序章 アーサー・アダムス博士
「おはようございます、アーサー博士。調子はいかがですか?」
いつもと変わらない、どこか優しげな声に起こされる。
「ああ……最悪だよ。」
重いまぶたを開き、ゆっくりと身体を起こす。
「何年も眠っていたような気分だ。……何度やっても、これだけは慣れない。」
首を回しながら壁の時計へ目を向ける。
実験開始から4時間。
予定どおりだ。
ベッドを降り、机に置かれた薄いガラス片のような情報端末を手に取った。
「記録は同期しているか?」
「はい、博士。主観時間45,870時間42分52秒。記録は正常に固定されました。前回との差異は0.92%です。」
端末には今回の実験結果が映し出される。
誤差はまだ残るものの、回を重ねるごとに主観時間の再現性は安定してきていた。
「生命指標が基準値を下回っています。回復シーケンスを推奨します。」
「あとでいい。」
アーサーは首筋へ手を伸ばす。
皮膚の下に埋め込まれた計測用インターフェースの接続を外す。
4時間。
現実では、たった4時間。
しかし、その間に取得できる記憶は約5年分に及ぶ。
実験を始めた頃は、夢と現実が混ざり合い、自分が何者なのかさえ判別できなかった。
だが今では違う。
長時間の記憶を安定して持ち帰る技術は、ようやく実用化が見え始めていた。
「アーバス。」
「何でしょう?」
「のどが渇いた、なにかくれないか。
あ、その前に実験中の出来事を要約してくれ。それと前回との差異だけ抽出しておいてくれ。重複データは破棄でいい。」
「了解しました。飲み物は、いつものものでよろしいですか?」
「ああ、頼む。」
情報端末には、恒星間探査機から送られてきた最新の観測記録が投影された。
「TRAPPIST-1星系で条件付きで居住可能性の惑星を確認」
人類ネットワークは祝賀ムードに包まれている。
だが、アーサーは興味なさそうに視線を逸らした。
「あれに積まれているのは、AGI戦争以前に建造された旧世代の自律型AIだ。」
居住可能な惑星を見つけたところで、生きている間にそこへ辿り着く術はない。
中に人など乗っていない。
数世紀をかけて目的地へ向かい、到着した探査機が調査を続けるだけの、途方もない計画だ。
AIの発展は、人類に爆発的な宇宙進出をもたらした。
だが、宇宙へ進出したのは人類ではない。
機械だった。
探査機も、人工衛星も、建設機械も、人間では到底管理しきれない数が宇宙へ送り出され、やがて忘れ去られていった。
結局、人類は火星への恒久移住すら実現できなかった。
月面都市建設計画も、幾度となく凍結と再開を繰り返した末に歴史の片隅へ消えていった。
人類は諦め始めていた。
だが人工知能だけは、人類の未来を信じ続けていた。
タイタン軌道工廠からは、今もなお新たな恒星間探査機が打ち上げられ続けている。
他の恒星系へ移住するなど、もはや夢物語に近い。
緩やかに衰退を続ける人類にとって、それが何の役に立つというのか。
アーサーには、その未来が残されているとは思えなかった。
それでも誰も口にはしない。
希望を失えば、人類はそこで終わる。
だから誰もが、気づかないふりをしている。
アーサーもまた、その1人だった。
脳科学の研究を続けてはいるものの、昔のようには評価されなくなった。
今では純粋科学に人生を捧げる研究者そのものが、時代遅れの変わり者として見られていた。
人類は、働く必要がなくなった。
生産も物流も医療も行政も、あらゆる社会基盤は人工知能が担っている。
飢える者はいない。
住む場所に困る者もいない。
病気で命を落とす者も、ほとんどいない。
人類は長い歴史の末に理想郷を手に入れた。
……その代償として、「生きる理由」を失った。
人々は危険なスポーツに熱狂し、極限環境へ身を投じる。
薬物に溺れる者。
新興宗教に救いを求める者。
現実と区別のつかない仮想世界で何年も暮らす者。
生きている実感を得るためだけに人生を消費していく。
アーサーには、それが人類の進歩には思えなかった。
人はいつか必ず死ぬ。
その瞬間、1人の人間が積み重ねてきた経験も、知識も、記憶も世界から失われる。
人類は何千年もの間、この損失を当たり前として受け入れてきた。
それは、人類にとってあまりにも大きな損失ではないか。
だから彼は記憶を保存する研究を続けている。
自分の研究は、そのための第1歩だ。
誰にも理解されなくてもいい。
何百年先でも、何千年先でもいい。
いつか誰かが、この研究の続きを歩いてくれるなら、それで十分だった。
人類の未来を1歩でも前へ進めること。
そのために考え、失敗し、また挑戦することこそが、人間の存在意義ではないのか。
「アーバス、現在の研究リソースを表示してくれ。」
「はい、博士。」
情報端末に研究アカウントが投影される。
計算資源:18,240ユニット
記憶容量:96.3ブロック
次期配分まで:14日
アーサーは小さくため息をついた。
「やっぱり足りないか……。」
「現在の残量では、95年分人格包括記録実験は実施できません。」
「必要量は?」
「推定必要計算資源182,000ユニット。推定必要記憶容量963ブロック。現在の割り当てでは、いずれも約10分の1です。」
「分かってる。だから予備実験から積み上げるしかない。」
「計算資源の追加申請を行いますか?」
「いや、却下されるだけだ。前回も『社会的有用性が低い』の一言だった。」
アーバスは数秒間沈黙した。
「現在の残量で実施可能な実験を再構成します。」
端末に新たなスケジュールが並ぶ。
次回実験:長期記憶蓄積予備試験
推定主観時間:45,000時間
消費計算資源:1,240ユニット
消費記憶容量:3.8ブロック
「……これならいけるな。」
「実施日時を明日9時に設定しますか。」
「ああ。あと、その次は95年分人格包括記録実験の準備を組んでおいてくれ。」
「承知しました。ただし、現在の配分では実行条件を満たしません。推定達成率10.02%です。」
「分かってるさ。」
アーサーは苦笑した。
「だからさ、その条件を満たすための実験を今やってる。」
アーバスは何も言わず、翌日の実験スケジュールを静かに確定した。




