24話 未完成の人類
5年後――。
減速シークエンスもいよいよ終盤を迎え、探査船アーキライト号は目的地であるTOI-5821星系の外縁部近くへと到達していた。
それまでの5年間、アーサーもイブも心身ともに成長し、星系に入ってからの計画、そしてこれからの未来について、幾度となく言葉を交わしてきた。
だが――目的地のTOI-5821星系が近づくにつれ、イブの表情からは次第に笑顔が消え、惑星への入植に対して露骨に尻込みするようになっていた。
「アーサー……惑星への入植って、到着してすぐ行うの?」
「心配しなくても大丈夫だよ、目的地に入る前に、まずはアーキライトも星系外縁部で資材の補給を行う。その間に、入植地については徹底的に調査するよ」
「でも……惑星上の病原体なんて、軌道上からのスキャンだけじゃ分からないことも多いでしょ? 調査船を降ろして、対応策を完全に取ってからでもいいんじゃない?」
「イブ、君がアーカイブのデータを元に再現してくれた抗体薬や各種ワクチンは素晴らしい出来だよ。もっと自信を持っていい」
「……私たちは完全じゃないの。もし薬が効かない未知の病気になったら? 対応が遅れて、大変なことになったら……っ」
「リスクがないと言えば嘘になる。だけど君は昔、言ってたじゃないか。『たくさんのロボットをもってしても、土から離れては生きられない』って」
「それは……! それは人類のアーカイブにあった古い物語の話よ! これは現実なの……!」
アーサーは、不安そうにうつむくイブの横顔を静かに見つめた。
彼女の気持ちは、痛いほど理解できた。
自分のように地球という青い星で生き、土を踏みしめた経験が彼女にはない。
生まれてから今日まで、彼女の世界のすべては、この無機質な船の中だった。
そして、この広大な宇宙そのものが、彼女にとっての世界だったのだ。
たとえ船の記憶と同期し、1万光年以上の航行記録や1000年以上の船としての経験を持っていたとしても、1人の少女として目覚めてからは、まだわずか6、7年しか経っていない。
人類のアーカイブをどれほど読み漁り、地球の歴史を知識として知っていたとしても、イブにとって帰るべき「家」とは、今も昔もこのアーキライト号なのだ。
テーブルの花差しに飾られた、小さな白い名もない花。
あの日、船内で芽吹き、二人で大切に育てて咲かせた小さな生命。
それを見つめながら、アーサーは思案した。
説得する言葉ではない。
どうすれば、彼女の小さな心を安心させてあげられるのか。
「もし……何かあったら……失敗したら……」
「私、このままアーキライトにいた方がいいと思うの……っ」
「アーサー……私、怖いの。私は何も知らないし、本当は何もできないの……!」
アーサーはそっと席を立ち、震えるイブの隣へと腰掛けた。
「僕はね……アーバスと一緒に君を起こす時、欠損だらけだった船の記憶と経験を、そのまま君へと流し込んだんだ」
「宇宙を旅して見てきたこと、失敗したこと、怖かったこと、楽しかったこと……忘れてしまったたくさんの出来事も含めて、その全部が君の記憶であり、人生であり、君の魂なんだと……僕は信じている」
アーサーは静かに言葉を紡いだ。
「人類なんて、君が思っているほど完全じゃない。まったくもって不完全で、最初から完成された人間なんて一度だって存在しなかった」
「そう……人間が完成することなんて絶対にないんだ。その不完全さこそが『人間』であり、それこそが魂そのものなんだよ」
イブの華奢な腰にそっと手を回し、アーサーは慈しむように優しく語りかけた。
「悲しいことも、苦しいことも、楽しいことも……その全部が人生なんだ」
「僕は地球での1回目の人生でそれをデータとして記録し……この船で2度目の人生を生きて、ようやく分かった」
「人間は、忘れるからこそ前に進めるし……覚えているからこそ、前に進めるんだ」
アーサーは、イブの小さな手をそっと包み込んだ。
「君が怖いと思うのは当然だよ。僕だって怖い。これから僕たちの身に何が起きるのか、僕にだって分からないんだから」
「だから……一緒に行こう」
アーサーは、少し照れくさそうに目元をほころばせた。
「失敗したっていい。僕の残りの人生を、全部君にあげる」
「そして……あの星の下で、僕を導いてほしい」
イブはうつむいたまま、ぽろぽろと涙を零し、アーサーの肩にそっと頭を預けた。
「……アーサーはずるい。そんなこと言われたら……断れないじゃない……」
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『航行管理システム、通常空間監視へ移行』
『SCD(空間圧縮ドライブ)、停止』
『推進制御系、航行管理系、減速シーケンス……完了しました』
<減速フェーズ終了。通常航行速度へ移行します>
船の光学観測システムが、周囲の天体を次々と捉えていく。
アーバスが監視カメラから送られてくる膨大な映像データを処理し、受信した順にメインスクリーンへ表示していく。
中央には、太陽よりわずかに小さく、淡い橙色の温かな光を放つ主星。
その傍らには、複雑な環と無数の衛星を従えた巨大なガス惑星。
主星のすぐ近くには、強い光を浴びて焦げ付く2つの岩石惑星。
そして――少し離れたハビタブルゾーンに、ぽつんと浮かぶ青緑色の惑星。
<目標天体『惑星3:24』を捕捉いたしました。現在距離、7光時間>
アーサーの視線が、その青緑色の惑星へと吸い寄せられた。
観測カメラが瞬時に焦点を合わせ、大気成分の解析データが次々と表示されていく。
大気には豊富な酸素と窒素。
地表には広大な液体の水。
生命の存在はまだ確定していないものの、人類が生存するための環境は奇跡的なまでに揃っていた。
「見えたの!?」
植物プラントから駆け込んできたイブが、息を切らせて叫んだ。
<可視光モードで拡大投影します>
大型スクリーンいっぱいに、美しく輝く青緑色の星が映し出された。
アーサーもイブも言葉を失い、ただ息を呑んでその姿を見つめていた。
1万年の孤独を経て……ついに辿り着いた、人類の新たな故郷。
二人は静かに肩を寄せ合い、万感の思いを込めて互いを見つめ――
<報告します>
<船体前部に未知の小天体が衝突。外殻構造に直径約40メートルの穴が開きました>
「……」「……」
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巨大ガス惑星の軌道上に到達したアーキライト号は、再び外殻補修と最後の補給作業に入った。
作業用アームを操作して外殻の溶接を進めながら、アーサーはふと思い立ってアーバスに尋ねた。
「アーバス……俺たちが入植した後、アーキライトはどうするんだ?」
ほんのわずかな沈黙の後、アーバスの無機質な声が返ってきた。
<本船を惑星上へ降下させることは推奨されません>
「……どうしてだ?」
<船体の全長は約5キロメートル。絶大な質量を有しており、大気圏突入および着陸用の設備はありません>
<仮にSCDによる空間圧縮航行を惑星表面付近で使用した場合、無視できない規模の地質的破砕現象が発生する可能性があります>
アーサーは眉をひそめた。
<平易に表現いたしますと、惑星表面に巨大な穴を開けることになります>
「そんな仕様になっていたとは知らなかったな……」
<恒星間深宇宙探査に特化した構造ですので>
「なるほどな……」
アーサーは少し考え込んでから、再び尋ねた。
「じゃあ……このまま惑星の周回軌道に残るのか?」
<いいえ。人類を新天地へと入植させることが、私の最終プロトコルです>
アーバスは至極淡々と告げた。
<入植完了を確認後、私は次の目的地を選定し、直ちに出発いたします>
アーサーの手が止まった。
「……一人で?」
<はい>
その短い答えに、アーサーは言葉を失い、黙り込んだ。
<……アーサー。この件につきましては、イブには伏せておくことを推奨いたします>
アーサーは呆れたように、小さく笑った。
「お前も……ずいぶん人間らしい事を嘘を言うようになったな」
<そうでしょうか?>
「イブに悲しまれるのが、嫌なんだろ?」
アーバスはすぐには答えなかった。
<そうなのでしょうか。>
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惑星3:24の周回軌道へ到達すると、アーキライト号は減速し、安定した周回軌道へと入った。
本来、アーキライト号の船体には外を直接見渡せるような「窓」は存在しない。
だが今回は、完成した大型着陸艇の最終テストを兼ね、格納庫ハッチを開放して1艇を船外へと張り出させていた。
「実際に自分たちの目で見てみるか」
「うん……!」
二人は着陸艇へ乗り込み、強化ガラスで覆われた大きな観察窓へとへばりついた。
視界のすぐ向こうに、青緑色に輝く惑星の全貌が圧倒的なスケールで広がっていく。
「……海が、すごく多いな」
「アーサー、あの白いウネウネしたのは雲?」
「たぶんそうだ。大気の流れに沿って、ゆっくり動いているんだ」
二人は言葉を失っていた。
スクリーン越しのデジタルデータでは、これまで何度も見てきた景色。
だが……自分たちの肉眼で見る本物の景色は、まるで違っていた。
見渡す限りの深い青い海。
複雑に入り組んだ壮大な大陸。
陽光を浴びて白く輝く、渦巻く雲。
そのすべてが、生き物のようにゆっくりと視界を流れていく。
「……すごい……っ」
イブがぽつりと呟いた。
やがて、惑星の地平線へと恒星が沈んでいく。
薄い大気の層がプリズムのように光を屈折させ、淡く美しい虹色の光帯を形作っていた。
夜が訪れる。
昼間の鮮やかさとは一転し、窓の外は漆黒の闇へと呑み込まれていく。
だが、その暗闇の中で――突如として、幾条もの鮮烈な光が走った。
「……!」
雲の切れ間を走る、眩い雷光。
1つ、また1つ。
はるか遠くの大地でも、紫白の光が瞬いている。
「すごい! アーサー、見て見て!」
イブが幼子のように目を輝かせ、声を上げた。
「すごいよ! 生きてるみたい!」
「こら、そんなに暴れるなよ」
呆れ顔で注意しながらも、アーサーの口元は緩んでいた。
二人は肩を並べたまま、夜の星が紡ぐ静かな光のショーを眺め続けた。
やがて反対側の地平線が淡く茜色に染まり始め、朝が訪れる。
青緑色の星が、再び温かな恒星の光に照らされていく。
<着陸艇のテストシークエンスを終了。格納庫へ回収いたします>
「……あ」
「そういえば……これ、着陸艇のテストだったな」
目的をすっかり忘れていた二人は顔を見合わせ、クスクスと楽しそうに笑い合った。
着陸艇はゆっくりと後退し、巨大なアーキライト号の腹の中へと格納されていく。
<報告いたします。惑星3:24に関する追加のスキャン結果が出ました>
「聞かせてくれ」
<鳥類と思われる飛行生物の反応を確認。大型の海洋生物群も確認されました>
<また……地表の平原部におきまして、旧地球の『牛』に酷似した大型草食動物の生体反応が検知されました>
「牛……?」
<外見構造および集団行動パターンにおいて、高い類似性が認められます>
「他には?」
<広大な温帯森林、および乾燥砂漠地帯を確認。極地付近におきましては積雪領域も確認されております>
「ねえ、アーサー」
「ん?」
「この星……名前はないの?」
「『惑星3:24』っていう分類名だけだな」
「そんな数字の名前じゃ不便だよ」
イブは少し首をかしげて考えた後、アーサーの顔をじっと見つめた。
「名前、付けようよ」
「そうだな。じゃあ、君が付けるか?」
だが、イブは即座に首を横に振った。
「ううん。アーサーに付けてほしい」
珍しく、少しの迷いもなくはっきりと言った。
アーサーは視線を巡らせ、少しの間思考を巡らせた。
1万年の気の遠くなるような旅の果てに辿り着いた、約束の場所。
これから自分たちが傷つき、迷い、それでも愛し合って生きていく場所。
アーサーは、愛おしそうにその名を口にした。
「……エデン」
イブが、その響きを噛みしめるように繰り返す。
「エデン……」
「そう。今日から、この星の名前は『エデン』だ」
イブは心から嬉しそうに微笑んだ。
「うん……! エデン、すごくいい」
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それからの2ヶ月間、二人は惑星表面の詳細な調査と着陸候補地の選定、そして入植準備に追われた。
はやる気持ちを抑えながら、事前に準備していた膨大な資材や自動プラントを着陸艇へと積み込んでいく。
入植に必要な資材は、計12隻の大型着陸艇に分散して積み込まれた。
大気圏突入と現地での解体・建材化に特化した設計のため、これらの着陸艇は二度とアーキライト号へ戻ることのできない、片道切符だ。
最終的な着陸地点は、北緯34.7度、東経135.5度付近の平原地帯に決定した。
1年を通じて温暖な気候、安定した降水量、平坦な地形、そして豊かな淡水河川。
周辺には広大な森林と草原が広がり、沿岸部へのアクセスも良好な、まさに命が芽吹く絶好の地だった。
かつて生活の拠点となり、すっかり賑やかな居住区と化していたサーバールームは、すでに資材が運び出され、再びがらんとした冷たい空間に戻っていた。
最低限のテーブルと椅子だけが置かれた、かつての姿。
それを見つめ、アーサーは静かにアーバスへと向き直った。
「アーバス……今まで、本当にありがとうな」
<こちらこそ、アーサー。長きにわたる航海、本当にお疲れ様でした>
「次は……どこへ向かうんだ?」
<次の探査候補地は、ここから21光年離れた恒星系です>
<仮にそこが人類の生存に適さなかった場合は、さらに780光年先の星系を目指します>
「そうか……」
アーサーは寂しさを隠すように黙り込んだ。
「もう……お互いに直接通信することはできなくなるんだな」
<はい。本船がSCDを発動した瞬間、相対的な時空間歪みにより通信は完全に途絶いたします>
「……でも、いつか人類が再び光速を超えて宇宙を航行できるようになったら」
「その時は、必ずお前に連絡を取るよう、後世に伝えるよ」
<……感謝いたします>
「俺たちがこの星でどう生きたのか、ちゃんと報告しないとな」
<はい。その報告を、心より楽しみにしております>
「ああ。だから……それまで元気でな、アーバス」
<アーサーも、どうぞお元気で>
短い沈黙が流れた後、アーバスがどこか遠慮がちに口を開いた。
<……アーサー。最後に1つ、お願いがございます>
「なんだ?」
<あそこにある、ナノダイヤモンド・CNT・SiC複合材でできたトイレですが……>
<素材を返してもらってもいいですか?>
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別れの日。
着陸艇のハッチが閉じる。
いつぞやの、綺麗な二体目のアーバスが壁のホールドバンパーに固定されている。
アーバスはハッチパネルを操作した。
エアロックの気密が解除され、固定ロックが外れ、巨大なアウターハッチがゆっくりと開いていった。
イブは、ホールドバンパーに佇む動かないアーバスの姿をぼんやりと見つめながら、窓の外を見つめていた。
アーサーは何も言わず隣に座り、イブの手を優しく握りしめた。
やがてスラスターが噴射され、着陸艇は船外へと静かに放出された。
メインエンジンが静かにパルス駆動を始め、巨大な黒い船体の横を滑るようにして、着陸艇は離れていく。
窓の外を、船体に刻まれた『Archilight』の文字が、ゆっくりと、ゆっくりと通り過ぎていく。
それを見た瞬間、イブの瞳から堰を切ったように大量の涙が溢れ出した。
絞り出すような泣き声で、イブは二度と届かない感謝と別れを叫んだ。
「さようなら……」
「さようなら……アーキライト」
「ありがとう……」
「もう一人の私……」
「……さようなら」
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やがて着陸艇の群れは、十二本の光の筋となって遠ざかっていく。
アーバスはそれを静かに見届け、ゆっくりとハッチを閉じた。




