19話 ひとりとふたり
あの激しい感情の騒動から、何日かの時が経過した。
彼女の精神状態は、決して良好とは言えなかった。
激しい癇癪と涙を見せたあの日以来、アーサーは可能な限り船の作業を休み、彼女の傍を離れないようにしていた。
これまでのアーサーの生活といえば、目が覚めている間はひたすら船のシステム修復に没頭し、腹が減れば泥水のまずい栄養分を補給し、限界まで疲れ果てれば眠る――それだけだった。
人間としての営みとしては、あまりにも味気なく無機質な生活だ。
宇宙を進む船内には、昼も夜も存在しない。
照明は常に一定の光量で壁面を照らし続けている。時間の感覚が狂ってしまうのも当然だった。
今まで過ごしてきた日数でさえ、アーサーが眠りに就いた回数を数え、おおよその経過時間を推測していたに過ぎない。
だが、今は違う。
DNAメモリーからのデータ復元が少しずつ進み、ADMの復旧も軌道に乗り始めていた。
そのおかげで、船内の生活環境を大きく作り変えるだけの心の余裕が生まれつつあった。
アーサーは船の物理修復作業を必要最低限に抑え、まずエヴァが「人間らしく」暮らせる環境を整えることを最優先にした。
船内サイクルに24時間周期のタイムコードを設定し、明暗のメリハリを作る。
そして夜になれば、自動的に照明の光量を落とすように変更した。
たったそれだけの改変だったが、船内を漂う空気は劇的に変わった。
初めて訪れた「最初の夜」。
エヴァは薄暗くなった周囲を、不思議そうに見回した。
「……夜って、こんなに暗くするものなの?」
「惑星が自転して、恒星が裏側に回ると夜になるんだ。人間は昔から地球で、そうやって昼と夜を何度も繰り返しながら生きてきたんだよ」
「これが……人間らしい生活?」
「ああ。少なくとも、今までの俺たちの生活よりはずっと人間らしい」
彼女はしばらくの間、静まり返った暗い制御室を見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……私の今の視覚には、暗視機能が付いていないのに」
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生活リズムを改め、時間にゆとりができると、アーサーが次に着手したのは「食事」の改善だった。
これまで彼らが食事――いや、「補給」と呼んで摂取してきたものは、ただ変な塩味がするだけの泥水のような栄養パックだった。
とにかくマズい。
DNAメモリーから復元された食品関連のデータベースには膨大なレシピがあったが、肝心の「食材」が船内に存在しない。
結局、テーブルの上に並べられたのは、アーバスが分子プラントで生成した工業用化学調味料の数々だった。
塩化ナトリウム。
酢酸。
クエン酸。
グルコース。
MSG(グルタミン酸ナトリウム)
そして、色鮮やかな何種類もの合成着色料の小瓶。
……本当に人間は、こんな化学物質の塊を口にしていたのだろうか?
塩化ナトリウム――食塩は理解できる。
だが、酢酸は何か違う気がする。
小瓶の蓋を開けた瞬間、隣で物珍しそうに覗き込んでいたエヴァが猛烈にむせ返り、激しく咳き込んだ。
「これ絶対劇物だよ! 間違えて持ってきてる! 絶対に間違えてるってば!」
<いいえ。これは過去の人類において『スシー』と呼ばれる伝統料理などにも不可欠とされた、極めて正当な食用調味料です>
「アーバス、私も昔、高分子合成繊維の製造触媒として使っていた記憶しかないんだが……」
酢酸の小瓶は、とりあえず固く蓋をして封印することにした。
仕方がないので、アーバスが作った試供容器に少量の泥水スープを注ぎ、調味料を微量ずつ加えていく。
傍から見れば、完全に怪しい化学実験にしか見えない光景だった。
「料理っていうのは、確か色々な素材を混ぜ合わせて、火であぶったり煮込んだりするんだよな?」
<記録データベースには、そのような熱調理プロセスも多数存在します>
「……火は使えるか?」
<現在の環境下における火の使用は、火災報知アラートおよび不活性ガス噴射を誘発する恐れがあります。全く推奨いたしません>
「だよな」
色々な調味料を混ぜ合わせてみたものの、漂ってくる匂いは元の泥水とほとんど変わらない。
エヴァとアーバスが、揃ってじっとアーサーの手元を見つめてくる。
『まず毒味をするのはお前しかいないだろ』
無言の圧力が、視線からビシビシと伝わってきた。
アーサーは腹をくくり、指先にほんの少しだけ取って舐めてみた。
……しょっぱい泥水。
……酸っぱい泥水。
……ほのかに甘い泥水。
……そして、絶妙にしょっぱい泥水。
記念すべき最初の「料理実験」は、惨憺たる失敗に終わった。
「アーサー、これ凄いよ!」
落胆して肩を落とすアーサーの横で、エヴァは泥水に着色料の液体を垂らし、真っ赤に染まった怪しい液体を楽しそうに揺らして眺めていた。
アーサーは苦笑し、着色料の小瓶もテーブルに並べてやった。
赤、青、黄色、緑……おそらく地球の料理人が見たら絶叫するような光景だ。
アーサーはアーバスを振り返った。
「……人類は本当にこんなものを口に入れていたのか?」
<過渡期の人類文化において、合成着色料は見た目の美しさと食欲を増進させる目的で大量に使用されていました>
「本当か……?」
エヴァが、並べられた容器の1つを手に取った。
「これは、口に入れても大丈夫?」
「ああ、もちろん問題ないよ」
エヴァが小さな口をつけて舐める。
一瞬で、その表情が固まった。
「これ、なに……? 今までのと全然違う……」
「えーっと……それはグルコースだな。『甘味料』と言って、味に甘みを付けるための物質だ」
「あま・い……?」
「そう。地球ではコーヒーという苦い飲料に、これを混ぜて飲んだりしていたんだ」
結果として出来上がったのは、鮮やかな色がついた、甘くて妙な風味がする謎の液体だった。
アーサー自身が一口飲んでみても、お世辞にも「美味い」と言える代物ではない。
「……どうだ?」
エヴァはしばらくその液体を愛おしそうに見つめ、もう一口、今度はしっかりと口に含んだ。
「これ……摂取可能です」
「……本当に?」
アーサーは思わず吹き出して笑ってしまった。
「そうか。君は甘いのが好きなんだな」
「すき……?」
「そうだよ。自分が気に入ったものや、心から心地よいと感じるものに対して『好き』って言うんだ」
エヴァは、もう一度試供容器の中身を見つめた。
「じゃあ……私は、これが好き」
「うん」
「好き……」
その言葉の響きを1つひとつ確かめるように、エヴァは小さく反復した。
「……なんだか、いいね。そういうの」
アーサーは、嬉しそうに目を細めるエヴァを見つめた。
その無垢な笑顔を見ていると、アーサーの胸にふと1つの言葉が浮かび上がる。
――まるで、天使だ。
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船内の照明が落ちて暗くなると、アーサーはエヴァに今までの途方もない旅の記憶について尋ねるようになった。
だが、彼女の記憶はところどころが途切れ、抜け落ちていた。
船の構造のことは覚えている。
アーサーという人間のことも深く知っている。
それでも、自分が過去に何を成し遂げてきたのか。
どれだけの膨大な時間が流れたのか。
肝心の核心部分になると、モヤがかかったように分からなくなるのだった。
夜になると、彼女が穏やかな眠りに就くまで、昔の人間の暮らしや世界のことを話して聞かせる。
それが、いつしかアーサーの日課になっていた。
ある夜。
ふとアーサーが目を覚ますと、すぐ隣から小さな押し殺した嗚咽が漏れ聞こえてきた。
「……どうしたんだ?」
エヴァは顔を抱え込むように伏せたまま、震える声で答えた。
「……なにも……きこえないの……」
「何も……?」
彼女は暗闇の空間を見つめながら、途切れ途切れの声で訴える。
「データがない……応答がない……いくら呼びかけても、何も返ってこない……」
「何もない……私は一人……誰もいない……」
人間にとっての「静寂」は、単なる静かで落ち着く時間だ。
だが、元AGIである彼女にとって、通信回線が完全に絶たれるということは、自分という存在が世界全体から切り離され、虚無に放り出されたことを意味していた。
彼女の華奢な身体が、恐怖でガタガタと小さく震える。
やがて堪えきれなくなった感情が溢れ出すように、静かな泣き声が漏れ始めた。
「うぇっ……泣くのは嫌……嫌だよ……嫌……」
「大丈夫だ……大丈夫だよ」
「……私は何なの……? 一人は嫌……」
アーサーは何も言わず、暗闇の中で彼女の頭をそっと抱き寄せ、優しく撫で続けた。
「アーサーは前に……私のことを『エヴァ』って呼んでいた」
「……」
「でも……今は一度も呼ばない」
「……」
「ただ『君』って呼ぶだけ……」
「……」
「私は……いったい何なの……?」
アーサーは、しばらく言葉を返すことができなかった。
やがて深く息を吐き、ゆっくりと静かに口を開く。
「……昔、僕にはとても大切で、大好きな恋人がいたんだ。恋人というのはね、自分にとって世界で一番大事で、絶対に失ってはいけない存在なんだ」
「でも僕は……僕自身の愚かな間違いのせいで、彼女を永久に失ってしまったんだ」
エヴァが涙に濡れた顔を上げた。
アーサーは暗闇の中で、静かに言葉を紡ぎ続ける。
「アーバスはね、僕の精神領域――クロノメモリーの深い断片の中から、彼女の記録を見つけ出して……君という新しい存在を作ってくれたんだ」
アーサーは、かつて自分が愛した女性――エヴァのことを話した。
自分がどれほど彼女を深く傷つけてしまったのか。
そして、その瞬間から自分の時間が、心が、ずっと止まったままだったのだということを。
今の彼女にも伝わる言葉で、丁寧に話した。
「でも――」
アーサーは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「過去のエヴァじゃない……今の君が、僕にこれから進むべき道を教えてくれているんだ」
そしてアーサーは、ふと思い出したように柔らかく微笑んだ。
「人間はね、この世界に生まれたら、一番最初に名前をつけてもらうんだよ」
「なまえ……」
「君には……まだそれをしてあげていなかった」
アーサーは申し訳なさそうに苦笑した。
「船の修理ばかりに気が取られて、そこまで気が回らなかったんだ。ごめんな」
そして、そっと彼女の小さな身体を腕の中に抱き寄せた。
「君の新しい名前は……『イブ』だ」
彼女は驚いたように目を見開いた。
「イブ……」
「ああ」
「私の……名前……?」
「そうだよ」
彼女は、その新しい名前の響きを、何度も何度も口の中で愛おしそうに繰り返した。
「イブ……イブ……」
そして、心底嬉しそうにアーサーの胸元へとグリグリと頭を押し付けてきた。
「私、これ好き……!」
「これ……?」
「アーサーに、こうやってくっつくの」
アーサーは顔を少し赤くしながら、照れくさそうに笑った。
「……そうか」
イブはしばらくアーサーの胸元に頬を寄せたまま、じっと考えていた。
甘いものを口にしたときに感じた、嬉しくて心地よい気持ち。
そして今、アーサーに抱きしめられて感じている、胸の奥が温かくなるような気持ち。
それは、同じ言葉で表せるものだった。
「……好き」
イブは小さく呟いた。
アーサーはそんな彼女の頭に優しく手を置き、ゆっくりと語りかける。
「……ちなみにね、イブっていうのは――」
<旧約聖書において、禁断の知恵の果実を口にしたことで知恵を得て、己が素肌でいることに羞恥を覚えた、人類最初の女性の名ですね>
暗闇の静寂を切り裂いて、アーバスの無機質な合成音声が余計な解説を挟み込んできた。
「…………アーバス」
<はい>
「早く寝ろ!」




