されています>
アーサーは作業用工具を放り出し、すぐにイブの元へと駆けつけた。
暗く落とされた照明の下、簡易の寝床の中で、イブは膝を抱えるようにして身体を小さく丸めていた。
「イブ……? どうした、大丈夫か?」
「……うぅ……あーさー……」
かろうじて返事はあったものの、いつもの弾むような元気な声ではない。
心配したアーサーがイブの額にそっと手を当てる。
その瞬間、驚くほどの熱が手のひらへ伝わってきた。
「なんだこれ、凄い熱だ……!」
<イブの体温は現在、通常平熱値を大幅に上回っております>
「原因は何だ?」
<現時点の表層スキャンのみでは特定できません。過度の活動による疲労も考えられますが、発熱の急激度および他のバイタル反応から判断すると、何らかの感染症である可能性が高いと推測されます>
アーサーは眉をひそめた。
かつて地球で普及していた『アィーダ(全自動生体管理・医療サポートシステム)』のような高度な医療設備は、この旧型船内には存在しない。
人間が体調を崩せば、医療AIが異常を検知し、必要な薬剤や栄養を自動で用意してくれる。
そんな環境が当たり前だった。
アーサー自身、研究者時代に無理な実験がたたって倒れ、病院に担ぎ込まれたことは何度もあった。
だが、純粋な感染症に苦しめられるという経験は、長い間なかった。
「アーバス、直ちに原因を解析しろ。必要なら……バイオインターフェイスを起動して直接繋げ!」
<了解いたしました>
その言葉を聞いた瞬間、イブの身体が小さく震えた。
「イブ、大丈夫だぞ。今からすぐ楽にしてやるからな」
「いやぁ……っ!」
イブは目に大きな涙を溜めながら、必死に首を横に振った。
「こわい……っ。いたいの……いやぁ……!」
アーサーは一瞬、息を呑んだ。
これまでイブという少女は、どれほど不快なことや未知の事態に遭遇しても、恐怖より好奇心が勝ることが多かった。
そんなイブが今は、熱に浮かされ、荒い息を吐きながら、治療そのものを怖がっている。
「このままだと、もっと苦しくなって辛くなるんだぞ……」
「……やだぁ……っ」
「すぐに終わる。俺がずっと側についていてやるからな」
アーサーはそう優しく声をかけると、熱い身体をしっかりと抱き上げた。
それからしばらくして、イブは泣きながらもバイオインターフェイスのチューブやセンサーに接続された。
不足していた水分と電解質、栄養素が血中へ送り込まれていく。
それだけでも、イブの激しい呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
<血中水分量および栄養ステータスの改善を確認しました>
「病原体の原因はまだ特定できないのか?」
<現在、遺伝子シーケンサーによる解析を継続しています>
それから、さらにしばらく時間が経った。
やがてアーバスから、いつもより硬い声で報告が入った。
<イブの体内で増殖している病原体の特定を完了いたしました>
「どうだった?」
<未知のウイルス性感染症です>
「ウイルス……だと?」
<はい。既存の人類医療データベースとの照合を行った結果、本ウイルスは旧人類時代に流行した『インフルエンザウイルス』と極めて高い遺伝的類似性を持つことが判明しました。ただし、一部の塩基配列には未知の変異が存在します>
「……バカな。なぜそんなものが船内に存在する? 一体どこから?」
<船外より持ち込まれた有機物サンプルが感染源となった可能性が極めて高いと考えられます>
アーサーは絶句した。
そして――脳裏に、あの時の光景が蘇った。
約10ヶ月前。
イブが勝手に操船コンソールを叩き、船を謎の小天体へ向けたこと。
そして、アーバスが嬉々として、その天体の熱水噴出孔から有機物を採取していたこと。
「……そういうことだったのか」
<……ただし、本解析結果には極めて奇妙なデータが存在いたします>
「奇妙なデータ?」
<このウイルスと実質的に同一の遺伝子構造を持つウイルスが、過去に別の深宇宙探査船のアーカイブでも確認されています>
「……別の探査船だと?」
<はい。現在照会可能な記録だけでも、本宙域から数千光年離れた複数の恒星系探査データにおいて、同系統のウイルスが検出・記録されています>
アーサーは怪訝そうに眉をひそめた。
「……同じウイルスが、この銀河のあちこちに存在しているというのか?」
<正確には、同一の祖先から分岐したとみられる同系統のウイルスです>
「それが、どうしてそんな遠くに?」
<……そこが問題です>
アーバスが、珍しく言葉を選んだ。
<これらのウイルスが、恒星風や宇宙線にさらされた状態で星間空間を長期間移動していた可能性を示す記録があります>
「恒星風に乗って……宇宙を?」
<可能性の1つです>
「パンスペルミア仮説……か」
<旧人類の古代科学時代から存在していた仮説です。生命、あるいはその種子となる物質が宇宙空間を移動し、天体から天体へ広がったという考え方です>
アーサーは、バイオインターフェイスの光に包まれたイブを見つめた。
<これまで決定的な証拠はありませんでした>
<少なくとも、このウイルスが恒星間空間を移動している可能性については……これまでとは比較にならないほど強い証拠が得られました>
アーサーは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……じゃあ、なにか」
視線が、眠るイブへ向いた。
「こいつは……インフルエンザの原種みたいな病原体は、最初から宇宙の中に存在していたっていうのか?」
<その可能性が極めて高いと判断されます>
アーバスは、さらに続けた。
<また、既存のインフルエンザウイルスとの構造的類似性から推測いたしますと、本ウイルスが人間に対してインフルエンザに類似した急性発熱症状を引き起こす確率は、90%を超えております>
「……」
「……その講釈はもう十分だ、アーバス」
アーサーはイブから目を離さずに言った。
「それよりも答えてくれ。お前、あの採取した有機物を使って……船内で一体何をしていた?」
<…………>
「何をしたんだ。正直に言え」
重苦しい、短い沈黙が流れた。
<……採取した有機物の細胞構造を解析し、人工的な増殖と遺伝子改変を試みました>
「あぁ……なんてことを……! 正気か、お前は!?」
<……イブが『本物の植物を見たい』と強く希望しておりましたので>
「だからって、未知の生体物質を勝手に船内へ持ち込んで実験する奴があるか!」
<採取した有機物の塩基配列を利用すれば、船内で原始的な植物組織を再生・育成できる可能性があると判断しました>
「未知の病原体だったらどうするつもりだったんだ!」
アーサーの怒号がサーバールームに響いた。
すると――寝台の上から、消え入りそうな声が聞こえてきた。
「……あーさー……っ」
アーサーがハッと振り返る。
イブが熱にうなされながら、大きな瞳からポロポロと涙をこぼしていた。
「あーばす……わるくないの……っ」
「イブ……」
「わたしが……っ。本物のお花が……見たいって……言ったから……っ」
その言葉に、アーサーは喉を詰まらせた。
もう、それ以上アーバスを責めることはできなかった。
アーバスが何を考え、何を目指してあの無謀な実験を始めたのか。
それだけは、痛いほど分かってしまったからだ。
人類は長い歴史の中で、自らの都合に合わせて無数の植物や動物を変えてきた。
何世代も、何百年もかけていたそれを――アーバスは、持てる技術で一気に進めようとした。
アーサーは深く、長く息を吐いた。
「……試料は、全部焼却処分する」
<……了解いたしました>
「船内に持ち込んだ有機物原体も、改変中の細胞サンプルも、1つ残らず完全滅菌・焼却だ」
その時だった。
イブが、小さな声で縋るように呟いた。
「……お花……っ」
「お花を……焼かないでぇ……っ」
シクシクと涙を流しながら、イブは何度も同じ言葉を繰り返した。
「お花を……殺さないで……」
アーサーは、完全に言葉を失った。
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やがてアーサーは、アーバスに案内されるまま、船内奥深くに隠されていた植物実験室へ足を踏み入れた。
そこには、分子プリンターで出力された小さな試薬容器がいくつも並んでいた。
その1つ。
透明な培地の中から、頼りなげな「小さな芽」が顔を出していた。
花を咲かせるには、まだほど遠い。
ほんの数ミリ。
それでもそこには、みずみずしい緑色をした2枚の双葉が、光を求めるように開いていた。
アーサーは黙って、その小さな命を見つめた。
処分しなければならない。
科学者としての理性が、そう告げている。
けれど――自分自身もまた、イブに本物の花を見せてやりたいと思っていた。
アーサーは小さな芽から目を離せなかった。
自分たちは今、ただ進化の速度を少し早めただけなのか。
それとも――人間が踏み越えてはならない一線を、すでに越えてしまったのか。
「……僕は一体どうすればいいんだ、教えてくれ…………エヴァ」
暗闇の中で、二度と答えてくれない人の名を静かに呟く。
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その後、バイオインターフェイスによる栄養補給と体温管理を続けたことで、イブは驚くほどの回復を見せた。
2日もしないうちには発熱も完全に引き、イブの瞳にはいつもの輝きが戻っていた。
「アーバス、バイオインターフェイスの接続を解除しても大丈夫か?」
<はい。イブの体温および血中抗体価は安定いたしました。いつ解除しても問題ありません>
「じゃあ、解除してくれ」
「いやぁぁぁっ!!」
突然、イブが凄まじい悲鳴を上げた。
「これ、外すとき痛いから嫌だぁぁぁっ!」
(あー……しっかり覚えてたか……)
「大丈夫だイブ。抱っこしててやるから」
「……ほんとう? 痛くしない?」
「ああ、約束する。だから頑張ろうな」
イブは渋々うなずくと、アーサーの胸に力いっぱい顔をうずめた。
「よし。じゃあアーバス、解除してくれ」
<バイオインターフェイス、接続解除シークエンスを開始します>
「いたたたたたたたたたっ……!!」
イブが顔をくしゃくしゃにして痛みに耐える。
幸い、処置は数秒で終わった。
「……終わった?」
「ああ。終わったよ、頑張ったな」
イブは胸の中で小さく安堵の息を吐いた。
そして、しばらくしてから――ふと顔を上げた。
不思議そうに、アーサーの顔をじっと見つめている。
「……アーサー?」
「ん? どうした?」
イブが小さな手を開き、アーサーの頬にそっと触れた。
「なんか……あついよ?」
「え?」
「アーサーも……お熱出てる……」
アーサーは、その場でピキッと固まった。
言われてみれば――なんだか身体が重い。
関節の節々も痛む。
視界の端が、ぼんやり熱を帯びているような気もする。
「……ま、まさか」
<アーサー。およそ3時間ほど前より、あなたの体温が急激に上昇しているのを感知しております>
「お前っ!! そういう大事なことはもっと早く言え!!」
<先ほどから何度も確認・報告を試みておりましたが、アーサーがイブの処置および抱擁を最優先されていたため、報告が後回しとなりました>
「……ッ!!」
アーバスは、イブの身体から外したばかりのバイオインターフェイスをゆらゆらと揺らしながら。
<……接続しますか?>




