20話 「……お前、優秀だな」
アーサーは深いため息をつきながら、頭を抱えていた。
問題の種は、アーバスが分子プリンターで出力してきた衣服だった。
いや、着用感やサイズ感自体は驚くほどぴったりだったのだ。肌触りこそやや合成繊維特有の硬さがあるものの、着ていられないほどではない。
食事の改善という難題は未だ残されているものの、ちゃんとした服が揃っただけで、船内は一気に人間らしい生活空間へと近づいた気がしていた。
ただし――。
「なぁ、アーバス君。君の演算基準では……これが『可愛い服』ということになるのか?」
<はい。旧人類の記録データベースに残されている代表的な『かわいい衣服』のシルエットおよびデザイン特徴を参照した結果、こちらの形状が生成されました>
「アーサー、これすごくいいよ! さっきの足を入れるタイプに比べて、脱着しやすいの!」
「あ、こらイブ! それは肌の保護用だから、起きている間は……いや、そうじゃない。身体のメンテナンス時以外は絶対に脱がないように!」
<生体組織の保護を主目的とする場合、露出している皮膚面積が多すぎるように見受けられます>
「私は確かに『可愛い服を作ってくれ』とは頼んだが……それにしてもこれは……短すぎるだろ!」
<再生成を行いますか?>
「うーん……まあ、本人がこんなに喜んで気に入っているのなら、とりあえずはいいか……」
「アーサー、これ! おしっこする時もすごくいいかも!」
「……もう少し丈の長いタイプを頼む」
<…………了解いたしました>
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そんな調子でドタバタ劇を繰り返しながらも、彼らの船内生活環境は少しずつ、確実に整っていった。
アーサーはイブに対し、人類の遺したアーカイブの中から、今後の船内生活や航行に役立ちそうな情報をピックアップして整理する仕事を割り振った。
もちろん、人間としての一般的な常識や知識量は、まだ幼い子供と同等レベルだ。
ところが、広大なデータベースの奥底から必要な情報をピンポイントで検索・抽出してくる能力に至っては、アーバスにも引けを取らない凄まじさだった。
むしろアーサーにとって興味深かったのは、その集めてきた情報の「扱い方」だった。
アーバスに検索を頼むと、関連する膨大なデータを網羅的に提示してきたり、勝手にミニスカートを出力してきたりする。
対してイブは、集めた膨大なデータの中から彼女なりに価値を選別し、「今の自分たちにとって本当に必要な情報」だけを吟味して持って来るのだ。
人間としての経験値は圧倒的に少ない。
それなのに、情報の要不要を判断する「価値観の軸」だけは、驚くほど人間らしく血が通っている。
その過程を見守ることが、アーサーにはたまらなく面白かった。
ただし――最近になって、1つ困った問題が生じていた。
イブが知識の面白さに完全に開眼してしまい、夜更かしをしてまで人類のアーカイブを貪るように読み漁り始めたのだ。
「イブ、もう照明を落とす時間だぞ。そろそろ寝なさい」
「あとちょっとだけ!」
「その『あとちょっと』が、もう1時間前からずっと続いているんだが……」
<現在のイブの主観時間知覚におきましては――>
「アーバス、そういう野暮な客観補正報告はいらない」
どうやら彼女にとって、新しい知識を獲得することそのものが、抑えきれない娯楽になっているらしい。
生活リズムを維持するためにも、そろそろ強制的に端末を閉じさせて休ませる必要がありそうだった。
そんな平和な日常の裏で、船はいよいよ次の重要な局面へと移行しようとしていた。
――物資補給のための、船体の減速シークエンスである。
アーバスの試算によれば、現在の準光速航行速度域のままでは、周囲の宙域の状況を詳細に観測することは物理的に不可能なのだという。
超高速度域におけるVoid航行中は、船外の空間観測センサー系そのものが通常の物理空間とは異なる位相領域に晒されている。
そのため、周辺宙域に存在する小惑星や資源を探知するためには、まず観測が可能な通常速度域まで船体を大幅に減速させなければならなかった。
そのための準備は、すでに船内で着々と進められていた。
かつて他船とのデータ同期によって共有された古い航行記録を確認したところ、この進行宙域の先には比較的大規模な「連星系」が存在することが判明している。
もっとも、その観測データ自体が極めて古い代物だ。
しかも、そのデータは現在地から500光年以上も離れた地点で観測・記録されたものだった。
つまり、アーサーたちが今、目にしているのは、最低でも「500年以上前」のその星系の過去の姿ということになる。
その500年の間に星系そのものが崩壊・消滅している可能性は低いとしても、航行データの測定誤差や環境変化を考えれば、実際にその宙域に到達してみるまでは何も保証できない。
「はるばる行ってみたら、そこには何もありませんでした……なんてオチもあり得るわけか」
<論理的な可能性としては否定できません>
「宇宙っていうのは、本当にどこまでも気が長いというか、途方もないな」
そしてもう1つ。
ほぼ光速に達している巨大な船を安全に減速させるには、相応の時間――いや、「日数」が必要だった。
<現在の超高速度域から、周辺環境の精密観測が可能となる速度域まで減速を完了するまで、およそ90日を予定しています>
「90日……」
アーサーは思わず天井を仰いだ。
たった一度、周囲の景色や資源を確認するためだけに「3ヶ月」もの時間をかけて減速する。
地球で研究者として暮らしていた頃なら、想像すら拒むような壮大な時間感覚だ。
もっとも、地球の相対時間からしてみれば、さらに気の遠くなるような年月が経過することになるのだろうが。
そういえば昔、地球から土星圏までの宇宙航行でさえ50日ほどかかると聞いて、気が遠くなった記憶がある。
あの頃も「随分と長い旅だな」と思っていたものだが、今にして思えば、それも太陽系という狭い庭の中での移動に過ぎなかったのだ。
宇宙はあまりにも広い。
ましてやVoidを超光速で突き進むこの超巨大舟艇と、星系内をちょこまかと飛ぶ小型船を同じ尺度で比べること自体が間違っているのだろう。
アーサーはゆっくりと息を吐き出した。
90日間の減速期間。
そしてその先には、目指す資源どころか、存在するのかすら怪しい星系が待っているのだ。
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『漸近位相空間リンク、順次遮断されます』
『航行管理システム、全領域空間監視を再開』
『SCD(空間圧縮ドライブ)、反転制御に移行』
『推進制御系および航行管理系、減速シークエンスを開始いたしました』
船内に流れる重厚なアナウンスを聴きながら、アーサーは減速開始の衝撃に備えて身構えていた。
ほぼ光速で突き進んでいた超巨大構造物がブレーキをかけるのだ。
それなりに凄まじい慣性Gや衝撃があるものと踏んでいた。
しかし――何も起こらなかった。
船内は、拍子抜けするほどいつもと変わらない穏やかな静寂に包まれていた。
「……思ったほど、何も変わらないんだな」
<SCDの反転位相制御による減速ですので、船内疑似重力場および慣性系に生体感知可能な変化は生じません>
「アーサーは心配性すぎます!」
イブにニヤニヤしながら指摘され、アーサーは少し気まずそうに、自傷事故防止のため腰に固く巻き付けていた使用済みの太い光子ケーブルを解いた。
「いや……念のために簡易シートベルトを用意してみたんだがな……」
「アーサー、ごはんにしよう! アーバス、ごはん出して!」
<了解いたしました>
次の瞬間、天井から、泥水スープの入った透明容器がポトンと2つ落ちてきた。
「……これ、一体船のどこから来ているんだろう?」
アーサーは不思議そうに天井を見上げた。
「お料理セット取ってくるね! おいで、ラティス!」
イブが嬉しそうに呼びかけると、部屋の隅に控えていた小型の多目的運搬ユニットが、キューキューと駆動音を鳴らして走行を開始した。
最近、一体どんな旧時代のアーカイブコンテンツに感化されたのだろうか。
イブは船内のあらゆる機械や器具に名前を付けては楽しんでいるようだった。
かつては光子ケーブルを運ぶためにこき使われていた運搬ユニットの「ラティス君」には少々気の毒だが、今では「お料理セット」と呼ばれる食器や調味料の箱をうやうやしく運ぶという平和な重任に抜擢されていた。
<最近、分子合成プラントにおけるグルコースの消費量が急速に増加しています>
「ああ。イブが時々、盗み……いや、積極的な糖分補給をしているみたいだからね」
<合成プロセス自体には何ら支障ありませんが、過剰な糖分摂取は生体維持において著しい悪影響を及ぼす可能性があります>
「まあ……夜遅くまで脳をフル回転させて勉強していれば糖分も必要になるさ。多少の摂取なら大目に見ようじゃないか」
アーサーはそう庇いながら、最近のイブの様子を思い浮かべた。
食べ物に強い興味を持ち、機械に勝手に名前を付け、気になることがあれば目を輝かせて挑戦してみる。
どうやら彼女は、知識の習得だけでなく、人間としての「遊び心」や「楽しみ」まで自力で覚え始めたらしい。
イブはテーブルの上に手際よく試供容器を並べ、泥水スープをこぼしながら注ぎ分けていた。
そして、お気に入りの甘味料の粉末をスプーンですくい、スープの中へ投入し始めた。
一杯。
二杯。
三杯。
四杯……。
「そういえばイブ、甘いものを無闇に食べ過ぎると、歯が溶けて全部なくなっちゃうんだぞ」
「え……?」
ちょうど六杯目を投入しようとしていたイブの手が、ぴたりと空中で止まった。
「君が夜遅くまで見ている人類の医療コンテンツの中にも、そんな話が書いてあるはずだ」
「もし嘘だと思うなら、今晩の読書で自分で確認してみるといい」
イブはスプーンを握ったまま、眉をひそめてしばらく真剣に考え込んだ。
「でも……アーバスはそんなこと言ってないよ?」
<私は、『イブの歯が直ちになくなる』という極端な表現は使用しておりません>
「……ほらぁ! アーサーの嘘つき!」
<ただし、生体科学的および歯科医学的に予想される客観的帰結として――甘い糖質を摂取すること自体が、即座に歯を喪失させるわけではありません。
しかしながら、人類の口腔内には糖分を栄養源とする多種の細菌群が存在し、それらが糖を代謝する過程において酸を生成いたします。
この酸によって、歯の最表面を覆う強固なエナメル質からカルシウムおよびリンが持続的に溶け出す『脱灰現象』が進行いたします。
これが長期間放置された場合、歯の表面に構造的な崩壊が生じ、いわゆる『虫歯(齲蝕)』へと発展いたします。
初期段階であれば再石灰化や適切な処置により進行を抑止することが可能ですが、さらに病状が進行した場合、エナメル質の内層に位置する象牙質を侵し、最終的には歯の中心部に存在する神経・血管の集合体である『歯髄』へと到達いたします。
歯髄には高密度の痛覚神経が存在するため、この段階に至ると極めて激しい急性痛を発症いたします。
冷温物や甘味による刺激だけでなく、最終的には何ら刺激を与えずとも持続的な激痛に見舞われることとなります。
さらに細菌感染が歯根周囲へと深部進行し、組織の保存が不可能な状態に至った場合、不可逆的な『抜歯』――すなわち、歯そのものを顎骨から外科的に摘出する処置が必要となる場合があります。
ヒトの永久歯には再生能力が存在せず、自然に元の状態へ戻ることはありません。
複数の歯を喪失した場合、食物の正常な咀嚼・破砕機能は著しく低下し、硬度の高い食品や特定の栄養素の摂取が困難となります。
また、糖分の摂取頻度が高ければ高いほど、口腔内が酸性に傾く時間が延長し、齲蝕の発生および進行リスクは高まります。
特に夜間の就寝中におきましては、自浄作用を持つ唾液の分泌量が低下するため、就寝直前に糖分を摂取し、かつ適切な口腔清掃――歯磨き――を行わない習慣を継続した場合、そのリスクはさらに高まります。
したがって、現在のイブのように夜間帯においても過剰に糖分を摂取する習慣を継続された場合、近い将来、耐え難い虫歯の激痛を経験し、最終的には抜歯が必要となる可能性があります。
そして歯を喪失した結果、将来的に満足な食事を摂ることが困難となる恐れがあります。
なお、補足事項といたしまして――現在の当船内医療プラントには、歯科治療用のアタッチメント機器および麻酔・切削設備は一切存在しておりません>
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静まり返った制御室の中で、イブは顔を引きつらせていた。
そして、六杯目のグルコースが山盛りになったスプーンを――そっと静かに、アーサーの泥水スープの器の中へと落とし入れた。
「……アーバス」
<はい>
「……お前、優秀だな」
<ありがとうございます>




