遠くに、いくつかの灯し火が見えた。
それは静止し、いっさいの揺らぎを持たなかった。
けれど、その光からは、命の証であるはずの熱が、微塵も伝わってこない。
私は、背筋を伸ばして立っていた。
崩れてはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
誰も助けてくれないのだから、私だけは完璧な「私」を演じ続けなければならない。
今日も私は完璧だった。
挨拶は明快に、仕事は迅速に。
心の奥で悲鳴を上げている「内側の私」に、厚い鉄板を被せ、その上に綺麗な塗装を施した。
そうしていれば、大丈夫。
誰も私を傷つけられないし、私も誰かを困らせなくて済む。
けれど、鏡に映る自分が、自分ではない誰かに見えたとき、私はこの淵に立っていた。
そこは、冷たい鏡の中のような世界。
風もなく、音もなく、ただ無機質な群青の空間が広がっていた。
「……何も感じない」
自分の指先を噛んでみるが、感覚が遠い。
寒さも、悲しみも、喜びさえも、分厚い防護服の向こう側の出来事のようだ。
「ずいぶんと立派な外殻を身に纏いましたね」
氷の表面を滑るような、静かな声がした。
銀色の髪を持つ「彼」が、私の数歩手前で立ち止まっていた。
「きみの『大丈夫』は、世界に向けた宣言であって、きみ自身の姿ではありませんね。内側にある『本当の姿』は、その冷たい光の影で、凍えて震えていますよ」
彼は静かに歩みを進め、拒絶の色を隠せない私の正面に立った。
そして、背中に畳まれていた白く巨大な翼を、音もなく解いた。
「少しだけ、肩の力を抜いてくださいね」
彼が翼を大きく広げると、周囲の停滞していた空気が一変した。
白い翼の一枚一枚から、淡い黄金色の光の粉雪が私を包み込んだ。
彼は優しく微笑むと、その片方の翼を私の背中へ回し、繭のように包み込む。
「あ……」
翼の感触は、想像を絶するほど柔らかい。
赤子の頬に触れるような、あるいは陽だまりに溶ける雲に抱かれているような。
何よりも驚いたのは、その圧倒的な熱だった。
凍てついていた私の表面は、彼の翼が触れた瞬間、音を立てて融解していく。
「苦しかったですね。誰にも弱さを見せず、独りで凛と立ち続けようとするのは、どれほど過酷なことだったでしょうか」
彼は囁きながら、翼の内側で私を抱きしめた。
白いダウンのように豊潤な翼の束が、私の強ばった筋肉を一層ずつ解していく。
首筋に触れる羽毛の一筋までもが、意思を持った温もりとして浸透し、心の中に溜まった冷たい鉛を溶かしていった。
「……っ、あぁ……」
堪えていたものが、決壊した。
彼の腕の中で、私は自分が思っていたよりもずっと小さく、震えている存在であることを知った。
鎧のように固めていた「強がり」が、翼の温かさに当てられて、脆くも崩れ落ちていく。
「いいんですよ。この翼の中では、完璧である必要はありません。きみの弱さも、震えも、すべてこの翼が吸い取ってしまいますから」
彼は私の後頭部を優しく包み、自分の胸元へと引き寄せた。
翼から溢れ出す光が、私の視界を白く塗り潰していく。
それは意識を奪う白ではなく、すべてを許容し、書き直してくれる慈悲の色だった。
私の嗚咽が止まらなくなる。
彼の清潔な香りと、翼が擦れ合う微かな囁き。
その至福のような癒やしの時間を経て、私の前にあった青白く冷たかった灯し火が、ようやく人間の吐息を受けたかのように、柔らかく、暖かな琥珀色へと変化し、小さく揺れ始めた。
「……ありがとう」
頬を赤らめ、涙に濡れながらも、自分の体温を取り戻し、掠れた声で呟いた。
すると彼は再び翼を大きく羽ばたかせ淡い黄金色の光の粒を振りまいた
……。
朝のアラームが鳴る。
私は一度だけ深呼吸をし、鏡の前に立った。
仕事に行くための化粧をし、乱れのない服を着る。
外側は、昨日までと同じ「しっかりした私」だ。
けれど、今日の私は、自分の内側が震えているのを隠さない。
自分の瞳を見つめる。
そこには、独りで戦うための鋭い光ではなく、自分を愛おしむような、穏な琥珀色の輝きが宿っていた。
背中を支えてくれた、あの白い翼の温もりを、微かに肌に感じた。
「行ってきます」
自分でも驚くほど柔らかな声が部屋に溶けていった。
第 4話(完)