【第5話 】不棄の情念、追想の残影
遠くに、ひとつの灯し火が見えた。
それは消えそうになっては輝き、強く光っては沈む。
激しく明滅を繰り返し、視界の端にいつまでも残り続ける、執拗な光。
そこは、セピア色の写真が舞い散るような、追憶の吹き溜りだった。
私は、両手で何かを抱え込むようにして、暗闇の中に座っていた。
捨てなければならないことは、分かっていた。
もう戻らない過去、届かなかった想い。
それらを引きずっているから、私は前に進めないのだと、誰もが言う。
けれど、これを手放してしまったら、私という物語が全て消えてしまうような気がして、私は必死に制服の裾を握り締め、指を固く結んでいた。
「……消したくない。どうしても」
足元で明滅する火を睨みつける。
それはまだ学生だった頃の放課後の誰もいない教室に差し込む、西日の眩しさに似ていた。
煩わしくて、痛いほど鮮やかで、けれどどうしても目を逸らすことができない。
「消そうとしなくて、いいんですよ」
隣に座った彼が、私の白くなるほど固く握られた手を静かに見つめて言った。
「これは執着だ。これのせいで、私は苦しいんだよ。綺麗な思い出にできない私が、一番格好悪いって分かってるのに」
私が吐き捨てるように言うと、彼は背中の翼を微かに震わせた。
その翼は、夜を閉じ込めたような深く静かな紺青を湛えながら、羽根の隙間から星屑のような淡い光を零している。
「執着……。それは言い換えれば、きみがそれほどまでに誰かを、あるいは自分を、熱く愛そうとした祈りの燃え滓。痛みが消えないのは、それだけきみの物語が真剣だった証なんですよ」
彼はそう言って、大きく広げた翼で、私と明滅する火をふわりと包み込んだ。
翼が重なり合うとカサリッという微な音が、現実の喧騒を遠ざけていく。
翼の内側は、驚ほど温かく、そして切ない香りがした。
「無理に笑わなくていい。忘れなくていい。その明滅する痛みを抱えたまま、僕と一緒にただ呼吸をしましょう。きみがその重みを自分の一部だと思えるようになるまで、僕の翼が、きみの影を半分背負いましょう」
暗闇と光が混ざり合う翼の檻の中で、私はようやく指の力を抜いた。
消そうと願うほど強く光っていた火が、彼の柔らかな羽毛に触れ、安らいだように瞬き穏かに変えていく。
「……消さなくていいんだね。このままの私で、明日に行ってもいいんだね」
「ええ。その消えない火こそが、いつか暗い夜道を歩くきみの、足元を照らす唯一の灯火になるのですから」
彼の翼から溢れる静かな光が、私の頬を濡らした涙を優しく照らしていた。
「消えないことを許してあげてください。忘れられない自分を、許してあげてください。そうすれば、あの激しい明滅も、いつか暖かい揺らぎに変わるでしょう」
私は、固く握っていた手の力も、少しだけ抜くことができた。
手放したわけではない。ただ、それを抱き締めるのを止め、膝の上に置くことにした。
それだけで、呼吸が驚くほど楽になった。
彼の白い羽が散り、明滅する火と混じり合って、静かな銀河のように広がっていく。
「あなたが消せないと思える全ての経験は、孤独を越えた先に宿る誇りなのですよ。」
……。
枕元で震えるスマートフォンの無機質な振動が、浅い眠りの幕を引き剥がした。
私は重い身体を起こし、節々が軋むのを感じながら、白く濁った冬の光が差し込む寝室を見回す。
胸の奥には、あの消し去ることのできない「想い」が、古い傷跡のように確かな手触りで鎮座していた。
仕事の段取りを考える思考の隙間を縫って、苦い後悔や、二度と手に届かない温もりが、不意に心を刺す。
けれど、今日の私は、その痛みを忌み嫌って蓋をしようとはしなかった。
洗面所の鏡に映る、年相応に疲れた中年の男の顔を見つめ、心の中で静かに呟く。
「ああ、まだそこに居ていいんだよ」
昨夜、夢幻の淵で出会った銀色の髪の「彼」を思い出す。
絶望に近い執着を、彼は否定しなかった。
紺青の翼を広げ、私の見苦しいほどの未練ごと包み込んでくれた際の、あの羽毛の温かさと切なさが、今も背中に淡い余熱として残っている。
『執着は、きみの物語が真剣だった証です』
その言葉が、社会の中で「強い大人」を演じ、感情を切り捨てることに慣れ過ぎた私の心を、根底から救ってくれた。
ネクタイを締める指先に力を込める。
手放せない過去があるからこそ、私は今、ここに立っていられるのだ。
消えない光を胸に抱いたまま、昨日と変わらない、けれど微かに色彩を取り戻した街へと歩みを進める。
駅へと向かう道すがら、冷たい風がコートの襟を抜ける。
周囲には同じように無表情に歩く勤め人たちが溢れているが、その一人一人の内側にも、きっと彼が教えてくれたような、人知れず明滅する灯し火が在るのだろう。
そう考えると、孤独はもはや敵ではなかった。
「影を半分背負う」と言ってくれた彼の約束が、混雑した電車の中で私の体幹を支えてくれている。
消えない想いを、恥ずべき重荷ではなく、孤高な誇りとして受け入れた私の足取りは、昨日までの倦怠を脱ぎ捨て、地面を確かに踏み締めていた。
私は今日も、消えない傷とともに生きていく。
それが私という男の、唯一無二の光なのだから。
第 5話(完)




