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1話 無からの目覚め

何もない



何も・・・


暗くも明るくもない、"無"



「アーバス……?」


呼びかけたつもりだった。

しかし、返ってきたのは言葉ではなく、意味を持たない小さな音だった。

アーサーは一瞬、状況を理解できなかった。


意識はある。記憶もある。実験開始前のこと、今回の長期記憶蓄積予備試験の目的もすべて覚えている。


ならば、これは覚醒直後に発生する一時的な感覚障害だろうか。


彼は冷静に原因を探った。


過去の実験では、覚醒直後に様々な問題が発生している。

初期段階では、夢と現実の境界が曖昧になり、自分がどこにいるのか判断できなくなることもあった。

長時間の主観時間を経験したことで、記憶の整理が追いつかず、数時間ほど混乱状態が続いた事もある。


しかし、それらとは違う。

今回は記憶の混乱ではない。

身体の感覚そのものがおかしい。

腕を動かそうとするが、反応がない。

指を動かそうとするが、何も起きない。

目を開けようとする、それすらできない。

半覚醒状態では似たような経験はあるが、明らかにおかしい。


アーサーは、自分の状態を過去の実験データと照合しようとした。


神経接続エラー。

感覚情報の遮断。

運動信号の不具合。

可能性を一つずつ考える。


だが、どれも完全には当てはまらなかった。

思考だけは正常で、意識は明確に存在している。

記憶も人格も失われていない。

それなのに、自分の身体だけが存在しないような感覚だった。


「アーバス。」

もう一度呼びかけるが、声にならない


返答はない。

そこで初めて、小さな違和感が生まれた。

アーバスが応答しないことなどあり得ない。

実験中に異常な状況が発生しても、彼は必ず状態報告を返し対応してきた。

それが彼の役割であり、設計そのものだった。


焦りが少しずつ広がる。

まだだ。

まだ判断するには早い。

システム障害の可能性は残っている。

そう考えようとした瞬間、別の異常に気づいた。


呼吸がおかしい。

いや、違う。

呼吸しているかどうかを確認できない。

身体の状態を確認する手段がない。

自分が今、どこにいるのか。

どんな状態なのか。

何一つ分からない。


助けを求めようとするが、出るのは意味のない音だけだった。


だれか!

どうなっている!

心のなかで叫ぶが、どうしても声にならない。

まずいことになった!





どれほど時間が経ったのか分からない。

最初の数分間は、必死に原因を探っていた。

過去の実験データ、初期段階で発生した失敗例、記憶同期エラー、神経接続障害、記憶断片化症。

考えられる可能性を一つずつ並べ、検証しようとした。


しかし、どれだけ考えても答えは出なかった。

やがてアーサーは、一つの可能性を認め始めた。


――失敗した。

いや、失敗という言葉では足りない。

自分はもう死んでいるのかもしれない。

そう考えると、不思議なほど納得できた。

意識だけが残る。

身体もなく、外界からの情報もない。

これが死というものなのかもしれない。


研究者としてなら興味深い現象だった。

しかし、当事者としてはあまりにも静かで、そして恐ろしかった。

私はここで終わるのか。



どれほど経ったのか。

突然、わずかな違和感が生まれた。


何かがある。


最初は気のせいだと思った。

だが、確かに感覚が戻り始めている。


かすかな刺激。

皮膚を撫でるような感覚。

痒み。


アーサーは驚いた。

私は死んでなどいない!

存在しないと思っていた身体が、確かに存在している。

しかし喜びより先に、別の感覚が襲ってきた。

痒みは次第に強くなり、それは不快感へ変わった。

そして、不快感はやがて痛みに変わった。


激しい痛みだった。

経験したことのない種類の痛み。

実験中に記録された苦痛とは違う。

データとして分析する痛みではない。


ただ生き物として耐えるしかない、本能を揺さぶる痛みだった。

「……ぐぅ」


声を出そうとする。

しかし、言葉にはならない。

身体を動かそうとする。

反応した瞬間、全身を引き裂くような痛みが走る。


動かしてはいけない。

本能がそう告げていた。

アーサーは混乱した。


なぜだ。

なぜこんな状態で目覚めている。

研究者として、何度も記憶と人格の保存実験を繰り返してきた。


多少の混乱はあれど、生命そのものを実感したことなどなかった。

人間は普段、生きていることを意識しない。

呼吸していることも、身体があることも、ほとんど気に留めない。

しかし今、この瞬間だけは違った。


痛みがある。

苦しい。

怖い。

死にたくない。


その感情が、これまでのどんな実験データよりも鮮明に自分が生きていることを証明していた。


やがて、視界が赤くなる、

見える!

目を開いて確認しようとする。

光。

あまりにも強い光だった。

反射的に目を閉じようとする。

視界は白く染まり、何も見えない。


ただ、何かが自分の近くに存在していることだけは分かった。


音なのか。

振動なのか。

気配なのか。

判断できない。


だが確かにいる。

自分の側に、何かがいる。

アーサーは残された力で、その存在を認識しようとした。


アーバス?


光の中で、何かが動いた。

アーサーは必死に目を開こうとした。

しかし、視界は白く滲んでいる。

光が強すぎて、何かが見えているはずなのに、輪郭すら認識できない。


「……う……」

声を出そうとした。


だが、口から出たのは意味のない音だけだった。


助けを求めたい。

状況を確認したい。

しかし、言葉が出ない。


その時、何かが頬に触れた。


反射的に恐怖を感じる。

だが、その接触には敵意がなかった。

確かめるように、ゆっくりと触れている。


温度。

圧力。

わずかな刺激にアーサーは混乱した。


誰も立ち入れないはずの実験室に誰かがいる。

いや、何かがいる。

自分の状態を確認している。


もう一度、声を出そうとするが、やはり言葉にはならない。

すると、触れていたものが一度離れた。


数秒後、今度は左手に触れる。

指先が、手のひらをゆっくりとなぞる。

一定の間隔。

まるで信号を送っているようだった。


アーサーは気づいた。

これは意思疎通を試みている。

自分が何かを伝えられないことを理解し、別の方法を探している。


その考えに至った瞬間、胸の奥にわずかな安堵が生まれた。


おそらく何らかの原因でアーバスのサポートがオフラインとなり実験が失敗、緊急停止も働かずこのような異常な状態で覚醒したのだ。

そうに違いない


誰かは判らないが救命のために来てくれた。


大丈夫だ。

ここにいる。

そう伝えるために。

指先を、トントンと触れてくれる存在に安堵する。


しかし別の違和感もある。

脈を取るわけでも声をかけるわけでもない。

このような場合、救命システムはバイタル確認をしてしかるべき処置が出来る施設に搬送するはずである。


痛みに耐えながら顔を左へ向ける。


ぼやけた視界の向こうに、小さな人影があった。子ども……? いや、違う。

焦点が合うにつれ、その姿は人間とは微妙に異なることに気づく。

髪はなく、白く滑らかな外装。皮膚のような質感をしているが、どこか人工的だ。

子どもほどの背丈。しかし、その瞳だけは不思議なほど人間らしかった。


(なぜ子どもが実験室にいる……?)


声を出そうとするが、喉は震えるだけだった。代わりに右手を持ち上げようとする。重い。それでも何とか視界に入った手を見て、息をのむ。


小さい。


細い。


シワのない小さな手。


「これ……」

思わず漏れた声に、さらに全身が凍りつく。


高い。


女性?いや少年の声。

自分の声ではない。


「これ……なんだ……これ……」

混乱する頭を必死に落ち着かせる。隣にいるのは、おそらく救命用のロボットだろう。

人間と見分けがつかない外見で作るのは規制されていたはずだが、こんなにも精巧な新型が開発されていたのか。


「アーバス……聞こえるか……アーバス……起動……」


かすれた声で呼びかける。


「……トラブル……救命……要請……」

自分の声が自分のものではない。その違和感を覚えながらも、アーサーは思考を巡らせる。


脳の記録を書き出す実験だったはずだ。感覚麻痺を伴うようなエラーが発生するはずはない。神経伝達系も運動神経系も、記憶領域も理論上は影響を受けない設計だ。

それなのに、なぜこんな状態で目覚めているのか。


隣のロボットは、それまで微かな電子音のような信号を断続的に発していたが、アーサーの声を聞いた瞬間、その音がぴたりと止まった。

そしてゆっくりと口を開く。


「これですね。判りますか? 音声強度は大丈夫ですか?」


アーサーは安堵した。

「救命……センター……通報……」


ロボットは小さく首を傾げる。

「救命……センター?」


理解できていない?

アーサーは息を整え、言い直す。

「アーバス……起動……してくれ。」


「アーバス?」

また首を傾げる。


「起動……とは、動くことですね!」

どこか嬉しそうな声だった。

「アーバスというものを動かせばいいのですね!」


アーサーは小さくうなずこうとして、途中で固まった。

「右の……端末に……」

そこまで言って視線を動かす。

端末がない。

実験装置もない。

壁一面が白く、継ぎ目すら見当たらない。

見覚えのある実験室ではなく、まったく知らない部屋だった。


「……どこだ……ここ……?」

思わず声が漏れる。


ロボットはアーサーの言葉を繰り返すように、小さくつぶやいた。

「アーバスって何ですか?どこかさわると動きます?」

「起動ということは、何かの機能があるんですね!」

その瞳は好奇心で輝いているように見えた。

まるで、生まれたばかりの子どものように。


何だ、このロボットは……。

既に救命センターへ搬送されたのか。

それならアーバスが応答しないのも説明がつく。


病院ならアーバスではないが、施設の汎用AIが管理しているはずだ。

「アィーダ……誰か呼んでくれ……」


静寂。


返事はない。


その代わり、隣にいたロボットが小さく首をかしげた。

「誰もいないよ。」


一拍置いて、無邪気な声で続ける。

「アィーダは、人間なの?」


アーサーは思わず言葉を失う。

何だ、このロボットは。


声だけではない。

表情、視線、首をかしげる仕草、わずかな間の取り方。

どれも人間そのものだ。


ここまで人間に近いロボットは始めて見た。

新型という言葉だけでは到底片付けられない性能を見せながら、その受け答えはまるで世間を何も知らない幼い子どもだった。


「アィーダという人は居ないよ。」


ロボットは部屋を見渡すようにゆっくりと振り返り、再びアーサーへ視線を戻す。

「ここに居る人間は、あなただけ。」

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