【第9話】未発信の熱量、言の葉の種火
遠くに、いくつかの灯し火が見えた。
それはリズムを失い、夜の冷気に直接触れる神経そのもののように小さく震えていた。
灯りの少ない夜は、とどめていた感情が暗闇に溶け出すように溢れてくる。
昼間の賑やかさや、目の前の忙しさで誤魔化していた弱さ。
見ないふりをして蓋をした、壊れ物のような脆い本音。
そんな不器用な祈りを抱えたまま、行き場を失って立ち尽くしていた。
軒先の鐘が、震えるように鳴った。
その鐘の音が、波紋のように夜の底へ広がっていく。
すると、街灯さえ届かない闇の中から、淡い琥珀色の光が滲み出した銀髪の青年が姿を現した。
彼が背中の巨大な翼を静かに広げると、冷たかった夜風が、陽だまりのような熱を帯び始めた。
「……喉に刺さった言葉を、無理に飲み込もうとしなくていいんですよ」
塾の帰り、家の門扉の前で立ち往生していた。
玄関を開ければ、きっと父や母が「お帰り」と言うだろう。
本当は「ただいま」を、「ありがとう」や「ごめんなさい」が言いたいのに、口をついて出るのはいつも、心にもない苛立ちばかり。
自分が嫌になる。
「……最悪なんです。自分でもイタいって分かってるのに。親に感謝するなんて、恥かしくて、余計なことばっかり言っちゃって。本当の気持ちが、口から出てこないんです」
私が俯くと、銀色の髪を夜風に揺らした青年は穏やかに微笑んだ。
一定の距離を保ったまま、その羽毛の一筋一筋が光を纏った翼を、そっと扇ぐように揺らした。
触れられたわけではない。
けれど、翼が動くたびに、真冬の深夜とは思えない圧倒的な温かな風が、私の肩を、指先を、そして強張った心を、春の陽光のように包み込んでいった。
「あ……っ……」
翼から伝わる温もりは、お母さんの背中におぶわれていた頃の記憶を呼び起こすようだった。
あんなにイライラしていたのが嘘みたいに、トゲトゲした気持ちが静かに溶けていくのが分かった。
「きみの苛立ちは、愛を形にできないもどかしさの現れです。その震える種火を、私がしばらく預かりましょう。言葉にならない祈りほど、尊く輝くものなのですよ」
夜の冷気に直接触れ細やかに震えていた銀髪の青年の翼が光を増し、私の内側のトゲトゲした感情を丁寧に溶かしていく。
無理に飾らなくていい。
無理に大人ぶらなくていい。
ただ、ごめんねと言いたいだけ。
そんな自分の本音が、キラキラした光の粒になって、夜空へと消えていった。
「……すこし、楽になりました」
「きみの中の火は、もう暴れてはいませんよ。見てごらんなさい」
銀髪の青年が指差した足元を見る。
剥き出しの神経のように痛々しく揺れていた灯し火が、今は暖炉の火のように優しく、確かな熱を宿していた。
すると彼が白い翼をひと振すると世界が眩い白光に包まれ瞬きする間に、全部白に飲み込まれ、消えていった。
……。
さっきまでの光が嘘みたいに、いつもの静かすぎる帰り道に戻っていた。
淡い琥珀色の光が滲み出した銀髪の青年の姿はもうない。
背中に残る圧倒的な翼の温もりが、私に勇気を与えてくれた。
私は自分の手を一度見つめ、それから静かに家のドアを開けた。
「ただいま」
自分でも驚くほど柔らかな声が、家族の待つ部屋へと溶けていった
「……今日のご飯、何?」
感謝の言葉をすべて言えたわけじゃない。
けれど、棘のないその一言に、私は精一杯の「ありがとう」を込めた。
「愛を形にできないもどかしさ」、なんだか照れ臭い。
でも心に灯った消えない種火が、あの夜に触れた翼の柔らかな余熱を運び、明日を魔法のように、凍てついた胸の奥をじんわりと温め続けてくれる。
第 9話(完)




